<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと

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 「さっきのはなかなか楽しかったな」カズが伊藤くんを誉める。
 場所はまたまた学食である。
 三時のおやつとは誰が決めたのか知らないが、テーブルの上には賛辞のおやつが集まっていると思っているのは伊藤くんだけだろうか。とにかく、みんなでおやつを買ってバッと広げると何かぜいたくな気分になれる。
「今日はバイト無いの?」洋子さんが伊藤くんに聞く。まださっきの余韻が残っているのか声に温かみが感じられる。
「あるよ、夜にカテキョが入ってる」
「俺は荷物の仕分け」ヒトシが聞かれていないのに答える。そう言えば、運送会社でバイトをしていると聞いた事がある。
「バイトと言えば、この前面倒なの頼まれちゃってさ」伊藤くん、せっかく洋子さんが投げてくれたボールを離すものかとばかりに打ち返す。せこい。
「どんなバイト?」洋子さんがきちんと受けとめてくれる。
「家庭教師の父母説明会っていうのがあってね。会場を借りて開催したんだけど、その名の通り、子どもがいる親御さん達への説明会を手伝って欲しいって言われてさ」
「うん、それで?」洋子さんリップのようなものを取り出し、指先に塗る。これは即効性のノリで、指に薄い膜を張る。スナック菓子を食べる際に指をコーティングして汚れないようにするアイデア商品なのだ。使い終われば、指からするりと剥がれる。もちろん使い捨てだ。
「まず入り口で説明のチラシを一人に一枚ずつ渡すんだけど、これが結構な人がいるわけで、思ったよりも大変だったんだ。イスの用意も頼まれたから結構ハードな流れでさ」
「確かに準備って大変よね」洋子さん、スティック状のお菓子を上品に食べる。
「説明会が真ん中くらいまで来たあたりで、急にスタッフの人がどれくらい入ってるか数えてくれって僕たちに言うんだ」
「複数形という事は他にもバイトが居たわけだ」カズがチョコクッキーを口に入れながら言葉尻を捕まえる。
「うん、学生が他に何人かいたよ。そこからバードウォッチングが始まったわけだけど、もう目がしばしばするくらいずっと顔を見ながら数えているわけで、しかも立っている人もいるし、整列しているわけでもないし、とにかく帰りの電車でも思わず人数を数えたりして、ばたんきゅーだったよ」日本語としてはかなりおかしいが、疲労は伝わる。
「うわっ、それ面倒臭そう。交通量調査のバイトってのも意外に大変そうだもんね〜」洋子さん同情モードである。
「俺だったら、残ったチラシを数えるけどな」カズがぼそっとつぶやく。
「えっ?」伊藤くん会話の意味が分からない。
「そのチラシって印刷されているんだろ?」
「うん、そうだけど」伊藤くんに嫌な予感が走る。サーブ権が移動しようとしている気配だ。
「じゃあ、印刷部数も分かるという事になるな」
「そっか、だから残りのチラシを数えればいいわけね」洋子さんがカズに目をやる。
「仮にまだほどいてないチラシがあればそれは数えるまでも無いし、封を切った残りのチラシを数える方が、マンウォッチングをするよりもはるかに楽なんじゃないかな」カズがトーンを変えずに話す。慣れていない人が聞けば、嫌みに聞こえるかもしれないが、これがカズなのだとここにいるメンバーには分かっている。
 白のオセロと黒のオセロが盤上にある時、そして片方の色が明らかに少ない場合、少ない方を数えた方が圧倒的に早い。言われてみれば確かにそうだが、多い方の色に目を奪われている人間にはそんな簡単な事が盲点になる。
 食堂はいつの間にか人でいっぱいだ。喧噪の中に紛れると、当事者以外の声は聞こえない。この中にもしもピエロがいれば、何人いるかはすぐに分かるだろう。それほど明確な差があれば大抵の人は視点を変えるはずだ。自分のオセロをひっくり返す訓練を積みたいものだと伊藤くんは思う。

 伊藤くんのPDAにはいろんなアイデアが集積している。他人が見てもおそらく何の事か分からないだろうが、それらの端書きは伊藤くんに様々なヒントをくれる。画面の下にはテロップ形式でいろんなアイデアメモが流れて表示される。先日の表札事件以来、言葉の空欄クイズがそこに追加された。
 二文字以上の文字の一部が空欄になり、そこに自由に言葉を書き込む。その言葉が内蔵辞書と一致すれば正解だ。またこの辞書は登録できるので、造語も自分なりにカスタマイズする事ができる。

 ところで、リニアモーターカーはいつできるのだろうか?という疑問と同じくらい昔から不思議なのが、メーターはなぜ最大まであるのかという疑問である。
 スピードメーターが制限速度以上に無ければ、スピード違反で捕まる事は無い。音量が最大でなければ近所から騒音で叱られる事も無い。個人で使用するにはあまりに無意味なものだ。
 多分それは職人気質な精神から出たのではないだろうか?
 つまり、ここまでの物が作れますよという自己顕示欲である。物をつくる以上、最高の物を作りたいと思うのは当然である。オリンピックに出た以上、誰もが金メダルを目指すのはもっともな事だ。
 車のスピードメーターが、デジタルでないのはその微妙な変化を視認する事が難しいからだ。デジタルの場合でも平均値で示さなければ意味が無い。微積分の発想だ。アナログがデジタルよりも優れている点を挙げれば、目分量の分かりやすさだろう。
 例えば時計というのは360度の円形である。もちろんいろんなデザインがあるけれども、針が回るというのはそういう事である。この針が示す位置で、我々は一日のうちどれだけの時間が経過したか、あるいは一時間のうち残りは何分かというような事が一目で把握できる。
 もしもあれが物差しのように横ゲージ形式であれば面白いかもしれないが、アナログで作るなら12時間で折り返すような形か翌日は逆の時刻表示がついていないと大変そうだ。分数の目盛りもそれこそ長い物差しのようになってしまう。そう考えると円形というのは素晴らしい。12の時間と12の分数表示に5をかけるという発想が時計回りで永遠に時を刻む。ここではスタートとゴールが同じ位置でメビウスの輪のようにつながっている。
 同じ時を刻む物でもカレンダーは一日区切りであるため、円である必要は無い。もしも円で表示されれば、我々はもっと一ヶ月を上手に使おうと意識するかもしれない。
 もちろん伊藤くん達の心の時計も円ではない。それはもっとゆるやかに時を刻む。今のところ彼らは修理するつもりは無いようだ。ヒトシはどこへ行ったのだろう?