<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと
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伊藤くんはここで新たなアイデアを思いつき、PDAに書き込む。
覗いてみよう。
多画面DSとある。
そこに何やら図が書いてある。
任天堂DSは二画面だが、彼の書いた図には何画面ものスクリーンがつなげて書かれてある。まるでムカデである。こんな気持ち悪いものを何重にも畳んで使うのであろうか?
確かに電子ペーパーはもはや日常で活用されている。だから画面の厚みや多さは簡単に解決できる。
ネットからダウンロードした電子ペーパーにはその日のニュースが満載である。画面タッチで次のページに移り、ユーザは自分の好きなだけ電子ペーパーを広げ、任意の文字サイズで読める。満員電車で大きな新聞を広げるというような光景は今では昔の話である。携帯でニュースをチェックする者も多い。
実際、携帯さえあれば、持っているだけで改札も通過できるし、クレジット機能で買い物もできる。昔よりもはるかに電池の持ちが良くなったから、月に一度充電するだけで十分だ。伊藤くんにはよく分からない技術だけれども、有機ELや燃料電池の改良がごく日常の物として使われているのだ。やはり、アイデアというものはコピー&ペーストに向いているのだろう。
但し、使うのは人間である。画面が何枚増えたところで三面鏡を覗き込むようなもので実体は把握できない。本末転倒のアイデアだ。
ただ、伊藤くんのPDAにはランダム機能が付いたアイデアメモソフトが搭載されている。画面にアイデアを書いて保存するだけで、後は、ランダムにいろんなアイデアが表示されるというただそれだけの機能だが、アイデアというのはつまるところ蓄積されたアイデアの組み合わせである。どんなに斬新なアイデアも元となるアイデアはすでに存在する。人間が考える事などどれもどんぐりの背比べなのだ。しかし、組み合わせは無数である。どのような組み合わせがきらめきを生むのか、アイデアは人との出会いに似ているのかもしれない。
ところで、さきほど読みかけの本がごまんとあると書いたけれども、これは客観的に見た場合の表記である。実は、伊藤くんはそれらの本を少しずつ併読しているだけなのである。
このように記述というのは、執筆者の主観によって左右され、読者を翻弄する。新聞の記事やネットの文章が真実の側面である事を認識する事はバランスの取れた個人の価値観を形成する上では大切な事だろう。
話は変わるが、伊藤くんは物の位置というものに名探偵のようにこだわる性分である。なぜそこにそれが置かれているのか?
大して意味の無い場合もあるが、自分は当然そこにあるべきだろうと思う物が、ある人の場合には違うというような事があると考えてしまう癖がある。
例えば、右利きの人と左利きの人では配置にも感覚の差異がある。長年使用している物には、たとえ見る人が不便に感じるものにも、そこにあるべき理由が存在する。
先日、学食に行った時の事である。
伊藤くんの大学では生協が運営している学生食堂がある。いわゆる学食と呼ばれる場所であり、伊藤くんたちのサークルの部室でもある。但し、この学食は全学部共通の大食堂の方であり、学部食堂よりも南に位置する。そして、ここがちょうど各学部から等距離に位置する建物でもある。
この建物は五角形に近い形をしているので学生達からはペンタゴンと呼ばれている。おそらくパソコンのCPUで有名なペンティウムも五角形から来ているのだろう。
ところで、四角形と言えば英語ではsquareで、あのドラクエやファイナルファンタジーで有名なスクエニと同じである。
では三角形は?言うと、楽器で有名なtriangleであり、三角関係はthe eternal triangle で永遠ってのは怖いな〜と思ってしまう。
他に意外に知られていないけど怖い日常単語と言えば、suicide(自殺)という言葉がsuicide seatとなると口語で車の助手席の意味であったり、bodyが遺体という意味にも使われたり、使用する際には気をつけた方がいい単語もあるようだ。
話を少し戻して、tri-が三倍を表す言葉であれば、単一を表すのがmonoである。モノレールやモノトーンはいずれも一つである。スピーカーでステレオの対になるのがモノラル。つまり、ステレオとは立体音響の事だけれども、いろんな意見が立体的に反映されるとステレオタイプとして固定観念やきまり文句になるのが面白い。出る杭は打たれるという事だろうか。この辺り、common senseが共通のセンスとなり、常識となるのに似ている。
話をまた戻して、二つという意味ではbi-を用いる。だから、circle(円)が二つあればbicycleで自転車、三つあればtricycleで三輪車というわけだ。Bilingualがバイリンガルと言われるのも、二つのlingual(言語)を操るからで、バイリンギャルや帰国子女が女性であると考えるのは危ノーマルな発想で笑えない。また二つの言語が操れるから賢いというイメージがつきやすいが、実際は中途半端にしか話せない人間がいる事も肝に命じるべきだろう。相乗効果と相殺効果は違うのだ。では、三言語操る人はtrilingualと呼ばれるのだろうか。実にtrivial(取るに足りない)なくだらない話だ(こういうのを日本語の長嶋現象、あるいは重複表現と呼ぶ。残念ながらbilingualな表現とは言わない)。
確か学食の話であった。
もしかして、トリビア知識をひけらかす為だけにこの建物を思いついたのではないか?という見方は想定の範囲内だ。小説の中で唐突に衒学(げんがく)的な文章が出てきた場合は、その傾向が強いと思われる。もっともこの衒学的という言葉こそ衒学的だと思うが。また、知識の押し売りを感じさせないものほど、うまい小説と言えるかもしれない。
さて、多くの学食がそうであるように、この学食もまたセルフサービスである。自分自身への奉仕などと聞くと、自分を自分で褒めてあげたいとか、自分の事を〜という人だから等という表現に似た面はゆさを感じてしまう。「癒される」や「ら抜き言葉」、「全然〜ある」という副詞の呼応に矛盾を感じる、いや感じられる私などにはしょせんエロかわいいや不倫は文化など分かるはずも無い。
多分、学食の話であった。
ここの学食でもメニューは食券である。タッチパネルで注文が厨房の画面に反映されてもおかしくない時代であるが、ここでは旧態依然としたシステムが日進月歩と隔絶した無縁仏として存在している。ネイティブの私でも何を書いているか分からないので、意訳すれば、紙に印刷された食券が取り出し口にすとんと落ちてきて、それを厨房の割烹着姿(こんな漢字は書けないな、きっと)のおばちゃんに渡すだけである。
なぜこんなに簡単な事がスッと書けないのか。
きっと国語の記述式問題なら、減点されまくりである。いや、そもそも記述解答欄に収まりきらないだろう。これでは、一人で悦に入っているパソコンマニュアルの執筆者、あるいは法律学者と変わりないではないか。
いや、多分違う。彼らはどのように解釈されても困らないようにあらゆる角度から吟味した上で作成するのだ。思いつきのアイデアを小説というトッピングでごまかしたエッセイ風のブログとは根本的に違う。
さてさて、ポイントはこの取り出し口にある(意外というよりも何が何だか分からないのがみなさんの本音だろう)。
ここにクリップがはさんである。
松田優作でなくとも、何じゃそりゃ?と叫んでしまうのをグッとこらえる伊藤くんである(忘れた頃に出てくるのがこの話の主人公である)。
そして、その横に張り紙で「取り出し口のクリップは取らないで下さい」と手書きの注意書きがある。
新入生の間では必ず話題となるミステリーである。
試しに生協の黒岩さんに聞いてみた。生協の白石さんという本が売れたが、この方とは縁もゆかりも無い。ただ、ネット検索に引っかかる為だけに引き合いに出した、せこいミスリードである。
これが映像なら、トレビアの泉で有名なあの声が聞こえるところである。しかし、この小説ではそれさえもセルフサービスであるから各自で想像して欲しい。下条アトムでもOKだが、時間がかかるのが難点である。
「どうも生協の黒岩です。早速ですが、お問い合わせの件については生協では扱っておりません。でも、答えは知っています。ええ、私もこの大学に来て長いですからね〜。学食も毎日利用していますし、生協でも弁当を販売しています。500円でお釣りが来ますからね、メニューも豊富ですし、ぜひご賞味下さい。えっ?答えですか、簡単ですよ、食券が取り出し口から落ちないように防止しているんです。ほら、取り出し口にはフタがないでしょう?しかも、出てくる角度が非常に急なんですよね。まるで衝撃!老夫婦が登れない急角度の階段!って感じですよね。匠の技が必要な旧式の販売機なんです、はい」
そう言う事であった。
これを学食の怪として、本学ではもぐりの学生を見分ける踏み絵としているとかいないとか。
この話の始まりは、見る人によって価値の変わるものである。
覚えていただろうか?
この小説は記憶力と持久力への挑戦を試みた画期的な小説なのである。その辺を寛容な心持ちでご理解頂きたい。
抗議は一切受け付けない。募集しているのは、温かい励ましの言葉だけである。
もしも、苦情のコメントがなされた場合は、冬空の下、温かいと見誤って冷たい飲み物が出てきた時のような失望感と自分に対する軽い憤りを感じるだけだろう。
今回、伊藤くんがした事と言えばPDAにアイデアを書き込んだ事と食堂に行った(というより回想)だけである、次回はもう少し運動不足を解消しようと思うが定かではない。
- 作者: 白石昌則,東京農工大学の学生の皆さん
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