<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと


 さて、私は多分おそらくきっと間違いなく半信半疑ながら小説を書いているはずである。この希望的観測表現に満ちた一文を読者のみなさんはこれからも先も般若心経のように何度も心の中で反芻しながら読んで頂きたい。

 目を左右に走らせる筋力トレーニングだと思えば、貴重な時間も無駄ではないだろう。

 「おい、そろそろ始まるぞ」
 大きな講義室で、周りの学生がささやく。
 そう、この小説ももう始まっているのである。

 本来、小説というのは背景描写から始まるのが自然である。特にマンガはその傾向が強い。ドラゴンボールで有名な鳥山明さんもその昔、自身のマンガ作法の中で、冒頭の一コマ目は必ず背景描写から始めるべきだとおっしゃっている。

 その意味では、この小説はマンガには向かない。第一、主人公の動きは極めて緩慢で、筆者の独白が中心である。登場人物はみな書き割りのように平板で、エキストラ出演である。この台本を渡された役者は演技以前の段階で悩み、ノイローゼになるだろう。

 だから、真剣に読んではいけない。無料という事でかろうじて面目躍如というしだいである。

 ところで、講義に目を転じると、壇上ではすでに教授が時計に目を落としながら、じっとしている。試験が始まるわけではない。この教授、仮にM教授としよう。

 M教授は時間に忠実なのである。彼はいつも授業の開始5分前に壇上にいる。そして、定刻が来るまでじっと時計を見つめて待っているのだ。伊藤くんも無遅刻無欠席な方だが、教授もまた時間に正確である。また板書きがいっぱいになる頃、ちょうど授業が終わる事で有名である。

 M教授は生徒の挙動には無関心である。私語に関しては他の生徒の授業を受ける権利を妨害してはいけないとたしなめるが、出席は取らないし、遅れて来た生徒を叱る事も無い。

 そして、試験をしない事でも有名である。成績は各自のレポートによって評価する。しかも提出期間は任意である。一応、半年に一度提出が義務づけられているが、枚数も提出回数も各自の自由である。但し、教科は民法に限られる。ただ、これは噂で聞いた話であるが、その内容に関しては民法に関連する事なら、巷の法律クイズのようなものでもいいらしい。

 彼が評価するのは法律の理論構成力という事なのだろう。出席を取らないにも関わらず、彼の講義はいつも満席である。これは新学期だからとりあえず様子を見るというのとは違う。また質問は随時受け付けている。これもレポートの採点と共に重視されているという事であるが、出欠を取るつもりは無いと公言している。


 大抵の講義は、ゴールデンウイークを過ぎれば売れない芸人ライヴのように空席が目立つ。しかし、この講義は常に大教室の6割は席が埋まっている。

 そして何と言っても圧巻なのが、民法を六法も見ずに一字一句暗唱してしまう事である。おそるべき暗記力。だから、M教授が条文の番号を告げるとみな一斉に六法を開き、チェックし、その正確さに感嘆する。もしかしたら、六法を開かせるためのパフォーマンスなのではないかと思ったりさえしてしまうくらいだ。

 もっとも伊藤くんだけはPDAの電子六法を開いている。重いのが好きではないのだ。テキストは未だに紙媒体なので仕方無いが、せめて六法くらいはデータで持ちたい。しかし、紙媒体にはそれなりの利点がある。ページをめくる事で他の条文を観る機会も増えるし、参照条文に線を引けば愛着?も増す。

 だから、伊藤くんの電子六法にはまるで紙のページをめくるようなページ送りや、ペンタッチによるチェック機能、さらに関連条文や判例へのジャンプ機能およびリーガルベースへのリンク機能まで備えている。いずれもまだ親戚の会社のモニターソフトではあるが、なかなか恵まれた環境にある学生といっていいだろう。

 ところで、法学部の教授や弁護士というと六法全部の条文を一字一句間違いなく暗唱できると思っている人が多い。答えはそんなわけないだろう、である。六法とは憲法民法・刑法・商法・民事訴訟法・刑事訴訟法の事を指す。

 しかし、どのようなコンパクトな六法にも大抵はそれ以外の細かい法律が書かれているのが現状である。
労働基準法薬事法民事再生法著作権法など、その全てに精通している弁護士などいるはずが無い。

 ましてや教授となれば民事専門や公法専門など分かれるのが普通である。弁護士だって、依頼内容によって交通法に詳しい先生や国際法に精通する先生がいるのは当然である。

 では、法律家とは何かと言えば、法律に詳しい事は当然であるとしても、それがそのまま条文暗唱につながるわけではない。もし、そうであるなら、コンピューターに調べたいキーワードを放り込んで関連条文を検索すれば済むわけである。

 しかし、それで結論が出せるなら法律家はいらない。人間が介在する余地がどこにあるかと考えれば答えは明白だろう。つまり、厳格に定められた法律には微調整が必要なのである。法律には類推解釈や拡大解釈による遊びが必要である。中には性質上、これになじまないものも存在するが、おおざっぱにまとめればそういう事である。

 裁判所が過去に出した結論を判例と言うが、世の中には法律を制定した時には想定すらできなかったようなとんでも事件が発生してしまうものなのである。その際、最も参考にされるのは学者の学説ではなくて、この判例である。つまり、類似事例で裁判所はどのような結論を下したか。公平な裁判システムを維持する為には、これはごく自然な流れだろう。

 もしもこの判例だけを検索するだけなら、やはりコンピューターがあれば十分である。しかし、実際の事例が全く同一である可能性は決して高くない。だからここでも微調整は必要なのである。

 そして、大学の講義もこのリーガルマインドと言われる法律の解釈や理論構成を養う場である。決して資格試験のために条文を片っ端から暗唱させられるような機械式の勉強を強いられるわけではない。

 従って、法律学部の人間が司法試験の勉強をしていると思うのは、英文学部の学生がみんな英会話を習っていると勘違いするのと同じくらい誤った先入観と言えるだろう。学問と試験勉強の相性が悪いのは目的の違いから導き出される当然の帰結なのである。専門学校の存在意義が試験に絞られるのもまた当然の事なのだ。

 ホワイトボードには要点だけがまとめられた板書きが少しずつ増えていく。手元のディスプレイにもその情報は反映されていく。授業に説明の写しは必要ない。ここで必要とされるのは問題に対する自分なりの理論構成であり、思考訓練である。提示される事例にはすでに一流の専門機関が妥当な結論を下している。生徒に求められるのは、その妥当性であり、時代の趨勢によって変遷した条文によるあてはめである。

 板書きがちょうど画面の端いっぱいまで書き終わったところで講義が終了する。M教授は大学教授らしからぬ独特の話術で生徒をひきつけるのがうまい。大学教授というとテレビでおなじみの人ばかりが目立つが、彼らにはそもそもタレント性があり、パフォーマンスがうまい。だから、大学に行けばそのような面白い講義が目白押しであるような錯覚を抱かれても仕方無い。

 しかし、逆に言えば、そのような面白い講義をするからこそテレビに引っ張りだこなのである。では一般的な教授陣はどうかと言えば、必ずしも説明がうまいわけではない。

 ここで誤解しないで欲しいのは、口下手と頭脳の良さは関係が無いという事である。極端な話、素晴らしい論文が書ければ評価されるのが大学の先生である。予備校の人気講師が面白いのは、生徒による評価が全てだからであり、彼らに論文は必要無い。そんなものを書いている暇があったら、一問でも多く入試問題を解き、どう説明すれば分かりやすいか、あるいは生徒受けのする解き方は何かという事に時間を割く方が効率がいい。

 さらに重ねて言えば、論文が下らないと書いたのではないから誤読しないで欲しい。文章には文脈というものがあって、単語の意味は文脈によって規定される。ネット上で文章を読むと、目の疲労からかついつい流し読みをしてしまい、極論部分だけがクローズアップされる場合があるから要注意だ。こちらが書いていない事まで行間を深読みする特殊能力を持っている人間が世の中にはいるのである。もちろん文書力の無さは自他共に認めるところではあるのだけど。

 そして、まだ一言もしゃべっていない伊藤くんを置いて話は次回に続くのである。

―森助教授VS理系大学生 臨機応答・変問自在 (集英社新書)

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臨機応答・変問自在 2 (集英社新書)

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法律の使い方

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