労働者って何?

 社会人になると必ず関わる法律に労働法があります。この労働法が何を指すかにはいろんな解釈がありますが、例えば労働基準法もその一つです。およそ社会に出て労働する限りこの法律はつきまといます。

 ある意味では社会人にとって最も身近な法律と言えるかもしれません。アルバイトやパートタイマーの自分にはあまり関係ないなと思っている方もいるかもしれませんが、年次有給休暇(いわゆる有休)は、たとえ短時間のアルバイトであったとしてももらえます。

 労働基準法39条3項では、一週間の所定労働時間が30時間未満であり、その労働日が4日以下の者、もしくは週以外の期間によって所定労働日数が定められている場合には、年間所定労働日数が216日以下である者に、所定日数に応じて(6ヶ月から1年ごとに)最低1日から最高15日まで付与される事になっています。

 また、これに該当しない労働者には、通常の労働者と同じ日数の年休がもらえる事になっています。つまり、働きに応じて当然にもらえるわけです。

 でも、実際は守られてない場合もあるのではないかと思います。何も知らされずに辞めてしまったり、言い出しにくい状況があって泣き寝入りしたりする場合もあるでしょう。

 自分の権利を主張する事は、その職場で長く働く場合にはいくら法律で決められていたとしても、なかなか実行できる事ではありません。むしろ、法律を持ち出さずにトラブルを回避しようとするのが普通ではないでしょうか。労働を巡る紛争も結局のところはそういう所にあるのだと僕は思います。サービス残業をしてない会社が存在するとも思えません。

 それでも知っておいた方がいい法律知識もあります。例えば、通勤災害はどうでしょう?簡単に言えば、通勤中にケガをしたとして労災が認定されるかどうか、です。

 では、法律では「通勤」とはどういう規定になっているのでしょう?

 そんなの簡単だ、会社から自宅までの往復の事だと思う方もいるでしょう。確かにそれは正解です。しかし、それは同時に正解の一つでしかありません。

 労働者災害補償保険法第7条2項では、「通勤」とは労働者が住居と就業の場所との間を、合理的な経路及び方法により往復する事を指し、労災保険の保護を受けられる業務災害を除くものを指します。

 つまり、これはさっきの事を難しく言い換えたに過ぎません。

 では「住居」とは何でしょうか?

 それこそ自分の住んでいる所だと言うのが普通ですね。

 では、普段は家族のいる場所から通勤するけれども、一時的に別の場所から通勤する場合はどうでしょう?台風で家に帰る事ができずホテルに宿泊し、そこから出勤した場合は??これは認めてあげないとかわいそうな気がしますね。

 ではでは、知人の家に泊めてもらってそこから通勤した場合は??この辺りになると怪しくなってきます。

「就業」の場所とは、会社主催のイベントも含まれるのでしょうか?

 通勤経路にしても、例えば会社帰りに飲みに行き、カラオケボックスに寄って帰れば労災と認定されない事は分かりそうですが、ではキオスクでタバコや飲み物を買った場合は?駅のトイレを借りただけで経路から外れてるなんて言われたらたまらないですよね。

 でも独身の人が帰りに定食屋で外食をする場合や日用品を購入する場合はどうでしょう?また怪しくなってきました。託児所に寄ったら通勤にあたらないと言われると正直腹が立ちませんか?

 もちろん法律はそんな理不尽な規定にはなっていません。今ここに書いたような日常の行為として自然な行動は通勤に含まれます。

 こういった事を知っているかいないかで損をしている場合はありそうです。

 もちろんこのブログで僕が伝えたい事は単にどんな法律があるかといった知識だけではありません。もう一歩踏み込んで法律を使ってトラブルを解決するとはどういう事なのかを一緒に考えていきたいと思っています。その素材を提供するのが主眼なのです。

 さて、話の長いのが僕の悪い癖ですが、今回はそんな労働者の実際の争いについてご紹介したいと思います。

 <個別に労働関係にある労働者の境界線とは?>最高裁平成8年11月28日

 Xは、訴外A会社と運送請負契約を締結して、昭和58年9月頃からAの横浜工場において自ら持ち込んだトラックを運転する形態の運転手として運送業務に従事していたが、昭和60年12月に同工場の倉庫内で、運送品をトラックに積み込む作業中に負傷した。Xは本件事故による療養と休業について、労働災害補償保険法(以下、労災保険法)所定の療養補償給付等の支給をY労其署長に請求したが、YはXが労災保険法上の労働者にあたらないことを理由に不支給処分とした。そこでXは当該処分の取消しを求めて訴えを提起した。

 これはどういう訴えでしょう?もう一度読んで自分なりに考えてみて下さい。

 少し違うかもしれませんが、例えば個人タクシーというのはお客さんを運ぶ仕事です。運べば運ぶだけお金がもらえるはずです。で、その仕事中にもしケガした場合、この個人タクシーと契約している親会社が労災と認めて補償するかどうかというのに似ていると思います。結局、親会社が認めなかったからドライバーさんが訴えたわけです。

 ではなぜ認めなかったのでしょう?

 まっ、単純にお金を払いたくないのかもしれません。でも裁判になる以上、そんな理由だけでは負けてしまうでしょう。そこには何か客観的で明確な根拠が必要になるはずです。

 本件の場合で言えば、運送会社がどの程度運転手に任せていたか。つまり、どれくらい運送会社の管理の下で働いていたか。個人営業との境界線をきちんと決めないとどちらも納得しないわけです。

 より具体的に言えば、「倉庫から運送品を積み込む際のケガ」は、「運送会社の管理内での作業」と言えるかどうか。ここに争点がある事になります。

 第一審(横浜地裁平成5・6・17)は以下のような判断基準を提示しました。

 1.労災保険法の適用を受ける労働者は、同法が労働基準法第8章「災害補償」に定める使用者の労災補償義務に関わる責任保険であることから、労働基準法の労働者と同一と解すべきである。

 2.労働基準法上の労働者は使用従属関係の有無によって判断され、その有無は諸般の事情を総合的に考慮して判断される。

 では、労働基準法上の「労働者」とは?

 労基法第9条:この法律で「労働者」とは、職業の種類を問わず、事業又は事務所に使用される者で、賃金を支払われる者をいうとなっています。

 だから、単に事業で使用されていると認められた者ならたとえ離れた場所にいても補償されるわけですね。

 AのXに対する業務遂行に関する指示や時間的場所的拘束は、請負契約に基づく発注者の請負人に対する指図やその契約の性質から生ずる拘束の範疇を超えるとして、Xの労働者性を肯定しました。つまり、補償したれよと言ったわけです。

 ところが続く第二審(東京高裁平成6・11・24)判決では、第一審と同じような一般論を展開しつつも、

 労働者かそうでないかの判断が難しい事例については「法令に違反していたり、一方ないしは双方の当事者(特に働く側の者)の真意に沿うと認められない事情がある場合は格別、そうでない限り、……できるだけ当事者の意図を尊重する方向で判断するべきである」としました。

 さらに本件については、Xが労働者でないことでガソリン代等の運送経費や事故の損害賠償責任を負担し、就業規則の適用がなく、福利厚生の措置もなく、労働保険や社会保険の被保険者とされない等、Aの側で報酬以外の労働費用やトラックを所有した場合の経費等が節約される分、報酬も従業員運転手より多額であり、そのまま一つの就業形態として認めるのが相当として、Xの労働者性を否定したYの処分を適法としました。

 つまり、あんたは十分一人でやっていけてるんだから補償しないよとなったわけです。当然、Xさんは上告しました。

 これに対し、最高裁は上告を棄却しました。つまり、補償しなくてもいいと言ったのです。理由は以下の通り。

 1.Xは業務用機材であるトラックを所有し、自己の危険と計算の下に運送業務に従事していたものである上、Aは運送という業務の性質上当然に必要とされる運送物品、運送先及び納入時刻の指示をしていた以外には、Xの業務の遂行に関し、特段の指揮監督を行っていたとはいえず、時間的、場所的な拘束の程度も一般の従業員と比較してはるかに緩やかであり、XがAの指揮監督の下で労務を提供していたと評価するには足りない。そして、報酬の支払方法、公租公課の負担等についてみても、Xが労働基準法上の労働者に該当すると解するのを相当とする事情はない。

 2.Xは専属的にAの製品の運送業務に携わっており、同社の運送係の指示を拒否する自由はなかったこと、毎日の始業時刻及び終業時刻は、右運送係の指示内容のいかんによって事実上決定されることになること、右運賃表に定められた運賃は、トラック協会が定める運賃表による運送料よりも1割5分低い額とされていたことなど……を考慮してもXは労働基準法上の労働者ということはできず、労働災害補償保険法上の労働者にも該当しない。
 こうやって具体的に基準を明確にしていくのが判例の役割とも言えそうです。つまり、Xが一般のトラック運転手と比べてどういう待遇を受けているかが認定の基準とされたのですね。

 これも知識の一つと言えば、それまでですが、どうやって判決が下されるかと言えば、あくまで双方の利益を考えつつ、妥当な結論を導くのが裁判所だという事は知っておいた方がいいでしょう。

 たとえ、理不尽な判決に見えても、これが後の判決の類似事例の参考になりうると考えると判例というのはなかなか責任の重いものである事が分かって頂けると思います。

制限行為能力者って何?

「行為能力」という言葉をご存じでしょうか?『法律用語辞典(有斐閣)』によれば「法律行為を単独で行うことができる法律上の資格」とあります。

 これは例えば、お店に行って「これください」と商品を選び、お金を出せば売買契約が成立するという事です。売買契約って堅苦しいな〜と思われるかもしれませんが、法律的に表現するならばそういう事になります。

 「契約」というからには双方の意思が必要です。つまりお客さんからすれば「買いたい」、店員からすれば「売りたい」という事です。相対立する立場の間で意思の往来があるわけです。そんなの考えた事もないでしょうが、確かにそうですね。

 この意思を「意思表示」と呼びます。

 だから、僕には意思表示をしてお店の品物を一人で買う事のできる資格があり、それが「行為能力」という事になります。

 ものすごく当たり前の事を難しい表現で言い換える必要があるのか?と思う人もいるでしょう。だから、法律って嫌いだと思う人がいてもおかしくありません。

 答えはもちろん「必要がある」のです。

 先ほど「僕には」と表現しました。もちろんみなさんは僕の事を知らないでしょうから、念のために書きますと、一般的な成人男性です(こんなブログを書いているので、一般的でない気もしますが)。

 ところで「法律」とは誰に向けて使われるものでしょうか?

 もちろん国民ですね。法律の中には憲法のように国家の側を規制するものもありますから、ここでは民法に話を限定しましょう。つまり、日常のもめごとに法律を持ち出した場合に使われるのが民法で、それは普通誰にでもあてはめられます。

 だから実際の法律問題は「誰の」問題なのかを考えないといけません。この場合であれば、「僕には」という表現がそれです。「僕」は一人で物が買えます。でも、未成年はどうでしょう?あるいは本人に判断を任せられないような精神上の障害を持った人の場合はどうでしょう?

 「法律を考える」というのは実は「人間を考える」という事でもあります。人にはそれぞれ事情があり、立場も異なります。みんなで生活する場を社会と呼び、だからこそそこには一定のルールが必要です。信号を守らなければ危なくて外にも出られません。

 それでもルールを守らない人は、国家権力で罰するしかありません。逆にそうしてもらわないと秩序ある社会など生まれませんよね。

 話を戻しましょう。欲しくもないのに「買いたい」と言ったり、小さな子が欲しいと言ってマンションを買ったらどうなりますか?(すごい子どもですね)やっぱりそれはキャンセルする方法がないと理不尽な感じがしますよね。

 つまり、意思表示が満足にできないと判断される人には何らかの制限をかけて保護してあげようというのが「制限行為能力者」なのです。民法4〜21条に規定があります。家にもし眠っている六法があれば叩き起こしてみて下さい。昔の民法はカナ表示なので見づらく、また改訂前ですので異なる条文もありますから、ネットで検索してもいいと思います。

 例えば、未成年者が法律行為をするには法定代理人(普通は親ですね)の同意が必要なので、それに反した行為は後から取り消す事ができます。でも、文房具やマンガ一冊買うのにも同意が必要で後から取り消されてしまうというのはどうでしょう?

 本人も困りますが、店の人も困りますよね。

 今の話は法律を持ち出すまでもなく、みなさん経験がある事ではないでしょうか?ちょっとご自分の経験で考えてみて下さい。これどう思います?

 ちょっと納得できませんよね。それにもしこの条文通りだとすれば、違反しまくりです(笑)

 もちろん、法律はそんな理不尽な取り決めにはしません。何より理不尽すぎれば誰も従わないでしょう。だから但し書きがあります。

 「第1項の規定(さっきのあれです)にかかわらず、法定代理人が目的を定めて処分を許した財産は、その目的の範囲内において、未成年者が自由に処分することができる。目的を定めないで処分を許した財産を処分するときも、同様とする」

 小遣いはこの「目的を定めないで処分を許した財産」に該当するので、僕も含め誰も間違っていないわけです。

 こういうのが「法律で考える」という事です。

 さて、ここまでは今日の事例を考える予備知識に過ぎません。今日の議題は、現在の制限行為能力者とされる「未成年者・成年被後見人被保佐人・被補助人」よりも以前の話です。しかし、議題の論点としては特に変わるものではありませんので、考察していきたいと思います。

 
 <制限行為能力者の黙秘はどこまで認められるのか?>民法判例百選(最高裁昭和44年2月13日第一小法廷判決)

 Xは、知能程度が低いうえに浪費癖があったので、昭和12年禁治産宣告(現・保佐開始審判)を受け、その妻X’が保佐人に就任した。Xは昭和30年1月22日、本件土地110坪を代金41万2500円でY1に売却し、同年7月6日に所有権移転登記がなされた。Y1は同年11月10日に本件土地をY2に売り渡し、同月12日所有権移転登記がなされた。Xから、保佐人の同意がなかったことを理由にXY1間の上記売買契約を取り消し、Y1Y2のためになされた上記各所有移転登記の抹消を求めたのが、本件における事実の概要である。

 何じゃこりゃ?

 そう思う人も多いのはないでしょうか?そもそも何が書いてあるのか読むのが面倒臭いというのは僕が初めて判例を読んだ時の率直な意見です。誰が誰に何をして、どこが問題になっているのかがさっぱり分からないのです。

 それは一つに法律文書の独特の言い回しが原因だと思います。例えば、全部が間違いとは言えないかもという表現も「全ての論拠を否定するものではない」とか「肯定しうるだけの因果関係は認められなかった」とまるで「記憶にございません」「前向きに善処致します」という国会答弁の政治家のような言い回しは関西人の僕にとっては「だからどっちやねん!」とつっこみをいれたくなるような文章のオンパレードで、いらいらします。

 でも、そうやって難解な言い回しにつっこみを入れつつ、法律用語を調べていくと、身近な話に感じたり、とかくおかしな裁判例ばかりが取りざたされるわりには、案外まともな結論だなと思ったりする事も結構あります。また、何と難しい判断が求められる事例だろうと一緒に考えたりもするのです。

 書いてある文章がさっぱり分からない場合、誰が誰に何を訴えているかを図にするのが一般的です。

 X→Y1→Y2の流れが見えますか?

 →は売られた土地の流れです。つまりXがY1さんに土地を売り、それをY2さんに売り渡し、最終的に所有権も移ったわけです。

 これだけなら特に問題が無いように見えます。でも、このXさんは制限行為能力者だったので、単独では契約が結べないのですね。つまり、保佐人の同意が必要なのです。そこで、Xからその事を理由にキャンセルさせてくれと訴えがあったのです。

 だったら認めるべきだと思いますか?

 確かにXさんの側から見れば当然のように思えます。でも訴えられた側はどうでしょう?法律で決まっているからといって、「はいそうですか」と納得するでしょうか。土地の売買はお菓子を買うのとは違います。それなりの理由があって、納得の上で購入したはずです。そこで何とか法律を使って対抗できないだろうかーこうして裁判沙汰になるのでしょう。どこにも書いていませんが、何らかの事情で保佐人である妻から夫に取消請求をさせたというのが実際のところだと思います。

 では、反論に使われた法律とはどのようなものだったかと言えば、

 民法21条「制限行為能力者が行為能力者であることを信じさせるため詐術を用いたときは、その行為を取り消すことができない」

 というものでした。ここで「詐術(さじゅつ)」というのは簡単に言えば、「人をだます」という事です。

 つまり、Xさんが自分が制限行為能力者ですよと言わなかった、もしくはあたかも自分は単独で契約が結べますよと見えるように装ったからこそ、それを信じて契約したのに、後から無効ですと言われても困りますよとYさん側は主張したのです。

 これが論点ですね。

 さて、これ以上は条文には書いてありません。つまり、この判例が出るまではこの文言をどういう風に解釈するかは決まっていなかったのです。

 これが人を裁くという法律の限界です。でも逆に言えば、あらゆる事を想定して条文を作る事など不可能です。ネットが無い時代にはまさか自宅にいながらにして銀行振り込みができるなんて想像すらできなかったはずで、それに対する犯罪を取り締まる法律を考えられるはずもありません。

 といって、頻繁に法律を変えるわけにもいかないですし、いろんな人が勝手に解釈しても結論が変わるのであれば不公平です。そこで、最高裁判所の出した判決例が今後の類似事例で重要視されるのですね。

 日本の裁判が三審制というのは小学校で習ったと思います。こういう場合、もめれば三回文句を言うチャンスがあるわけです。

 地方裁判所高等裁判所最高裁判所という流れです。では、同じように流れを見ていきましょう。

 第一審の京都地裁昭和35年6月20日)では「いわゆる『詐術』とは積極的術策を用いる場合はもちろん、単に相手方の誤信を誘起しまたは誤信を強める行為あるをもって足るものと解するべきである」と述べ、Xがだましたと判断し、Xのキャンセルを認めませんでした。

 続く、大阪高裁(昭和42年2月17日)ではこの一審を取り消し、以下の理由でXの請求を認めました。

 「無能力者が同意を得ずして法律行為をなす場合、相手方に自己が無能力者であることを黙秘するのは、むしろ当然のことで、いわば世間普通の状態であり、もし単なる黙秘が詐術になるとすれば、無能力者であることを善意の第三者に対抗し得ないというのとほとんど同じ結果になり、無能力者を保護するために取消権を与えた法の精神を全く滅却するに至ることになるのであるから、黙秘が具体的状況のもとにおいて詐術としての積極的意味をもつものと評価すべき特段の事由がある場合は別として、一般的にはこれに該当しないものと解するのが相当である」

 どうしてこんなに婉曲的な表現なんだろうと思うのですが、まあこれが判決文なんですね。

 つまり、Xさんが自分は無能力者だと言わなかったとしてもそれはむしろ普通であって、それを認めないなら、全く事情の知らない他人と結んだ契約を取り消せず、保護するつもりで作った法律の意味が無い。特別な事情があるなら別だけどね。と言ってるわけで、つまりXさんの行為は取り消せますよとしたのです。

 もちろんYさんはこれに文句を言って最高裁へ上告しましたが、棄却されました。つまり、Xさんの行為はやっぱり取り消せるとしたのです。

 では、実際にXさんとYさんとでどのようなやりとりがあって、どこが決め手となったのかが分からなければ納得できませんよね。つまり、どの程度Xさんがだまそうとした(とみえた)のかです。以下も判決文です。

 本件においては、まず準禁治産者であることを黙秘しただけでは詐術を用いたといえず、次にXは代金額の決定、登記関係書類の作成、知事への許可申請などにある程度積極的に関与しているものの、これをもって詐術を用いたとはいえず、そして仲介者の「畑(本件土地)は奥さんも作っているのに相談しなくともよいか」との問いに対して、Xが「自分のものを自分が売るのになぜ妻に遠慮がいるか」と答えている(第一審ではこれが詐術とされた)が、これはXの能力に関しての発言ではないから詐術を用いたとはいえない。

 どうでしょう?実際の判決とはこういうものなのですね。平たく言えば、きちんと証拠を出して、いかに説得力のある結論を出すかという事でしょうか。でも逆に言えば、証拠が無くて(出せなくて)裁判官を納得させられなければ負けるわけです。この辺りに弁護士の手腕が問われるのですね。

 こうしてただ出された結果を一読すると気付かないかもしれませんが、京都地裁から最高裁の判決まで約10年もの年月がたっています。実際、Xさんは京都地裁の5年後に他界し、その奥さんと子ども2人が共同相続し、本件訴訟を引き継ぎました。きっとYさんの側にも事情はあるでしょう。

 裁判というのは実に労力がいりますし、費用も負けた方が負担となります。漫画『カバチタレ!』などを読むと何かと裁判沙汰にならないように当事者同士の理解を求めますが、それも賢い選択かもしれません。

 ただこのブログで僕が伝えたい事は、新聞記事やニュースで目にした事件に対して、ちょっと法律的な根拠を考えてみる。もしくは自分でも類似事件を調べてみる。というとっかかりになればいいなと思います。少なくとも問題と答えだけを紹介するものを見るよりは、その方がよほど自分のためになるのではと思うのです。

 例えば、先日甲府市英会話学校が幼稚園に派遣する外国人の条件を「金髪、目は青か緑色」と限定した求人ポスターを半年間掲示し、人種差別として抗議を受け、謝罪のうえ撤去したという話がありました。みなさんはどう考えますか?

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カバチタレ!(1) (講談社漫画文庫)

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伊藤くんのひとりごと?

65

 すごいのはガチャピン、である。
 ムックではない。

 ガチャピンというのは、フジテレビの人気番組ポンキッキーズ21に出ている、あの緑の恐竜もどきの生物である。

 ちなみにムックというのは、MagazineとBookが合体した、あの堅い冊子の本の事を指すのではもちろんな・く、モップを赤く染めたような得体の知れない生物で、通常はガチャピンの横でおたおたしている役立たずの生物の事である。

 そのせいか影が薄く、公式サイトにもガチャピン日記の写真にチラッと載っている程度である。

 さらにそのせいかは定かでないが、頭にプロペラが付いている事を知っている人は少ない。

 そもそもあの程度の羽で、上昇するだけの揚力が生じるかはタケコプター以上に疑問である。

 ムックに違和感を覚えるのは、「手」である。あのもさもさした風体に不釣り合いなほどよく動く指は節足動物並だ。赤い体に不釣り合いな程白い手は、まるで手術に挑む財前教授のような生身の人間を思わせ不気味である。

 いつも口の中に手を入れてオロオロしている挙動もマクドナルドのピエロのようで気持ちが悪い。一方のガチャピンには指に当たる物が無い。というかよく分からない。無意味なブツブツがまるですりこぎのようにくっついている。

 ところでガチャピンを一言で表すなら、「挑戦」である。ある時は、スキューバダイビング、またある時はパラセーリング(ヨットでパラシュートを引っ張るアレ)、またまたある時はやぶさめ(馬に乗りながら的を射るアレ)とそのチャレンジの内容たるや、千差万別。ロッククライミングをするガチャピンを見ていると、これは罰ゲームかと思えてしまう程だ。まだ5歳という年齢を考慮すれば、児童虐待、もしくは動物愛護団体に訴えられてもおかしくない。

 何でもこなすのがガチャピンである。おそらく彼がこのブログを書けば、もっと面白いものができるはずだ。東大にだって入れるに違いない。

 ガチャピンの凄さはその厚みにある。仮面ライダーだって、ウルトラマンだって結構すごいが、彼らはスマートで、アクションヒーローだからいかにも出来そうである。もしもクラスに転校してきたら、間違いなくモテそうだ(そうか?)。

 しかし、ガチャピンはどうだろう?

 いつ見ても寝ぼけまなこで、実にさえない。

 お世辞にもイケメンではないし、何か面白い事が言えるわけでもない。だから彼はある時考えたのだろう。僕にはチャレンジしかないと。

 そんな彼の数々の偉業を目にすると、苦笑はやがて感嘆に変わる。ウェイクボード(ヨットでサーフボードを引っ張るアレ)で、思ったより水の抵抗が大きいみたいと失敗する彼を見て、そりゃそうだろっ!と心の中でつっこみつつ、空中回転する華麗な姿を見せつけられては、あんぐり開いた大口に手を入れて狼狽するのも分からないではない。スキージャンプの空気抵抗なんて、考えるだけでおぞましいではないか。

 しかし、水をさすようで悪いが、我々は彼の中身を同じ人だと考えてしまってはいないだろうか?

 同じ人間だと思うがゆえにスポーツ万能なガチャピンというイメージが固定されているのではあるまいか?

 けれども、伊藤くんは思うのだ(ここまで伊藤くんの考えだったのか)。

 あれは中身が種目によって入れ代わっているのではないか?

 もちろん、吉田戦車の名ゼリフを用いるまでもなく、中の人などいない。

 こんな屁理屈に付き合っているチビッコは大人の話なので、ここからも、これまでも、これから先も君の人生にとって何一つ得るものは書いていないから、さっさとここから退場すべきだ(そんな子どもは読んでいまい)。

 このブログが難解なのは、このような年齢制限を考慮に入れての事である。日本語がおかしいのではない。こんな屁理屈を読もうとしているあなたがおかしいのだ。でも、そんなあなたが僕は好きです(主語が変わっとるゾ)。

 伊藤くんが考えるガチャピンとは、その道のプロがかぶっているという事である。

 例えば、かぶりものオリンピックなるものがひそかに開かれていて、あたかも加藤あいと不気味なタケノコが権利を奪い合うような、涙ぐましいどうでもいい大会が開かれているはずなのである。

 熾烈な争いの後、権利を獲得した各界のアスリート達が浜ちゃんにいじられながら、交代で待機しているのだ。

 ではムックは誰でもいいのか?

 伊藤くんの答えはNOである。NOと言える日本人である(年齢クイズも入れてみた)。

 一見、何もしないムックであるが、意外にもガチャピンと共にアクションを行う時がある。ランドヨットと呼ばれる陸上を走るヨットでは併走し、あろう事かガチャピンを抜いてしまう活躍ぶりだ。自転車だって器用に乗りこなす。スキーも可能だ。

 そこで伊藤くんは考える。

 設定上は師弟関係にある二匹(生々しい表現だ)だが、実のところはムックはガチャピンの師匠ではないか?

 正しくは、ムックの中身はガチャピンの中身の先輩筋に当たるのではあるまいか?

 おそらく楽屋では毎回、ムック師匠による反省会が行われているはずである。

 ドアを開けるとそこにはあのしなやかな指でタバコの煙をくゆらせたムックが、小さなパイプ椅子に不釣り合いなほどの巨体で座っている。

「ムックさん、お疲れ様でした」

「お疲れさん。ガチャピンちょっとええかな?」

「はい、何でしょう」

 この時、ガチャピンの目は緊張と不安で血走っており、パッチリおめめである。

「今日のジャンプ、あれ、あかんわ〜」

「そ、そうですか」

「ほんまやで。わしの時はもっと跳べたもんや」

「はぁ」

「大体な、わしらの商売は子どもに夢売らなあかんねんで!」
 
「は、はい」

「わしらの時は常に先輩から、それを頭に叩きこまれたもんや」

「ええ」

「近頃の若いもんは何でも楽しようとするからあかんわ。ええか−」

 と、説教が始まっているに違いない。

 ガチャピンに入っている時点で十分に苦難の道を選択していると思うのだが、ローマの道は一日してならず、郷に入りてはヒロミに従えという事だろう。モンローウォークなんかお手のものである(年齢クイズ第二弾開催中)。

 それにしても、この挑戦は誰に向けて作ったものだろうか?

 一見すると、子どもの為のように思えるが、まだ現実と仮想の区別がつかない幼児にとっては、単にガチャピンというキャラクターがスポーツ遊びをやっているようにしか見えないはずだ。

 ガチャピンが凄い!と思えるには、それなりに成熟した人間でないと無理である。

 具体的には、幼児向け番組を見ている親という事だ。

 つまり、これは大人へのエールなのである。

 まだ学生の伊藤くんにとっては、世の中にはこんな仕事もあるのだという社会勉強である。

 きっと撮影の舞台裏では数々の涙ぐましい努力があるはずだ。

 これは涙なしには見られない、人類の、いやガチャピンの記録である。

 BGMは中島みゆきの『地上の星』で。
 
 

伝染(うつ)るんです。 (1) (小学館文庫)

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ガチャピン チャレンジシリーズ 2ndステージ [DVD]

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やっぱり伊藤くんのひとりごと

64

 しんみりと、である。

 秋の夜長はしんみりとである。

 この小説もどきは、時系列が一様ではない。季節はいかようにも変化し、話題も一定ではない。

 そんな風にして今日もこの話は始まる。

 学生の伊藤くんにとって、秋という季節は微妙である。

 秋にどんなイベントがあるかと言えば、なかなか思いつかない。

 夏は海、月の頃はさらなりである。

 学生と海は、老人と同じくらいよく似合う。

 おそらく寄せてはかえす単調な波の動きが、緩慢で怠惰な日常に近いからではないか。

 それで、だからどうだろうと問う人はこのブログを読んでも退屈なだけだろう。

 続けて、

 伊藤くんが不思議に思う事の一つにぞっとしない話というのがある。

 怖い話を聞いて背筋に悪寒が走るというのは、ぞっとする話ではないだろうか?

 気のおけない間柄というのは希薄な人間関係を指すように思う。

 しかし実際は逆である。

 なぜだろう?

 そんな事を考えているうちに時間が経ってしまう。

 テレビドラマでは相手も確認せずに電話に出て、驚く事が多い。

 何のために知人の番号を登録しているのだろう?

 また時が経ってしまった。

 このように学生の悩みとは汲めども汲めども尽きる事の無い泉のようなものである。

 あくまでバケツ一杯をゆっくり汲む程度なら、であるが伊藤くんの頭の中はおじゃまぷよがどんどんと落ちてくるのである。

 そしてそれは簡単には消えない。自分なりの結論を下すまでは積み重なっていくだけである。

 先日もそんな事があった。

 秋風が吹く肌寒い夜、いつもの道を歩いていると奇妙な出来事に出会った。

 ある飲食店の前にすごい勢いで回っている扇風機があった。

 寒いのに、である。

 なぜだろう?

 伊藤くんのはてなレーダーがそれをとらえた。

 アンテナが三本以上立った。

 MAXが何本かは不明である。

 とにかく反応した。

 しかしそれだけである。伊藤くんは、それ以上の解決を自ら率先して求めるほど積極的ではない。

 つまり、店に入って店員さんに聞いたりはしない。

 恥ずかしがり屋というのもあるけれど、自分の頭で解く事に意義があると思っているからだ。

 それって、ある意味積極的ではないか。

 とにかくその日の宿題はそれで終わりである。きっと店の人が昼間の暑さにしまい込むのを忘れてしまったのだろう。

 ところが、そうは問屋が卸さなかったのである。

 ここのおやじはかなり頑固なのだ。だから仕入れるのも一苦労である。

 さらに続けて、

 次の日の夜、伊藤くんがそのお店の前を通ると扇風機は二つに増えていた。

 しかも背丈の違う扇風機が両側から互い違いにまたしてもすごい勢いで回っているのである。

 どういう事だろう?

 伊藤くんは頭を抱えた。いや、道端ではさすがに恥ずかしいので、小首をかしげた。

 小首ってどこだろう?

 それすらどうでもいい。

 伊藤くんは家に帰ってからも考えた。

 しかしどうにも分からない。

 次の日もまたその次の日も結果は同じだった。

 しつこいようだが、外は寒いのにである。

 伊藤くんはとうとう我慢できなくなって、ある日意を決して店主に聞いてみようとまで思い至った。

 それを見るに見かねたのか(誰が?)は定かではないが、意外にも店の前まで行くと謎は解けた。

 というより自分なりに納得できた。

 そこには次の貼り紙があったのだ。

 「虫が入りますから、ドアをお閉め下さい」

 ただそれだけだ。

 ちなみにそのドアとは引き戸である。ついでに言えば手動型である。

 伊藤くんの出した結論はこうだ。

 その扇風機は一言でいえばエアーシャッターなのである。いつだったか初めてそれに触れた時、伊藤くんは随分不思議な気持ちがしたものだ。

 なぜこんな所に風が通っているのだろう。誰が涼しいんだろう。

 確かそんな風に思った。

 まるで見えない滝のように流れている空気の流動を肌で感じた瞬間に浮かぶ、ささいな子どもながらの疑問である。

 問いができて初めて人間は考え出すのだとは伊藤くんが常日頃感じている事だ。

 一見意味の無いものが、別の角度から見ると意味を持つ、そんな瞬間に出会った時、伊藤くんは生きている実感を感じるのだ。

 それは自分が、ではなく、他人が、であるというのは言い過ぎだろうか。

 入る時、迷惑だな〜。

伊藤くんのひとりごと

63

 靴が道端に落ちていた。

 片方だけ、である。

 その時、人はどういう反応するか、これはそういう実験なのかもしれないと思う前に、まず誰が落としたのだろうと伊藤くんは考えた。

 人間の頭脳というのは空白を埋めようとするようだ。

 理解できない物に出会うと自分なりに理解したくなるのが伊藤くんである。

 もちろん、常にそうしているわけではない。中には理解できない物に出会ってる事すら気が付かない場合もあるだろう。

 しかし、目の前に靴が落ちている。

 繰り返すが、片っぽだけ、である。

 次に裸足でどうしたのだろう?と考える。

 靴下ははいていたかもしれないが、靴を二重にはいている人など普通はいないだろう。

 長靴をはいた猫だって現実に出会った事は無い。

 そうして、しばらく歩くとそこにもう片方の靴があった。

 しかもさっきと同じ靴のように見える。

 つまり、一揃いの靴が同じ行く先に向かって片方ずつ落ちていたのである。

 ここで、さっきよりは少し安心する。

 靴が揃ったというだけで何%かの安心感を得る。

 では、この人は脱いでいったのだろうか?

 まさかそんな人もあるまい。

 伊藤くんにはまだ読者より持っている情報がある。

 それはこの靴が運動靴だという事だ。

 おそらく、この靴自体は室内用かもしくは競技用なのだろう。だから実際に歩いている時には別の靴をはいているのだ。

 まさか靴が脱げた事に気付かずに歩く人などいない。

 だからこれは落とした事に気付かなかった靴ではないかという結論に至った。

 靴というものが落ちているだけでドキッとするのは伊藤くんだけではないだろう。あるいはそんな効果を狙った実験かもしれないというのはここまで考えた後で思いついた事だ。

 ところで幼い子どもにはパントマイムというのは意味を成さないらしい。つまり、子どもには見えないものは見えないものなのだ。

 それに対して大人というのは見えないものにも理屈をつけたがる。

 なぜ見えないのか、あるいは見えないはずのものがなぜ見えるのかに自分なりの理屈をつける。

 美輪明宏の話ではない。

 仮にその答えが間違っていても自分なりに納得できればそれで構わない。

 大人はルールを理解してから、例外にとりかかる。逆に子どもは場当たり的な経験の蓄積からルールを作り出す。

 語学の学習でも、スポーツでも、仕事でも、その違いがある。

 どちらがいいという話ではない。ただそういう傾向があると思う。

 先ほどの靴を見て、子どもはただ片方の靴がそこにあるだけと認識するかもしれない。片方の靴だけで片足跳びをしながら、遊ぶ人だっているかもしれないという考え方もあるだろう。それ以外にも大人が想像もできないような事を考える子もいるだろう。

 一般に年を取るほど頭脳に柔軟性が無くなるのは、常識にしばられて生きている大人だからなのかもしれない。

 今日もそんな事を考えている伊藤くんであった。

伊藤くんのひとりごと

62

 二日後。

「いらっしゃいませ、ご主人様〜。」ロビー中に聞こえるような大音量で勢揃いした女性陣が出迎える。もちろん全員メイドの格好だ。エプロンにふりふりのついた黒と白のコントラストが目にまぶしい。

 伊藤くんは一種の気恥ずかしさを感じながらも、顔がにやけている自分に気づく。横のアキバオーはさらに顔を赤くしながら、あからさまににやついている。

「ご主人様はお二人ですか?」これ以上に無い甘ったるい声で受付の女性が笑顔で聞く。
 
 家に主人が二人もいたら大問題だなとくだらない事を考えつつ、伊藤くんがうなずく。

「ご主人様お二人で〜す!」受付の女性が周囲に聞こえるように大きな声を出す。と、同時に一斉に「ありがとうございます」と声が上がる。
 二人でこの恥ずかしさなら一人ではとても耐えられないかもしれないなと思いつつ、受付用紙に名前と電話番号と利用時間を記入する。

「はい、ありがとうございますご主人様。では、お部屋の方が707号室となっておりますのでご案内します、ご主人様。つきましてはお好きなメイドをお二人までお選び下さい、ご主人様」
 いちいち語尾にご主人様とつけないといけないのだろうかと思いながらも、突然のメイド選択に戸惑う。
 ヒトシはすでに端から順にガン見している。

「どうするご主人様?」
「お前がご主人様って言うなよ。お前もご主人様じゃん」
「ごめんごめん。でもご主人様的には右から二番目と五番目がええな」
 すっかりご主人様気取りなヒトシである。
「僕は左から二番目がいいな」
「それって右から五番目やん!」

 くだらない、実にくだらない会話である。

「お決まりですか?ご主人様」
「ええっと」
「ご主人様、すでにご利用時間は含まれておりますのでお気をつけ下さい」
 ええ?そうなの?親切なのかそうじゃないのかよく分からないな。
「じゃあ、この人とこの人で」ヒトシが選んだ二人を指さす。お前が決めるんかいっ!って、さっき選んだメイドか。

「ありがとうございま〜す、旦那様」
 えっ?今、呼び名間違ってなかった?
「ご主人様、こちらになります。照明が暗いので足下にはお気をつけ下さい」
 そう言うとメイドがサッと前を早足で歩く。
 はやっ!
 てか、暗っ!
 まるでお化け屋敷のような暗さである。
「うわっ、何これ」
「そこはスポンジ仕立てになっております、旦那様」
 今確かに言った旦那様って、確かに言った。
「何でスポンジなの?」伊藤くんが思わず聞き返す。
「お連れ様は大丈夫ですか、ご主人様」
 あっ、話そらした。意図的にそらした。
「そちらは?」
「こちらは大丈夫でふ、ご主人様」
 今、かんだ。かんだよ、絶対。
 しかし、そもそももう一人のメイドの姿はおろか、目前のメイドの姿さえおぼろげである。どんなとこだよ、ここ。
「おい伊藤、さっきから何ぶつぶつ言ってんだよ」
「ごめん、ご主人様」
「お前も言ってるやん!」
「ご主人様、無駄口叩いてる暇はありませんよ、まだまだ道は険しいのです」

 だからどこだよ!

 お前誰だよ!

「私、山田イネと申します」
 そんな意味じゃねーよ。えっ?おばあちゃん?すりかわってる?てか、つぶやき聞こえてる?
 と不毛なやりとりをしているうちに707号室に着いた。
 あっ、ナナだな。そう言えば、メイドの数も7人だったな。
「ご主人様、お飲み物は何になさいますか?ウーロン茶が人気ですが」先ほどの声の主、イネが腰をおろした二人に注文を聞く。
「うーん、じゃあジンジャエールで」
「ウーロン茶が人気ですが、ご主人様」
 おいおい。
「ええやん、伊藤、ウーロン茶にしようや」

「ウーロン茶、二つ入りま〜す」
 入り口からさきほどカウンターで選んだ二人のメイドがウーロン茶を持って来る。
 すでに決まってんじゃん。やっぱりすり替わってたんだ。どう見ても別人だもんな、イネ。
「ではイネはこの辺で退散して、後はお若い方達で楽しんで下さいね、ふふふ」
 旅館かよ、ふふふって何だよ、ふふふって。布団ひけよ!いやいや。

「はい、15分経過〜」イネがそう宣言した瞬間、ドアが閉まる。

ええっ、もうそんなにたってんだ。もしかして道が険しいのはそのため?

「ねぇねぇ、ご主人様、何歌いますぅ」
 マイクでしゃべるなよと思いつつ、天使のような笑顔に顔がほころぶ。
「う〜ん、どれにしようかな〜」
「そちらのご主人様もまだですかぁ?」今度はもう一人のメイドちゃんが聞く。こちらの子はさっきの子と違って茶髪で少しエロかっこいい感じだ。
 ヒトシの場合はきっとアニメソングが歌いたいのだろうが、こんなシチュエーションが初めてなのでためらっているのだと伊藤くんは推察する。
「お二人ともまだお決まりでないのなら、あたしたちが入れてもいいですかぁ?」
「あっ、いいよ、いい。なっ、伊藤」緊張のせいか大阪弁でないヒトシである。
「うん」
「やったぁ〜!じゃ、これとこれとこれとこれ」
 おいおい、入れすぎじゃないか。てか、メーラー並みに入力速いんですけど。番号覚えてる?
「じゃあ、私はこれとこれにこれ」
 いや、あなたも速いんですけど。てか、名前聞いてない?
 音楽スタート!
 最新曲のオンパレードである。
 やっぱかわいいな。伊藤くんもヒトシも合いの手を入れながらメロメロである。メロメロメンである。季節外れに粉雪である。

 電話が鳴る。携帯ではない。室内電話だ。
 ちょうど側にいる伊藤くんが受話器を取る。
「イネでございます」
 イネかよ。
「イネでございます」
 二回も言わなくても知ってるって。
「お時間の方が参りましたがいかがなさいますか?」
 えっ?もう?まだ歌ってねーよ。
「え、延長とかできるんですか?」
 何でイネごときに緊張してるんだ。
「延長は、10分単位で可能でございます」
 こまかっ!2曲ぎりぎりじゃん。
「料金はいかほど?」
「10分500円でございます」
 たかっ!
「30分できますか?」
 何、勝手に決めてんだ、俺。
「本日あいにく満席でございまして、延長はできません。ご主人様」
 説明だけかいっ!てかとってつけたようなご主人様呼ばわりもういいよ。
「申し訳ございません、若旦那」
 絶対、意図的。俺たちからかわれてる?
「分かりました」
「では、レジにてお待ちしてます。なお10分遅れますと延長料金を頂きますのでお気をつけ下さい。残りのお時間は8分と55秒を今すぎました」
 細かいよ。もしかして引っ張った?

 電話が切れる。
 えっ?あの険しい道を?
「イエーイ!レモンちゃんちょーうまいい!」
 おいおいヒトシもう終わりだぞ。この子レモンちゃんなんだ。
「うそうそ、そんな事なぁい。でもでも次は自信あるんだ〜」
 えっ?
 伊藤くん、素早く予約曲数を確認する。
 10?
 増えてるよ、確実に増えてる。
「ちょ、ちょっと待った。もう終わりだそうです」
「ええーっ」
「やだやだ、まだ歌う」
 歌うな!
「伊藤、延長でええやん」
 こいつすっかりくだけてる。
「延長ダメなんだってさ」
 てか、高いぞヒトシ。
「ええー、そうなの。残念。でもじゃあ次、最後にしましょ」

 イントロスタート。
 曲タイトル『すきま風』
「誰これ?」思わず聞く伊藤くん。
「すぎりょうですぅ」
「すぎりょう?」
杉良太郎ですよぉ。杉様」
 えっ?流し目?なんで?おはこ?
 しかもうまっ!

 かくして、初めてのメイドカラオケは一曲も歌う事なく終了したのであった。ちゃっかり延長料金とられたけど。やっぱメイドの引き留めも戦略かなと思いながら。

伊藤くんのひとりごと

61

 劣化である。
 
 今日はその事について小一時間くらい話してみたいと思う。
 
 但し、書くスピードと読む速度には違いがある。たいていの場合、後者は前者を圧倒する(と書いてあると、いちいち前の文章に戻って確認してしまうのは僕だけだろうか)。音読しながら読めない人でも書くスピードよりは速い。なぜなら文章を書くという行為には、文章自体を考えるという作業が伴うからだ。
 
 文章を読んでいる時だって考えるのではないかと思った人もいるだろう。例えば、メールを打つ時だって文章を考えてはいる。まさか勝手に指が動き出していつの間にか送信してしまいましたなんて事は酩酊しているというような特殊な状況を除いて普通は無い。ハウルじゃないのだから。動く城じゃないんだから。

 くどい。

 特にこういった極めてストーリー性の強い文章を書く場合は、構成、文字バランス、ホワイトバランス等、夏の日射しにさらされて大丈夫か常に紫外線に気を配らなければいけないので時間がかかる。

 だから?

 だから小一時間というのには個人差があるという事だ。こうやって、話をつなげていく所が匠の技である。というより、今日もこの調子でだらだらと文章をつなげていく。ストーリー性なんて木村カケラもない。はい、すいません。

 伊藤くんが先ほどのゲームに熱中していると携帯にメールが届いた。ところで伊藤くんは、携帯に着うたを入れてはいるものの、着信設定には使わない。もっぱら聞くだけだ。

 つまりマナーモードが通常使用なのである。

 だから振動でメールの受信を知る事になる。電話も同じである。だからデフォルト設定の音が何であるかも未だに知らない。

 電車の中で着音をことさら大きくかけている人を見る(聞く)と、周りの人に聞かせたいのかと思ってしまう。そういう人に限って、鞄の奥に入れてたりして、取り出すまで鳴りやまないから必死で探してたりする。

 いかつい顔をしたおじさんがなぜかキューピー3分クッキングのテーマを流していたりする。誰かが呼んでいるのかと思って見たら、孫の声を着音にしていたりする。お前は大泉逸郎か!と言って、今のお若い方々に果たして通用するものか。まるで小梅太夫のネタになりそうな日常が車内に散逸している。このブログと共に謎である。

 そんな伊藤くんの元にメールが届いた。全くつながっていない。そもそも劣化の話はどこへ行ったのだろう。新品の携帯はどんなに丁寧に扱ってもそのうち劣化するという話を書こうと思っていたのに、それはまあもういいかなと思い始めた。話を先に進めよう。メールの話である。その受信相手の話である。
 
 誰かと思えば、久しぶりに登場のヒトシである。

 以下も全く余談ながら、「ひ」と入力してヒトシと変換するまでにいくつかのステップを必要とした。つまり、それくらい久々だという事を拙い文章にしてみたのだ。おそらくこんな表現は小説という世界では初めてではないかと思いつつ、これは小説ではなかったなと自戒する。

 そんな伊藤くんにヒトシからメールが届いた。

 だから内容は何なんだ!

 上司の目を盗んで職場で秘かに読んでいるあなたにとっては実にいらいらする文章である。いるのか、そんな奇特な人が。もしかしたらお前自身なのではないか?いやいやいやいや。

 仕事の合間にブログを書くなんて事はトムクルーズでも無理だろう。

 ミッション・インポッシブル。

 くどい。

 こうやって検索にヒットしそうな言葉を散りばめて、読者を引き込むアリ地獄手法である。しかし、実際そうやって訪れた人は二度と訪れてくれない自信がある。

 ここでヒトシのキャラをすっかり忘れてしまった人の為に復習しておこう。もちろん他ならぬ作者の為に、である。

 この物語は悪魔のような鬼教師に小学6年のー、いやいやいや、そうじゃないだろ。

 単なる大学生のお話である。お話と言っても、何かとんでもない事件に巻き込まれるとか、とってもせつないラブストーリーがあるとか、そんな話ではない。ただ食堂とかでみんなでわいわいと「お話」しているだけである。それで、よく60以上も書いているなと思うけど、中身は結構適当である。パクリである。

 もしもあなたに多大なる時間の浪費を試す勇気があるなら、どうぞ最初からお読み下さい。ちなみに僕にはそんな勇気は無いけど。

 で、そんなあなたにヒトシの説明である。

 ヒトシというのは一言でいえば、オタクである。

 一番分かりやすいところでは、ちょっと古いけど電車男を想像してもらえばいい。ヒトシは鉄道オタクでもあるから、まんざら間違いでもない。

 もう少し言えば、秋葉系である。もちろんこのお話の舞台は関西だから、それに当たる場所と言えば、日本橋界隈である。ヒトシはほとんど毎日そこに訪れて、我が物顔で徘徊している。気分は王様である。

 そして彼は緑が丘という町名に住んでいる。

 だから伊藤くんはヒトシのアドレス登録に「みどりのアキバオー」と名付けている。もちろん、この事は伊藤くん以外は誰も知らない。

 そのみどりのアキバオーからメールが来たのだ。

 うわっ、それ書く為にここまで引っ張ったのか、と思ってはいけない。思ってはいけないは思ってはいけないは思ってはいけない。

 無料で読める素人の書く文章なんてしょせんこんなもんである。盗作する気にさえならないだろう(すでに倒錯)。

 さてアキバオーのメールはこうだ。

 何でもこの度、メイドカラオケができたというのである。

 メイドカラオケ。何ともけったいな名称である。けったいな、なんて今時使うだろうかというくらいけったいな話である。

 そこにはご想像の通り、メイドの格好をした女子がいて、カラオケを一緒に楽しめるというのだ。ヒトシのメールの端々に興奮の色が見える。実は伊藤くんもヒトシもまだメイドカフェなるものに行った事が無い。

 それがいきなりメイドカラオケの誘いである。

 初代ゲームボーイからいきなりニンテンドーDSに買い換えるようなもんである。何でゲームで例えるのか分からないくらい錯乱している二人である。

 とにかく伊藤くんはゲームを中断して、早速返事を書いた。

 ヒトシさんたら読まずに食べた、わけもなく、かくして二人はメイドカラオケなるものに足を運ぶ事になったのである。