<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと総集編(ちょっと手直し版)

この辺りで、伊藤くんのひとりごとをまとめて読みたいというコアなファンのリクエストにお答えして(一人で書いていると虚しい)、今回は大河ドラマ並みに総集編をお届けする。これが、作者のひとりごとである。

 1 
 伊藤くんは、怠け者である。のび太に負けるとも劣らない怠け者である。
 例えば、やっぱり英語は勉強しとかないとマズイかなと毎年四月になると一斉に並ぶ語学テキストを見て思うのである。
 一冊が安いせいもあって、つい買ってしまうのであるが、いつも折り目のついているのは始めの一週間分だけである。
 初日はまるで初めての遠足のように、ワクワクしながら朝早くに録音ボタンを押すのだが、日が経つにつれ、録音は予約となり、あっという間にすごい量になってラジカセの忠実さに恨みすら抱くのであった。
 一日分はわずかなフレーズしかないけれど、それが一週間、一ヶ月、一年ともなると膨大なものになる。継続は力なりと思って始めたものが、チリも積もれば山となるに変わるのは伊藤くんの怠け癖が成せる技なのである。
 そもそも、伊藤くんは何を始めるにも意志が弱いのである。しかし、ここが致命的なのであるが、彼はその点について全く気付いていないのである。
 大体、たとえ15分のプログラムでも毎日続けるというのは大変なことである。もしも、彼の専売特許である意志薄弱に特許申請が認められていたなら、今頃とっくに億万長者になっていてもおかしくないのだ。
 しかし、そんな伊藤くんにも取り柄がある。
 伊藤くんの長所を一言で述べるなら、好奇心旺盛である。
 とにかく目新しい物にはすぐに飛びつく。
 大人気のゲームソフトが発売されれば、前日の夜から最前列に並び、何が何でも手に入れてしまう伊藤くんである。
 そして何でも理屈から入ってしまう伊藤くんである。
 例えば、スポーツを始めようと思えばあらゆるハウツー本を読みあさるし、どんな電気製品のマニュアルも隅々まで読んでからでないと電源を入れない方である。
 それはまるで節約本を買いすぎて、全然節約になっていないとか、参考書を買い込むばかりで一向に勉強しない受験生に似ている。
 畳の上の水練、机上の空論。
 それも彼のトレードマークだ。
 さて彼はいくつなのだろうか?
 実はさっきから、その事が気にかかっているのは読み手のあなた以上に作者の私なのである。これで、七十の爺さんなのでした等とすると叙述ミステリーになるのであるが、それではこの話を続ける自信が無い。
 実に弱気な私小説である。
 いや、そういう体裁をとったつぶやきみたいな文章の蓄積である。
 それはまるで、友達の話なんだけどと言いながら、自分の相談をしてしまう女性の長電話に似ている。実は、最初から答えが決まっているのだが、検察官もびっくりの巧みな誘導尋問の末、結局自分の納得する返答に持って行ってしまうアレである。
 だからと言って、ここに書かれている事が全て作者にあてはまると思われても困ってしまう。
 あくまでそういう体である。
 体と読まないで頂きたい。体裁のテイと読ませたいのだ。
 そこで(どこでだ!)、伊藤くんは最もベターでベタな大学二年生にしようと思うのである。
 ところで関西では、二回生と表現するのが慣わしである。奈良県吉野の山奥に生息する鷲の事ではむろん無い。
 偶然にも作者は奈良出身である。だから、この物語の舞台は当然(?)の事ながら関西が舞台となる事を始めに断っておかなければならないだろう(いつの間にか作者のつぶやきに変わっているのはたぶん目の錯覚だ)。
 思うに関西弁で書くと、なぜか三枚目になるのは気のせいだろうか。アニメのキャラのボケ役は関西人と決まっている。しかも関西人から見ればその極端なイントネーションは、あまりにおかしい。
 それは中国人が「○○アルヨ」と言うのに等しい。
 実際にはありえないところで、語尾を上げ下げする。
 おそらくどのようなドラマも現地の人が聞けば、ありえない方言のオンパレードなのだろう。
 そもそも関西人というのは、面白いと思われすぎている。黒人は歌がうまいとか、ラテン人は陽気だとか、世の中の固定観念はなかなか変わらない(だから、固定と言うのだが)。
 だから、東京ラブストーリーと言うと何だかロマンチックなストーリーを期待するが、関西ラブストーリーと言うとそれだけでお笑いとか人情を連想してしまうのである。
 関西純愛物語とか。
 なにわ人情物語とか。
 この差は何なんでしょう?(つづく、かな)


 さて、すっかり置いてけぼりをくらった伊藤くんがすねるといけないので、話を先に進める事にしよう。
 伊藤くんも結構変わっているのだが、それは多分に両親の影響でもある。
 伊藤くんの両親は、世間から見ればごく一般的な部類に入る。お父さんは普通の会社員で、お母さんは専業主婦である。
 では、どこが変わっているか?
 実は二人とも発明に凝っているのである。
 二人は常にアイデアとか発想という物に興味津々で、伊藤くんもその影響で好奇心旺盛なのである。
 たとえば家に帰って、最初に発する言葉は「ただいま」ではなく、「おはよう」であったりする。
 すると、たとえば母親も「おはよう」と反応する。
 しかし、別のある時は全く別の言葉であったりして、こちらもそれにすばやく反応しなければならないのである。
 それも全て頭に刺激を与え、常に発想法の助けとする為であった(どんな家族だ!)。
 また、父親がある本でアイデアマラソンなるものを知ってからは、毎日最低一つはアイデアを出さないとご飯さえ与えてもらえなかった(ペットか!)。
 アイデアに貪欲と言えば聞こえもいいが、要するに変なところで厳しい両親なのである。
 利き腕もどちらか一方より、両方使えた方が右脳にも左脳にもいいということで、両手が使えるように箸の持ち方や鉛筆の持ち方さえ矯正された。
 そのおかげかどうかはともかく、伊藤くんも今では新しい思考訓練に関心を持つようになった。
 だから、彼の好奇心は筋金入りなのである。
 この点こそ彼が他人と違っている個性というべきものだろう。
 さて、世の中には不思議な事が満ちあふれている。伊藤くんのような若者にとっては満ち満ちているといってもいいだろう。
 
 先日も不思議な事があった。
 ある大型の家電販売店のレジで並んでいると、前の人がいわゆるポイントカードというものを店員に差し出した。
 そこまではよく見るやりとりなんだけれども、その後が少し違った。
 店員が受け取ったカードをレジに通すと、少し怪訝な顔つきをしたのだ。そして、恐縮した口調で、
「お客様、申し訳ございませんが、こちらのカードは現在紛失届けが出ておりますのでお使いになれません。よろしければ、新しいカードをお作り致しますが…」
 と、丁重に応対したのだ。
 そう言われた中年の男性は、大して動じる事も無く、じゃあ新しいカードをと、その場で入会手続きをしたのである。
 紛失届けが出ているとは、もちろんカードの所持者からであるはずだから、それはつまり今ここにいる本人の事であるはずである。
 たとえば、カードのポイントを借りるつもりで友人から借りたとすれば、紛失届けが出るはずは無い。
 では無断借用したのだろうか?
 もしくは拾ったのか。
 しかし、どのような理由であれ、他人の所有物をそのままレジで差し出す勇気はなかなか湧かないものだ。
 ましてや、でたらめな情報かもしれないがその後で入会手続きをすれば、平静を装っている店員が、紛失届けを出している当人へ個人情報を伝える可能性もあるのだ。
 だから、不思議なのである。
 真相はXファイル並みに闇の中なのであるが、店員のとっさの対応に舌を巻くと共に、後日談が気になる伊藤くんなのであった。
 案外、ケンカ中の弟のカードなどと言うつまらないオチが妥当なところなのかもしれないが。
 
 不思議と言えば、書店におけるブックカバーのかけ方も不思議である。表と背表紙の両方がカバーの口に入っていないのは単なるカバーを本に挟んでいるだけだから、まだ分かるとして片方だけかけてもう片方の口だけそのままにしているのがよく分からない。
 そして、大抵の書店でそのような中途半端なかけ方をしているのがより不可思議さを醸し出す。
 中には変わった人もいて、カバーに折り目をつくのが嫌だとレジで声高に主張する客を見かけた事もある。
 筆跡鑑定によれば角を丸く書く人はあまり他人と衝突を好まない性格らしいので、このような人はきっと角張った文字を書くに違いない。
 文字には性格が表れるなと思う伊藤くんは、分類幅の少ない血液型分析よりはよっぽど信頼するのであるが、やはり分類にあてはまらないのが人間の複雑な点であり、また面白味でもあるのだろうと思う事にしている。
 手提げ袋を持参する人が、レジで「袋は要りませんから」と少しきつめの口調で言うのを見ると、地球に優しい人が必ずしも人に優しいとは限らないなぁなどと思ってしまう伊藤くんである。
 その人もまた角張った文字を書いたりするのであろうか。
 不思議だ。
 実に世の中は不思議だ。
 
 町で見かける土下座したホームレスの前には、蓋の開いた缶詰めが置かれている。
 中には小銭が少し入っているだけだ。
 老境にさしかかった風貌のこの人に何があったのかは分からない。
 若くして借金にまみれ、人生を踏み外したのかもしれない。
 家族も身寄りも無く、ただ頭を下げて物乞いをする姿が寒空の下でさらに哀愁を感じさせる。
 大して喉も渇いていないのに、何となく口さみしくてジュースを買おうと自販機に投入する小銭が、この人にとっては一日の唯一のごちそうになり変わるかもしれない。
 おそらくこの浮浪者には、生きる望みも働こうとする気力ももう無いだろう。
 仮にあったとしても、社会のレールから外れた老齢者に満足な働き場などそうそう見つかるわけも無い。
 その一方で、指先一つで何億ものお金を動かす人もいる。
 全く世の中は不思議である。
 極端な話だが、自分の時間が持てないくらい忙しい金持ちの都会人と、その日暮らしではあるが、自分の好きな事をしながら過ごす田舎の人と果たしてどちらが幸せか。
 世の中は万人に平等ではない。
 あくせく汗を流して働く事が美徳に思えても、他人にお金を貸す事であっという間に利潤を生み出す人間の方が楽である事は明らかだ。
 つまり、一日の労働量と得られる利益は千差万別である。
 伊藤くんも学生なので、当然搾取される側である。彼がどれだけ頑張っても、特別な才能や運が無い限り、体を酷使する事でしか人並み以上に稼ぐ事はできないのだ。
 きっと世の中にはこの先、どんなに頑張ってもどうにもならない事がたくさん待ち受けているに違いない。
 だから、伊藤くんは毎日楽しく過ごしたいなと思うのだ。
 楽しい事を毎日していれば、生きる事も楽しくなるし、たとえ苦しい労働であったとしても頑張れるのではないかと考えているのである。
 生きるためには働く事は不可欠かもしれないが、もしも莫大な財産が急に入ってきたらどうだろう?
 豪遊三昧の末、残るものは何か?
 生き甲斐が無ければ、お金があってもきっとつまらないのではないだろうか?
 老後になってから人生を楽しむという人が、果たしてそう簡単に楽しめるものだろうか?
 寿命も平等ではないのだ。
 伊藤くんにとって楽しく過ごすというのは、自分の好きな事をとことん究めるという事である。
 自分の好きな事を毎日たとえほんの一瞬でもできたら、生活にも張りが出て、毎日が楽しくて仕方無いだろう。
 もっともっと生きたくなって、人生は充実する事だろう。
 もしも、明日この世からいなくなったとしても、きっとその人は楽しかったのではないだろうか。
 結局のところ、人生の価値は人それぞれなのだろうと思う。
 伊藤くんの人生における価値は毎日楽しく生きるという事に尽きる。         
 だから彼は好奇心旺盛なのである。

 ところで伊藤くんにはちょっと変わった癖がある。
 物が多すぎるのだ。
 その原因ははっきりしている。
 彼は何でも買い溜めしないと気が済まないのだ。
 例えば、ボールペンが一本だけ必要だとしてもどうせいつかは必要になるからと何本もまとめ買いしてしまうのである。
 ボールペンくらいなら確かに大した事は無いが、これがあらゆる物に対してそうなのだから始末に悪い。
 だから旅行なんてしようものなら、ちょっとした民族大移動状態なのである。
 お前は一体何人分の荷物を持っているんだ、などとつっこまれたりするのである。
 将来、デパートの販売員にでもなれば確実に在庫を増やす伝説的な存在になりうるだろう。
 もっともそうなった場合は、真っ先に会社のお荷物在庫となった彼がリストラされるだろうが。
 
 そういうわけで、彼は普段から荷物が多い。各種の常備薬や小型のひげ剃り、暇つぶしの携帯ゲーム機、文庫本(しかも二冊)、電子辞書、iPOD等々、常に鞄は一杯だ。まるで小学生の多機能型筆箱のように大して使わない物ばかりだ。横のボタンを押すと虫メガネが出たり、上のボタンを押すと定規が飛び出すアレだ。
 最近凝っているのは斎藤孝さんの三色ボールペン活用術だ。斎藤孝さんと言うとじゅげむブームや声に出して読みたい日本語で一躍有名になった大学教授である。
 文章を読みながら、まあ大事というところには青を、客観的に見てすごく大事と思ったところには赤を、自分が面白いと思ったところには緑を引く。このように主観・客観的な読み方を色分けすると文章の理解度が高まり、後から読み返した時に視覚化され論旨がつかみ易くなるらしい。
 伊藤くんも早速、試しに大学のテキストに傍線を引きながら読んでみると、今まで漠然と読んでいた難解な文章も随分早く理解できるようになった。斎藤さんに言わせれば、三色をカチッカチッと使い分ける事が頭の中のスイッチを切り替える事にもなるらしい。
 伊藤くん感心する事しきりである。
 さすが、偉い学者さんである。
 へへぇ。
 平身低頭である。
 水戸黄門登場の時間である。
 これに味をしめた伊藤くんは四色ボールペンで更に細かく読み方を分析し始めた。
 それから少しずつ色を増やし、現在は六本の四色ボールペンで実に二十四色もの色を引きながら読んでいる。
 こうなると全く何が大事で何がそうでないか分からなくなってくる。
 まるで、ぬりえを覚えたての幼児である。
 わざわざ市販の四色ボールペンの芯を入れ替えて色数を増やす念の入りようであるが、伊藤くんどこか人とずれているのである。
 引く事に夢中になるあまり、全然文章を読んでいないのである。
 目的と手段が逆転している。本末転倒、抱腹絶倒である。
 木を見て森を見ず、林に迷い込むような性格である。
 かくして、毎日何か面白い事は無いかと模索し続ける伊藤くんであった。


 翌朝、通学途中の改札口を通り過ぎると、やっぱり今日もあれれと首をかしげた。
 この一週間、いつもの光景に出くわさないのだ。
 人には、習慣がある。朝起きて、最初に何をするかは人それぞれだ。
 伊藤くんにももちろん習慣がある。
 いつも見かける光景をある日突然見かけなくなると、妙に気になるものだ。
 最初にそれを見た時は不思議だったが、最近はすっかり日常の一コマになってしまった。
 その光景というのを今から書いてみよう。
 
 改札口の柵の向こう側には老婆が待っている。そして、柵のこちら側には一見すると普通の勤め人には見えない中年の男が手提げ袋を持って、柵越しに何かを渡している。
 これが毎日決まって伊藤くんの通学時間に合わせて行われるのだ。
 もちろん伊藤くんにも休日はあるし、昼からの授業もあるので実際毎日行われているかは分からないのだが、とにかくよく見かけるのである。  
 駅員が特にとがめ立てしないところを見ると、よくある行為なのだろうか。あるいは荷物の受け渡しくらいなら許されるのだろうか。
 そう言えば、昔とんでもなく大きな荷物を背負っているお婆さんが電車に乗っているのを見かけた事があった。中身は干物だったから、きっとどこかの店へ卸しに行く途中だったのだろう。一体、こんな小柄な婆さんのどこにそんな力があるのかと思う程の怪力だったが、きっと荷物を持ち上げるコツのようなものがあるのだと思う。
 
 この二人もそういった類なのだろうか。
 伊藤くんは老婆の後をつけてみたい衝動に駆られたが、行く先が全く違うのでいつでもいいかとそのまま通り過ぎて約一年がたった。
 それがこの一週間、全く見かけなくなってしまったのだ。
 
 謎である。
 
 実は、親戚関係にある二人が近所のスーパーで安売りした食材を大量に購入して、それを弁当屋で働いている老婆がいかにも自家製のようにしてお昼時に売っているのかもしれないが、真相は真昼にもかかわらず闇の中である。
 名探偵コナンがいたら、早速少年探偵団の調査が始まるところだろう。
 実際は補導されて、先生に怒られるのがオチだろうが。歩道でね。オチてないか(反省)。
 伊藤くんの周りは謎だらけである。
 しかし、よくあるミステリー小説と違って何ら解決しないところが画期的である。
 何の弁解だろう。
 いくら型破りとは言え、森博嗣の工学部・水柿助教授シリーズだってここまでなげやりではない。
 同じ槍でもどうせなら重い槍、いや思いやりに満ちた作品を書きたいものだ。
 飛んでいる距離ではこちらの方が上か。
 そもそも同じ種目ですらないのかもしれない。
 飛距離を競っている場合ではないか。
 
 しかし、何かに疑問を持つ事は頭に刺激を与える事なので伊藤くんにとっては大いに興味のある事なのである。伊藤くんがもっとも恐れる事は思考が停止する状態である(それって意味が違うかもしれない)。
 面白いCM作りで定評があり、ゲームソフトI.Qやダンゴ三兄弟のプランナーとして有名な佐藤雅彦さんは『毎月新聞』(毎日新聞社)というエッセイ本の中で「私たちは、質問(=問題)ができた時に初めて答えに向かって進むことができる。極端な言い方をすれば、素晴らしい質問ができた時、その先に素晴らしい答えが用意されていると言ってもいいほどである」と語っている。
 
 つまり、問題が無ければ考えなくなってしまうのが人間の習性なのだ。
 だから、毎日何かを考え続けていなければ、何も生まれないのだと伊藤くんは思っている。
 伊藤家の家の時計はしょっちゅう合っていない。
 というより、わざと実際の時間とずらしてあるのだ。
 小さい頃から、それが当たり前の伊藤くんにとって、時間というのはあくまで人間が決めたものであり、人間はそれに基づいて生活サイクルを作っているのだという概念がある。
 そうして実際の時間とは違う空間で生活すると、時間という鎖から解き放たれて、一種の無重力状態に置かれたような感覚に陥る。
 これも両親が考え出した脳に刺激を与える工夫の一つである。おかげで頭の中まで真空になってしまったけど。

 4
 学生通りの坂を駆け上がりながら、一時限目の授業に間に合った伊藤くんは携帯を取り出し、サイドボタンを押す。授業中のメールは禁止されているが、この広い教室の中では教授に見つかる事も無い。
 というより、教壇側から見ればやる気のある生徒の方が少ないのは一目瞭然なのだ。だから、実際のところ机の下でごそごそしていてもいちいちとがめ立てなどしないのである。
 しかし、伊藤くんが今携帯を机の上に置いているのはメールのためではない。
 この携帯にはボイスレコーダーがついているのだ。
 と言っても今時デジタル放送の録画さえできるのだから驚くことではないのだが。
 彼は同じサークルの所山一樹のために講義を録音しているのだ。

 伊藤くんの学部は法学部で、カズは社会学部だが、同じパンキョウ(一般教養)の科目を取っているのだ。
 そしてカズは近くのマンションで気ままな一人暮らしをしている。
 だから、伊藤くんより遙かに有利な立地条件のくせに朝に弱いせいで一限目の講義に現れる確率は宝くじより低い。
 全く、現代の科学は学生を怠惰にさせるのには十分である。
 
 伊藤くんは次にPDAを取り出した。このPDAは普通の電子手帳とは少し違う。画面が二つあるのだ。
 これを状況に応じて縦にしたり、横にしたりして使う。実は伊藤くんの親戚はパソコンソフト関連の事業をしている。そこで彼は試作品のモニターをしているのだ。大した額ではないが、バイト料ももらっている。
 しかし、何よりも新しいモノに目が無い彼にとってこの仕事はほとんど趣味と言っても過言ではない。そして、この試作のPDAは伊藤くんにとっては手放せないアイテムになりつつある。
 もちろん、現在は黒板というものはあまり見かけない。ホワイトボードはまだ主流だけど、この講義も大型のホワイトボードを使用し、各座席には画面がついている。教授がボードに書いたことは全て手元のディスプレイに写し出され、必要に応じてプリントアウトすることができる。
 また各学生は自分の端末をつなぐことができ、データとして落として保存することも可能である。但し、これを自宅で受信できるようにはなっていない。技術的には可能だが、未だに講義は出席して受けるものという古い考えが残っているのだ。
 実際はテスト以外は出席しない生徒の方が圧倒的に多いというのに。
 もちろん通信教育に準拠するような教育システムをとると、大学という存在意義が薄れてしまうというのがもっとも大きな理由かもしれない。肩書きや権威というのは大学のアイデンティティと言ってもいいだろう。では伊藤くんの存在意義は?と言えば、この講義のテキストデータと音声ファイルをメールで添付するというところにあるのだけど。
 
 ところで伊藤くんのサークルにはカズの他に二人の部員がいる。たった二人というのが笑えるが、このサークルには先輩がいない。
 何と楽な設定か。
 この辺りが小説の楽なとこである。
 このサークルはアイデア発想クラブと呼ばれ、会員制のネット上の呼びかけで集まったサークルなのである。このサイトには紹介した者しか入れない。そこでは共通の趣味を持った人たちの共同社会(コミュニティ)があり、偶然同じ大学の者たちの呼びかけで集まったものだ。
 時代である。
 そういう事にしよう。
 彼らには部室も無く、ただ学食の一角に区切られた共有スペースでだべっているのが常である。
 一人は山口洋子さん。文学部の二回生である。
 そして、法学部と文学部は同じ校舎で使用する事が多いから、伊藤くんとも出会う機会が多い。
 もう一人は経済学部の田山等。校舎は少し離れているけれども、今はメールがあるのですぐに集まる事ができる。その話はこれからおいおい出てくることになると思うが、それは作者の僕にも分からないことである(オイオイ)。
 
 ところで、講義をつまらないと思うのは学生側であり、こんなに工夫しているのになぜ興味を持たないのだろうというのが教授側の疑問である。
 これは太古の昔から、永遠に交わる事の無い平行線である。漸近線と錯覚したのは教授側かもしれないが、交わる事が無いという点では大して違いはないだろう。
 テスト嫌いな伊藤くんであるが、予備校に通っていた頃の異常な熱気に満ちた講義を思い出すと大学の講義は活気が無いなと思う。
 それはなぜか?
 予備校の授業というのは入試問題を解く為にある。
 そして問いには必ず答えがある。
 だからそこには一定の解法があるわけだ。
 その解き方が鮮烈であればある程、講義にも熱が入り、生徒も耳を傾ける。
 人間は答えのある問題の方が解こうという気になるものだ。しかも入試というシステムは自分の能力を点数という目に見えるものに置き換えてくれるので、批判は数あれど分かりやすくて飛びつきやすい。
 しかし、大学の講義には問いはあっても答えは無い。
 あるものもあるが、単に知識を試すテストは少ないものだ。
 極端に言えば、答えは各人それぞれにある。
 つまり、目に見えない。
 そしてどちらが質の高い問題であるかと言えば、明確な答えの無い問題こそ無限の可能性があり、また新たな問題を生み出すものであるのだが、そもそも入学で求められるものは学問を追究する意欲よりも、スピーディな情報処理能力であるのだから、この両者の乖離が生徒と教師の距離感を作り出しているのである。カップインまではまだまだ時間がかかるだろう。
 結果として、純粋に学問をしたい者の多くが大学院に進むのである。
 医学部や教育学部のような専門性の高い(というより若いうちから人生設計がはっきりしている学生の含有率が高いというべきか)学部ならいざ知らず、本当の大学教育は大学院レベルになってようやく始まるのである。
 それまでの四年間は言わば準備段階という感じだ。かなり古いOSを起ち上げるような感覚と大差ない。
 そのように若い時というのは勉強に意義が見出せなくて勉強嫌いになる人が多いのだけど、社会や家庭に入って何年かすると急に意義の無い勉強をしたくなる大人になったりするのだから世の中は面白い。
 その勉強は何も学校教育や資格に限った事ではなく、平たい言い方をすれば習い事と言ってもいいかもしれない。
 本来、学ぶというのは学びたいと思った時に学ぶのが理想だ。人間は本質的に学ぶのが好きなのかもしれない。
 だから勉強に年齢は関係無いのだが、その後悔の念は自分の子どもへと向かい、教育ママやパパが生まれるというのも不合理ながら自然なのだろう。

 ところで、学生の伊藤くんには常々不思議に思っている事がある。
 それは気がつくと、引き出しの中がプリントだらけなのである。
 名付けてプリントばっかり怪である(温度はまだまだ下げる自信がある)。
 伊藤くんにはもらったプリントを無造作に引き出しに突っ込む癖がある。
 そして、一週間もしないうちに引き出しは開かなくなるのだ。
 小学生の頃から、学校の七不思議(伊藤ヴァージョン)の一つである。そしてそれはいまだに解決することの無い難事件迷宮入り確定なのである。

 5
 昼過ぎにやっと出てきたカズが、指先から立ちのぼるタバコの煙をぼうっと見ながら
「何か面白い話ないん?」
 と口火を切った。
 おそらくカズにとっては今が朝なのだろう。
 こいつはちゃんとした社会人になれるのだろうか?
 もしくは社会が彼に慣れるのか。
「やっぱさー、デスノートが最高だよね」
 と関東弁で答えたのが洋子さんである。
 洋子さんは関西人のくせに関東弁を使いたがるのだ。
 何でも昔、関東に住んでいたらしい。
 あのイントネーションを聞くだけで、お尻のあたりがムズムズするのは、関西人の習性だろうか。
「てゆーか、確かにあれはすごい!福本伸行並やもんな」
 いきなりマンガの話になって飛びついたのが、やはりこの人、田山等、経済学部の二回生である。ゲームとマンガとアニメフィギュアと声優と…をこよなく愛する俗に言うオタクである。秋葉系そのままの風貌は、一時期電車男と言われたこともあるので、これ以上の形容は不要であろう。オタク特有の負けず嫌いでもある。
 口癖は、逆接の接続詞「てゆーか」である。英語で言えば、ハウエバーに近いかもしれない。とりあえず、否定するのが口癖だが、その大半は順接である。きっと現代文の問題は苦手であったに違いない。だから文系でも理系寄りの経済学部なのだろう。
 通称はヒトシ。一度、誕生日にヒトシくん人形でもあげようかと思うのだが、あれって市販されているのだろうか?
「今の小学生ってあんなん読んで分かるんやろか?」
 ヒトシのふとした発言にカズの目が少し光る。この男は議論が好きなのだ。さすがマスコミを志望しているだけある。
 一方、伊藤くんはどうしてるかというと、PDAを取り出して何やら図を描いている。
「何してるの?」
 洋子さんが覗き込むと、画面にはデスノート福本伸行という言葉が書かれ、それを丸で囲み、線でつないでいる。
マッピングコミュニケーションだよ」
 繰り返して言うが、ここは関西である。そのはずである。しかし、ここには一種異様な異文化コミュニケーションがある。その事をご理解頂きたい。以上、ソクラテスの弁明ならぬ、作者の弁明である。いっそ江戸っ子口調も面白いかもしれない、べらんめぇ(このようなギャグをいくつ気付くか、あるいは無視するかでこの小説の価値は決まる)。
マッピングコミュニケーション?また誰かの影響?」
 伊藤くんが目新しいもの好きである事はすでにみんな知っているので、特に驚かない。
「うん。齋藤孝さんのね」
 はー、またかって感じである。
 伊藤くんは待ってましたとばかり、しゃべりだす。洋子さんはまんまとワナにハマってしまったと心の何パーセントかで後悔するがすでに遅い。
 こうなると、最低一時間はとまらないのだ。
 彼のマシンガントークは、周囲の人間を殺傷するには十分だ。
 あわてて、ヒトシが止めに入る。こんな時、洋子さんは彼がスーパーヒトシくんに見える。
「会話のキーワードを図式化する事でどんどん話が進むってやつやろ?思わぬ言葉と言葉が結びついて発展したりー」さすがアイデアに関心のある人間の集まりである。
「うん。会話って図にしてみると結構おもしろいよ!」
 伊藤くん、話は遮られたものの同志を見つけた喜びで声が一オクターブ高くなっている。あと二、三回喜ばせればミーシャの音域を越える事も可能だ。マライヤキャリーというのは古いのだろうか。
「今はデスノートの話だろ?」
 このように司会進行もできる怠け者で議論好きのカズである。
 
 ところでデスノートをみなさんはご存じだろうか?
 急に話しの矛先が変わるのが、この小説とは名ばかりのニュースタイルノーベルである。もともとノーベルとは目新しいという意味だから、間違ってもいないだろう。
 
 ここで解説しよう。デスノートとは、週刊少年ジャンプで連載中の人間心理を中心としたサスペンスマンガである。論理の応酬が凡百のマンガと一線を画し、毎回手に汗握る展開が人気を呼んでいる。映画化もされる程の看板作品だ。
「福本さんもすごいけど、デスノートも相当なもんやで〜」
 スーパーヒトシくんはどうしても福本伸行と結びつけたいようである。だから伊藤くんが線でつなぐんだって!
 
 ここで解説しよう(またか)、福本伸行とは限定ジャンケンという奇抜なアイデアで一躍マンガ界に新風を巻き起こした天才マンガ家である。
 代表作は、先ほど述べた限定ジャンケンから始まる『カイジ』の他に麻雀マンガの金字塔『天』『アカギ』、あらゆるギャンブルの面白さを見せてくれる『金と銀』等、どんでん返しにつぐどんでん返しに圧倒される作風である。
福本伸行デスノートか。うん。なかなかいいとこつくな」
 カズダンスである。つまり、心が踊っているのだ。それにしてもネタが古い。まんま見ぃや!
「今の小学生って、ネットとか携帯とか当たり前だもんね。私が子どもの時なんてそんなの無かったもん」急に懐古趣味が入る洋子さんである。
「てゆーか、ジャンプもよくこんなん見つけてきたな。勇気あるわ」
「ヒトシ誰やねん!」カズがつっこむ。
全く忙しいことだ。ところでこのカズ君はSMAPで言えば中居くんかも知れないが、ルックスはキムタクに近い。ちなみにヒトシはキモタク(きもいオタク)だ。
 もちろん先程の発言はヒトシが他の誰かというクイズではない。お前はどこからモノ言うてんねん。何様やねんという意味だ。誰目線やねんでもいい。
 どうやら解説が必要なのは作品だけではないようだ。
 伊藤くんはというと、せっせとみんなの会話からキーワードを抜粋し、どんどん図式化にはげんでいる。
 誰が見ても分かりやすいノートというのがあるが、伊藤くんの場合は誰が見ても分からないノートを作るのには定評がある。まさにデスノートである。
 ヒトシの論はさらに加熱するようだ。
「俺、デスノートって新説デビルマンやと思うねんな〜」
「おっ、それ聞きたいな!」
 口を挟んだのは、もちろんカズである。
「つまりそれって、人間の良心とは何かみたいな哲学にいくわけ?」洋子さんはフォローがうまい。さすが国語の教師になりたいだけある。だんだんキャラの肉付けが出来てきて嬉しい(ひとりごと)。
「そうそう、悪魔と人間がいたとして、どっちが悪やねんみたいな」
「アニメの方じゃなくて、原作の話か」
 とつぶやくカズは、まるで難事件に立ち向かうホームズのような神妙な顔をしている。いつの間にか灰皿からもくもくと紫煙が立ち昇っているが、全く気にしていない。
「この先も目が離せませんな」
「だから、ヒトシ誰やねん!ご隠居か!」カズ二度目のクリアである。
 越後のちりめん問屋より、芸歴の長いうっかり八兵衛の方がよっぽど影で実権を握っているのではないだろうかと思いながら、伊藤くんは悪魔とか良心とかキーワードをせっせと書き込む。
 うーむ。実に平和だ。学生というのは、このような不毛な会話と怠惰な時間を過ごすからこそ学生である。時間の無駄使いは学生と相性がいい。
 昔なら、とっくに成人して社会に出なければいけないのに、全く社会に貢献せず、学校に通ったフリをしていれば大抵の事は許されるのが学生である。それが今まで学校を通ってきた事の免罪符なのだろうか。
 例えば、今面白い映画が公開されていれば(お金さえあればだが)観に行く事も可能である。どうやら映画と学生の相性もいいようだ。


 偶然というのは、ある意識した事象が続けて起こった時にそう呼ばれるのだろうが、午後の授業は善悪をテーマにした刑法の授業だったのも偶然と呼ぶべきだろうか。
 テーマは違法とは何かである。
 法律で罰するという事は当然、その行為が悪いからである。
 では何をもって悪とするかについては議論が分かれている。
 規範に反した行為を処罰する考えを行為無価値論と呼び、他人の法益を侵害した結果を処罰する考えを結果無価値論というらしい。
 
 例えば、人を故意に殺害した場合と過失で殺害した場合とでは故意に殺害しようとした行為を重く見るのが前者であり、結果として殺害した事に変わりが無いと見るのが後者なのだ。
 というような話を聞きながら、人が人を裁く難しさがいろんな考え方を生み出すのだなと感心した伊藤くんである。
 もしもデスノートの話が無ければ、記憶にも残らず、寝て過ごしたかもしれない。世の中は全く不思議だ。記憶と偶然も相性の問題なのだろうか。
 
 午後の講義でみんなとバラバラになった伊藤くんは、さて何をしようかなと思いながら、坂を下る。本当は夜にカテキョのバイトがあるのだが、急にキャンセルになってしまったのだ。
 と思ったら、カズからメールが入る。
 今、ヒマ?
 相変わらず、カズらしい素っ気ないメールだ。 
 ヒマだけど、何?
 しばらくすると返信が来た。
 食堂で待つ。
 うわ、せっかく駅の前まで来たのにと思いながら、伊藤くんはまた坂道を上るのであった。
 カズの家はどうやら金持ちであるらしい。バイトは全くしていないようだし、何と言うかガツガツした所が無い、妙な落ち着きがあるのだ。それが彼の魅力なのだろうか。
 夕方の学食は人もまばらだ。
 一見派手な服装の茶髪男、それがカズだ。社会学部の二回生である。春だというのに、少々暑苦しい格好をしている。体感よりもおしゃれを重んじる男なのだ。
 ホストと間違えられてもおかしくはない。もしも赤いスーツでも着ていれば、ポストと間違えられるのだろうかとどうでもいい事を考えてしまう伊藤くんである。
そんな思いはよそに(そりゃそうだろう)、カズはズルズルとカップ麺を食べている。食べるものにはポリシーの無い男でもあるのだ。
「何か用?」
「用が無きゃ呼んじゃいけないか?」
 いきなり攻戦的である。それがカズの照れである事が分かるのに、一年の武者修行が必要だったが、こういう時は話題を切り替えるのが得策だということも今の伊藤くんには分かる。
「何、食べてるん?」
 カズは見れば分かるだろとは言わず、
「僕は今インスタント焼きそばを食べている。しかし、これは焼きそばなのだろうか?お湯でゆでたのだから、ゆでそばではないだろうか?」
 何なんだ、これは。
 とても正常なコンピューターにはマネのできない質問だ。
 
 では、伊藤くんが突然の問題に戸惑っている間に、しばしインスタントについて考察してみよう。なかなか画期的な小説である。というより、行き当たりばったりである。司馬遼太郎の以下、無用の事ながらを思い浮かべながら読んでもらえると光栄である。
但し、こちらは思いっきり無用の話である。悩み無用〜。
 
 さて、伊藤くんの世代では分からないかもしれないが、その昔お湯のいらないインスタント麺があった。その名もアルキメンデス。歩きながら食べられる麺と自然科学者アルキメデスの名前をかけたネーミングだろう。実は筆者は食べた事が無いのだが、かすかに残っている記憶をたぐり寄せるとあんかけのようなものをかけて食べるものだったように思う。きっとかなりどろどろとした麺だろう。やっぱりまずかったのだろうか、その後この画期的な商品は発売されず口にする事は無かった。ところで、インスタント麺のノンフライ製法とは、油を使わないという事だけど、あれは巨大な扇風機で乾燥させて固めているそうである。以上、全く無用な挿話であった。
 
「やっぱゆで麺じゃないかな」伊藤くんは遠慮がちに答える。
「理想と現実というのは難しいものだよな」
「えっ?」
 話題の転換が早い。この男は、自分の興味が失せると話を切り替える癖がある。しかし、今日はいつになく早い。シャアザク並だ。こういう時は素直に話を合わせるのが友達というものだろう。
「その質問は永遠に繰り返される若者の慣習だと思うよ」
 なかなかかっこいい事を言う若者である。習慣と慣習では随分感じが違う。よく知っている漢字というのは逆にすると難しくなるものだ。例えば、保留を逆にすると留保である。議論は論議。愛情は情愛。実に不思議だ。

 それはさておき、分かったふりをしても歯が浮かないのが若者でもある。ところで歯の浮く経験は歯医者さんだって無いだろう。

「理想を掲げる事はたやすいのです。ただ理想の追求を許された人間は少ない。限りなくゼロに近いのであります。」
「それ何?」
「ドラゴンのセリフさ」
「ドラゴン?竜?桜?」
松本大洋だよ」
「ああ、あの卓球マンガの」
「ピンー」
「うわっ、オヤジギャグ!」
 あやうくカズの誘導尋問に乗るところだった。危ない、危ない。
 当のカズは、ゆで麺と格闘中である。
 突然、カズが顔を上げて、腕時計を見てつぶやく。
「ここまでで6分27秒か」
「は?」
 カズは特に関心なさそうな顔で、
「お前と俺の会話の時間」
 相変わらず変な奴だ。
「それって短いのか?」と伊藤くん。
カップ麺ができるよりは長いな」
 これでは、よく分からない禅問答だ。
 しかし、目新しいもの好きの伊藤くんは楽しんでたりもするのだ。
 ここでまたまたおもむろにPDAを取り出し、マッピングコミュニケーションを始めるのも伊藤くんだ。
 画面の中心にゆで麺と書き、丸で囲む。その横にアルキメンデスと書き、また丸で囲み、線でつなぐ。少し離れたところに、ドラゴンと書いて丸で囲むが、まだ関連しそうに無いのでこれは別グループ。その横にピンポンと書き、線でつなぐ。
「お前相変わらず、変わってるな」
「カズよりましだと思うけど」
「よし、そんなお前に俺からの問題だ」
 このようにしてまた無為な時間が浪費されていくのどかな食堂であった。

 帰りの電車で伊藤くんはメールをしている。伊藤くんはという限定句はこの場合、不適切である事はみなさんもご承知だろう。今や、車内で携帯を開いていない人など皆無だ。後は目が開いていない人を残すばかりである。

 伊藤くんは、送信ボタンを押して、すぐにその内容が間違いだった事に気付く。昔なら、悔やむところだが、今はキャンセル送信があるから便利である。相手がメールを開いていない限り、パスワード付きのキャンセルメールを送れば、相手方には履歴すら残らない。但し、相手がその受信のやりとりを見ていた場合、妙な誤解を生む事もあるので注意が必要だ。幸い、相手はまだバイト中のはずだ。と言って、見られて困るような内容でもない。

 次に携帯でブログサイトにつなぐ、まずは今日一日あった事を書き残すのだ。その後で、ブログの閲覧やデジタル放送を楽しむ。デジタル放送のいい所は受信電波に乱れが無い事である。また、双方向性機能が実に充実している。

 例えば、番組に流れているテーマ曲はすぐにその情報をサイトから受信して、着うたに設定できる。昔の携帯で言えば、アンテナに当たる部分にはペンが収納されているので、画面にタッチしたり、手書きの文字や絵を送る事も可能になった。

 ところで伊藤くんのお気に入りの一つにほぼ日サイトがある。これはコピーライターという職業を一躍有名にした糸井重里さんが運営する巨大人気サイトだ。タイトル通り、ほとんど毎日何らかの情報が更新される無料型ネット新聞だ。無料と言っても、その人脈の広さから紙面の充実ぶりは豪華で、ヒット商品や話題のネタがここから生まれる事も珍しくない。
 任天堂のヒット商品DSの人気ソフトもここで特集が組まれている。
あるコーナーでマリオの生みの親、宮本茂氏はこの人気ハードのコンセプトをこういう言葉で語っている。以下はその引用である。

「腰引かずにバット振ろう!」みたいなのがね。最近のモットーなんですよね。思いっきり振ったら当たれば飛ぶというのが、ほんとに最近、身にしみてきてて(笑)『マリオ』とか『ゼルダ』とかシリーズものなんかをつくってると、だんだんそれがうまくできるようになるでしょ。そうするとだんだんと「新しいもので思いきり振る」ということができにくくなるんですよ。だからびびらないようにしてましたね。

 天才ゆえのプレッシャーというものだろうか。
自分と同じ周回を走っている者がいなくなった時、人は風すらも感じなくなるかもしれない。と、そんな事を考えてみたりする伊藤くんであった。
 向かいのおじさんが口を開けて寝ている姿を見ながら、気道確保はやはり上向きだなと感じる伊藤くんでもあった。日本の経済も早く上向きになって欲しいものである。


 朝、目を覚ます。
 などと書くと、朝目を覚まさない奴がいるのか?とお叱りを受けるかもしれない。しかし、世の中には夜のお仕事で夕方に目が覚める人もいるのだから侮れない(この言葉の響きはなかなか面白い)。

 しかし、伊藤くんはごく標準的学生という設定だから(但し、少し変わり者であるが)、朝に目が覚めたのである。

 傍らの目覚まし時計に目をやる。
 96÷16:100−87
 6:13か。

 全く面倒臭い目覚ましであるが、もらいものだから仕方が無い。
 伊藤くんは枕元に置いてある任天堂DSの画面を開き、電源を入れる。背面からスタイラスペンを取り出し、画面をタッチする。脳を鍛える大人のDSドリルというタイトルをバックに不気味な多角形の立体顔が現れる。川島教授である。

 ここでクイズを一つ。
 この川島教授の所属している団体名を答えよ。
 5秒経過・・・・・・
 ファイナルアンサー?(この言葉もいつかNGワードと共に死語になるのだろうか)

 正解は、こちら葛飾区亀有公園前派出所である。

 もう一度。

 こちら葛飾区亀有公園前派出所レミオロメンオダギリジョーボビー金払えである。

 さっきより長いではないか。しかも、全く正解ではない。

 レモオロメンのネーミングの由来は、レディオヘッドの「レ」と恋人のみおちゃんの「ミオ」と(ここで加藤茶の歌を思い出す世代がこの文章を読んでいる可能性は低いか)路面電車の「ロメン」から採られたという事は知る人ぞ知る(確かに)。

 そして正解は、東北大学未来科学技術共同研究センターである(パッケージを見て書いているから間違いない)。その川島教授が監修したソフトがこの『脳を鍛える大人のDSトレーニング』と『もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング』である。

 そのうち『もっともっと脳を鍛える大人のDSトレーニング』や『もっともっともっと脳を鍛える大人のDSトレーニング』が出るに違いない。まるで買ってはいけない買ってはいけない戦争のように。

 さて、このソフトの中で特に毎日トレーニングするのが<計算100>と<算術記号>である。
 前者は(と書いてあると、すぐに前文を見返さないと思い出せないのは私だけだろうか)、画面に次々に現れる簡単な計算式の答えをペンでどんどん素早く書いていくというものである。
 後者は、7□2=9とあるマス目に算術記号をこちらも素早く埋めていくというもので、言わば表裏一体の計算トレーニングである。
 川島教授によれば、脳の司令塔である前頭前野を鍛える事により、頭がよくなるという事らしい。効果のほどは、筆者の場合この小説を読めば推して知るべしだが、100万本を軽く超える販売数を見れば、悪くはないかもしれない。

 ところで、いつもながら伊藤くんはどこに行ったのであろうか?

 何やら真剣にDSと格闘している。
 端から見れば、何かの電子手帳に必死で書き込んでいるようでもある。このソフトは横型の本体を縦に持ち、画面を左右にして使うので、一風変わった雰囲気である。
 横型のワイド画面を縦長に使うという発想は十字ボタンの発明者であり、マリオの宮本氏と共に花札任天堂を世界のブランドに仕立て上げた功労者、横井軍平氏の設計した携帯ゲーム機ワンダースワンでも見られた発想である。

 横井軍平氏と言えば、1941年に京都に生まれ(任天堂の本社も意外に京都である)、マジックハンド(正式にはウルトラハンド)、ゲーム&ウォッチファミコンゲームボーイという人気ハードを次々に手がけた(バーチャルボーイは残念だったが)とんでもない天才である。
 彼の事を書けば、たちまち一冊の本ができるだろう。97年に不慮の事故で他界してしまったが、現在でも彼の発明した十字ボタンがどれほど偉大かはお分かりだろう。
 その証拠に十字ボタンのついた携帯やゲーム機は実に少ない。特許があるからだろう。あのプレステでも四方向にボタンがあるものの十字ボタンではない。逆に任天堂の製品には全て付属している。現在では彼の名前は知る人ぞ知る名作パズルゲームGUMPEYに見る事ができるが、ゲームを語る上では忘れてはならない偉人である。
 天才というのはなかなか身近に感じられないハレー彗星のようなものだが、世の中には確実に頭のいい(定義は人によって違うだろうが)人間が存在するのは長井秀和以上に間違いない。
 
 朝、弁当に入れておくと自然解凍でお昼にはおいしく食べられる冷凍食材。まさに一石二鳥である。高齢者は熱いお茶を好むから、電熱ポッドを通じて生存を確かめる(と書くとちょっと怖いな)というアイデアも素晴らしい。お米のつきにくいしゃもじ、人が通らない時は電気がつかない光センサー、キーワードを入れるだけで自分好みの番組を録り溜めてくれるレコーダー、歓声の強弱でハイライトシーンをサーチしてくれる再生機能等々。誰もが、不便に思う事を洗練したアイデア商品が手助けしてくれる。
 
 一方で、アイデアを生み出すのは難しいが、マネるのはたやすい。セカ中が出れば、似たような死を題材にした作品が続出し、粗製濫造が引き起こされる。その昔のファミコン市場はまさしく足の引っ張り合いであった。任天堂はその脱却を図り、ハード市場の成績はおもわしく無いが、質的変換を目指した結果が任天堂DSで見事に結実した。
 誰もが、直感的に分かるインターフェース、思わず触りたくなるような不思議なマシーン。ぱたんと閉じれば、電源がオフされる親切設計。この辺りにMacと同じセンスの良さを感じる。Macのノートパソコンも画面を閉じればスリープ機能が働き、全ての作業が一時中断される。
 そして、ここが憎いのだが、作動ランプがまるで生物がすやすやと眠っているように明滅するのだ。また稼働中は背面のアップルマークが点灯するのも心憎い。一見何でもないところに心地よいセンスのきらめきが感じられる。だからMacの愛用者は絶えないのだろう。設計思想がユーザに伝わるものは高くても入手したい。これがマニアのゆえんであり、匠の技なのであろう。アイデアとはかくも貴重な人類の英知なのである。

 だから、伊藤くんはどうしたのであろう?

 彼は一通りトレーニングを終えると別のソフトをスロットに差し替えた。次のソフトは『英語が苦手な大人のDSトレーニングえいご漬け』である。タイトルからして日本語が苦手になりそうな長さのソフトであるが、このソフトには英語のヒアリング学習で最も効果的と昔から言われ続け、なかなか根気よく続かず断念した(あるいは将来するであろう)Dictation(ディクテーション=いわゆる書き取り)を徹底的に学ぶトレーニングが詰め込まれている。
 言わば、ゲーム感覚で楽しく学べるヒアリング強化ソフトである。
パソコンソフトの移植作品であるが、これが実にお手軽で素晴らしい。
 例文が流れるそばから、ペンでさらさらと英語を書き綴り、苦手なフレーズはペンタッチするだけで、すぐに何回も聞く事ができる。
 まるで英語洗脳ソフトである。
 例えば、お坊さん向けに『お経づけ』とか、愛のとりこにしてしまう『許嫁(いいなづけ)』、亭主が午前さまの『お茶づけ』とか、まだまだバリエーションは考えられる。
 勢いで書いたものはつまらない。スネ夫に反省しよう。いや素直に反省しよう(全く素直じゃない)。

 伊藤くんも今は英語学習に夢中なのである。
  こうして伊藤くんの朝は始まる。
 まるでスポーツ選手の朝稽古のように伊藤くんの朝メニューは多い。他にも読みかけの本がごまんとある。

 以下、無用な事ながら、ごまんという言葉を初めて聞いた時、筆者は5万というイメージからなかなか抜け出せなかった。

 5万である。
 
 これはかなりの数であるし、多いという意味では何となく合っている。ちなみに友人などに月に自由になる小遣いはいくら?と聞いて、5万です等と答える人がいれば、かなりぜいたくな方だろう。合っているけれども、間違っているという経験は他にもある。
 例えば、アブノーマルという言葉はabnormalだが、私はその英単語を学ぶまでは(しかもはっきりと自覚したのは高3である)危ノーマルだと思っていた。偶然とは怖い。降参である。

 いつもながら全く悩み無用で意味不明の文章であった。先を急ぐ(急げよ!)。と書きながら続く。

 伊藤くんはここで新たなアイデアを思いつき、PDAに書き込む。
 覗いてみよう。多画面DSとある。
 そこに何やら図が書いてある。
 任天堂DSは二画面だが、彼の書いた図には何画面ものスクリーンがつなげて書かれてある。まるでムカデである。こんな気持ち悪いものを何重にも畳んで使うのであろうか?

 確かに電子ペーパーはもはや日常で活用されている。だから画面の厚みや多さは簡単に解決できる。ネットからダウンロードした電子ペーパーにはその日のニュースが満載である。画面タッチで次のページに移り、ユーザは自分の好きなだけ電子ペーパーを広げ、任意の文字サイズで読める。満員電車で大きな新聞を広げるというような光景は今では昔の話である。携帯でニュースをチェックする者も多い。

 実際、携帯さえあれば、持っているだけで改札も通過できるし、クレジット機能で買い物もできる。昔よりもはるかに電池の持ちが良くなったから、月に一度充電するだけで十分だ。伊藤くんにはよく分からない技術だけれども、有機EL燃料電池の改良がごく日常の物として使われているのだ。やはり、アイデアというものはコピー&ペーストに向いているのだろう。
 但し、使うのは人間である。画面が何枚増えたところで三面鏡を覗き込むようなもので実体は把握できない。本末転倒のアイデアだ。

 ただ、伊藤くんのPDAにはランダム機能が付いたアイデアメモソフトが搭載されている。画面にアイデアを書いて保存するだけで、後は、ランダムにいろんなアイデアが表示されるというただそれだけの機能だが、アイデアというのはつまるところ蓄積されたアイデアの組み合わせである。どんなに斬新なアイデアも元となるアイデアはすでに存在する。人間が考える事などどれもどんぐりの背比べなのだ。しかし、組み合わせは無数である。どのような組み合わせがきらめきを生むのか、アイデアは人との出会いに似ているのかもしれない。

 ところで、さきほど読みかけの本がごまんとあると書いたけれども、これは客観的に見た場合の表記である。実は、伊藤くんはそれらの本を少しずつ併読しているだけなのである。
 このように記述というのは、執筆者の主観によって左右され、読者を翻弄する。新聞の記事やネットの文章が真実の側面である事を認識する事はバランスの取れた個人の価値観を形成する上では大切な事だろう。

 話は変わるが、伊藤くんは物の位置というものに名探偵のようにこだわる性分である。なぜそこにそれが置かれているのか?

 大して意味の無い場合もあるが、自分は当然そこにあるべきだろうと思う物が、ある人の場合には違うというような事があると考えてしまう癖がある。
 例えば、右利きの人と左利きの人では配置にも感覚の差異がある。長年使用している物には、たとえ見る人が不便に感じるものにも、そこにあるべき理由が存在する。

 先日、学食に行った時の事である。

 伊藤くんの大学では生協が運営している学生食堂がある。いわゆる学食と呼ばれる場所であり、伊藤くんたちのサークルの部室でもある。但し、この学食は全学部共通の大食堂の方であり、学部食堂よりも南に位置する。そして、ここがちょうど各学部から等距離に位置する建物でもある。
 この建物は五角形に近い形をしているので学生達からはペンタゴンと呼ばれている。おそらくパソコンのCPUで有名なペンティウムも五角形から来ているのだろう。

 ところで、四角形と言えば英語ではsquareで、あのドラクエファイナルファンタジーで有名なスクエニと同じである。
 では三角形は?言うと、楽器で有名なtriangleであり、三角関係はthe eternal triangle で永遠ってのは怖いな〜と思ってしまう。
 他に意外に知られていないけど怖い日常単語と言えば、suicide(自殺)という言葉がsuicide seatとなると口語で車の助手席の意味であったり、bodyが遺体という意味にも使われたり、使用する際には気をつけた方がいい単語もあるようだ。

 話を少し戻して、tri-が三倍を表す言葉であれば、単一を表すのがmonoである。モノレールやモノトーンはいずれも一つである。スピーカーでステレオの対になるのがモノラル。つまり、ステレオとは立体音響の事だけれども、いろんな意見が立体的に反映されるとステレオタイプとして固定観念やきまり文句になるのが面白い。出る杭は打たれるという事だろうか。この辺り、common senseが共通のセンスとなり、常識となるのに似ている。
 話をまた戻して、二つという意味ではbi-を用いる。だから、circle(円)が二つあればbicycleで自転車、三つあればtricycleで三輪車というわけだ。Bilingualがバイリンガルと言われるのも、二つのlingual(言語)を操るからで、バイリンギャルや帰国子女が女性であると考えるのは危ノーマルな発想で笑えない。また二つの言語が操れるから賢いというイメージがつきやすいが、実際は中途半端にしか話せない人間がいる事も肝に命じるべきだろう。相乗効果と相殺効果は違うのだ。では、三言語操る人はtrilingualと呼ばれるのだろうか。実にtrivial(取るに足りない)なくだらない話だ(こういうのを日本語の長島現象、あるいは重複表現と呼ぶ。残念ながらbilingualな表現とは言わない)。

 確か学食の話であった。

 もしかして、トリビア知識をひけらかす為だけにこの建物を思いついたのではないか?という見方は想定の範囲内だ。小説の中で唐突に衒学(げんがく)的な文章が出てきた場合は、その傾向が強いと思われる。もっともこの衒学的という言葉こそ衒学的だと思うが。また、知識の押し売りを感じさせないものほど、うまい小説と言えるかもしれない。

 さて、多くの学食がそうであるように、この学食もまたセルフサービスである。自分自身への奉仕などと聞くと、自分を自分で褒めてあげたいとか、自分の事を〜という人だから等という表現に似た面はゆさを感じてしまう。「癒される」や「ら抜き言葉」、「全然〜ある」という副詞の呼応に矛盾を感じる、いや感じられる私などにはしょせんエロかわいいや不倫は文化など分かるはずも無い。

 多分、学食の話であった。

 ここの学食でもメニューは食券である。タッチパネルで注文が厨房の画面に反映されてもおかしくない時代であるが、ここでは旧態依然としたシステムが日進月歩と隔絶した無縁仏として存在している。ネイティブの私でも何を書いているか分からないので、意訳すれば、紙に印刷された食券が取り出し口にすとんと落ちてきて、それを厨房の割烹着姿(こんな漢字は書けないな、きっと)のおばちゃんに渡すだけである。

 なぜこんなに簡単な事がスッと書けないのか。

 きっと国語の記述式問題なら、減点されまくりである。いや、そもそも記述解答欄に収まりきらないだろう。これでは、一人で悦に入っているパソコンマニュアルの執筆者、あるいは法律学者と変わりないではないか。いや、多分違う。彼らはどのように解釈されても困らないようにあらゆる角度から吟味した上で作成するのだ。思いつきのアイデアを小説というトッピングでごまかしたエッセイ風のブログとは根本的に違う。

 さてさて、ポイントはこの取り出し口にある(意外というよりも何が何だか分からないのがみなさんの本音だろう)。

 ここにクリップがはさんである。

 松田優作でなくとも、何じゃそりゃ?と叫んでしまうのをグッとこらえる伊藤くんである(忘れた頃に出てくるのがこの話の主人公である)。
 そして、その横に張り紙で「取り出し口のクリップは取らないで下さい」と手書きの注意書きがある。新入生の間では必ず話題となるミステリーである。
 試しに生協の黒岩さんに聞いてみた。生協の白石さんという本が売れたが、この方とは縁もゆかりも無い。ただ、ネット検索に引っかかる為だけに引き合いに出した、せこいミスリードである。
 これが映像なら、トレビアの泉で有名なあの声が聞こえるところである。しかし、この小説ではそれさえもセルフサービスであるから各自で想像して欲しい。下条アトムでもOKだが、時間がかかるのが難点である。

 「どうも生協の黒岩です。早速ですが、お問い合わせの件については生協では扱っておりません。でも、答えは知っています。ええ、私もこの大学に来て長いですからね〜。学食も毎日利用していますし、生協でも弁当を販売しています。500円でお釣りが来ますからね、メニューも豊富ですし、ぜひご賞味下さい。えっ?答えですか、簡単ですよ、食券が取り出し口から落ちないように防止しているんです。ほら、取り出し口にはフタがないでしょう?しかも、出てくる角度が非常に急なんですよね。まるで衝撃!老夫婦が登れない急角度の階段!って感じですよね。匠の技が必要な旧式の販売機なんです、はい」

 そう言う事であった。
 これを学食の怪として、本学ではもぐりの学生を見分ける踏み絵としているとかいないとか。
 この話の始まりは、見る人によって価値の変わるものである。覚えていただろうか?
 この小説は記憶力と持久力への挑戦を試みた画期的な小説なのである。その辺をどうか寛容な心持ちでご理解頂きたい。抗議は一切受け付けない。募集しているのは、温かい励ましの言葉だけである。もしも、苦情のコメントがなされた場合は、冬空の下、温かいと見誤って冷たい飲み物が出てきた時のような失望感と自分に対する軽い憤りを感じるだけだろう。

 今回、伊藤くんがした事と言えばPDAにアイデアを書き込んだ事と食堂に行った(というより回想)だけである、次回はもう少し運動不足を解消しようと思うが定かではない。


 さて、私は多分おそらくきっと間違いなく半信半疑ながら小説を書いているはずである。この希望的観測表現に満ちた一文を読者のみなさんはこれから先も般若心経のように何度も心の中で反芻しながら読んで頂きたい。

 目を左右に走らせる筋力トレーニングだと思えば、貴重な時間も無駄ではないだろう。

 「おい、そろそろ始まるぞ」
 大きな講義室で、周りの学生がささやく。
 そう、この小説ももう始まっているのである。

 本来、小説というのは背景描写から始まるのが自然である。特にマンガはその傾向が強い。ドラゴンボールで有名な鳥山明さんもその昔、自身のマンガ作法の中で、冒頭の一コマ目は必ず背景描写から始めるべきだとおっしゃっている。

 その意味では、この小説はマンガには向かない。第一、主人公の動きは極めて緩慢で、筆者の独白が中心である。登場人物はみな書き割りのように平板で、エキストラ出演である。この台本を渡された役者は演技以前の段階で悩み、ノイローゼになるだろう。

 だから、真剣に読んではいけない。無料という事でかろうじて面目躍如というしだいである。

 ところで、講義に目を転じると、壇上ではすでに教授が時計に目を落としながら、じっとしている。試験が始まるわけではない。この教授、仮にM教授としよう。

 M教授は時間に忠実なのである。彼はいつも授業の開始5分前に壇上にいる。そして、定刻が来るまでじっと時計を見つめて待っているのだ。伊藤くんも無遅刻無欠席な方だが、教授もまた時間に正確である。また板書きがいっぱいになる頃、ちょうど授業が終わる事で有名である。

 M教授は生徒の挙動には無関心である。私語に関しては他の生徒の授業を受ける権利を妨害してはいけないとたしなめるが、出席は取らないし、遅れて来た生徒を叱る事も無い。

 そして、試験をしない事でも有名である。成績は各自のレポートによって評価する。しかも提出期間は任意である。一応、半年に一度提出が義務づけられているが、枚数も提出回数も各自の自由である。但し、教科は民法に限られる。ただ、これは噂で聞いた話であるが、その内容に関しては民法に関連する事なら、巷の法律クイズのようなものでもいいらしい。

 彼が評価するのは法律の理論構成力という事なのだろう。出席を取らないにも関わらず、彼の講義はいつも満席である。これは新学期だからとりあえず様子を見るというのとは違う。また質問は随時受け付けている。これもレポートの採点と共に重視されているという事であるが、出欠を取るつもりは無いと公言している。
 大抵の講義は、ゴールデンウイークを過ぎれば売れない芸人ライヴのように空席が目立つ。しかし、この講義は常に大教室の6割は席が埋まっている。

 そして何と言っても圧巻なのが、民法を六法も見ずに一字一句暗唱してしまう事である。おそるべき暗記力。だから、M教授が条文の番号を告げるとみな一斉に六法を開き、チェックし、その正確さに感嘆する。もしかしたら、六法を開かせるためのパフォーマンスなのではないかと思ったりさえしてしまうくらいだ。

 もっとも伊藤くんだけはPDAの電子六法を開いている。重いのが好きではないのだ。テキストは未だに紙媒体なので仕方無いが、せめて六法くらいはデータで持ちたい。しかし、紙媒体にはそれなりの利点がある。ページをめくる事で他の条文を観る機会も増えるし、参照条文に線を引けば愛着?も増す。

 だから、伊藤くんの電子六法にはまるで紙のページをめくるようなページ送りや、ペンタッチによるチェック機能、さらに関連条文や判例へのジャンプ機能およびリーガルベースへのリンク機能まで備えている。いずれもまだ親戚の会社のモニターソフトではあるが、なかなか恵まれた環境にある学生といっていいだろう。

 ところで、法学部の教授や弁護士というと六法全部の条文を一字一句間違いなく暗唱できると思っている人が多い。答えはそんなわけないだろう、である。六法とは憲法民法・刑法・商法・民事訴訟法・刑事訴訟法の事を指す。

 しかし、どのようなコンパクトな六法にも大抵はそれ以外の細かい法律が書かれているのが現状である。
労働基準法薬事法民事再生法著作権法など、その全てに精通している弁護士などいるはずが無い。

 ましてや教授となれば民事専門や公法専門など分かれるのが普通である。弁護士だって、依頼内容によって交通法に詳しい先生や国際法に精通する先生がいるのは当然である。

 では、法律家とは何かと言えば、法律に詳しい事は当然であるとしても、それがそのまま条文暗唱につながるわけではない。もし、そうであるなら、コンピューターに調べたいキーワードを放り込んで関連条文を検索すれば済むわけである。

 しかし、それで結論が出せるなら法律家はいらない。人間が介在する余地がどこにあるかと考えれば答えは明白だろう。つまり、厳格に定められた法律には微調整が必要なのである。法律には類推解釈や拡大解釈による遊びが必要である。中には性質上、これになじまないものも存在するが、おおざっぱにまとめればそういう事である。

 裁判所が過去に出した結論を判例と言うが、世の中には法律を制定した時には想定すらできなかったようなとんでも事件が発生してしまうものなのである。その際、最も参考にされるのは学者の学説ではなくて、この判例である。つまり、類似事例で裁判所はどのような結論を下したか。公平な裁判システムを維持する為には、これはごく自然な流れだろう。

 もしもこの判例だけを検索するだけなら、やはりコンピューターがあれば十分である。しかし、実際の事例が全く同一である可能性は決して高くない。だからここでも微調整は必要なのである。

 そして、大学の講義もこのリーガルマインドと言われる法律の解釈や理論構成を養う場である。決して資格試験のために条文を片っ端から暗唱させられるような機械式の勉強を強いられるわけではない。

 従って、法律学部の人間が司法試験の勉強をしていると思うのは、英文学部の学生がみんな英会話を習っていると勘違いするのと同じくらい誤った先入観と言えるだろう。学問と試験勉強の相性が悪いのは目的の違いから導き出される当然の帰結なのである。専門学校の存在意義が試験に絞られるのもまた当然の事なのだ。

 ホワイトボードには要点だけがまとめられた板書きが少しずつ増えていく。手元のディスプレイにもその情報は反映されていく。授業に説明の写しは必要ない。ここで必要とされるのは問題に対する自分なりの理論構成であり、思考訓練である。提示される事例にはすでに一流の専門機関が妥当な結論を下している。生徒に求められるのは、その妥当性であり、時代の趨勢によって変遷した条文によるあてはめである。

 板書きがちょうど画面の端いっぱいまで書き終わったところで講義が終了する。M教授は大学教授らしからぬ独特の話術で生徒をひきつけるのがうまい。大学教授というとテレビでおなじみの人ばかりが目立つが、彼らにはそもそもタレント性があり、パフォーマンスがうまい。だから、大学に行けばそのような面白い講義が目白押しであるような錯覚を抱かれても仕方無い。

 しかし、逆に言えば、そのような面白い講義をするからこそテレビに引っ張りだこなのである。では一般的な教授陣はどうかと言えば、必ずしも説明がうまいわけではない。

 ここで誤解しないで欲しいのは、口下手と頭脳の良さは関係が無いという事である。極端な話、素晴らしい論文が書ければ評価されるのが大学の先生である。予備校の人気講師が面白いのは、生徒による評価が全てだからであり、彼らに論文は必要無い。そんなものを書いている暇があったら、一問でも多く入試問題を解き、どう説明すれば分かりやすいか、あるいは生徒受けのする解き方は何かという事に時間を割く方が効率がいい。

 さらに重ねて言えば、論文が下らないと書いたのではないから誤読しないで欲しい。文章には文脈というものがあって、単語の意味は文脈によって規定される。ネット上で文章を読むと、目の疲労からかついつい流し読みをしてしまい、極論部分だけがクローズアップされる場合があるから要注意だ。こちらが書いていない事まで行間を深読みする特殊能力を持っている人間が世の中にはいるのである。もちろん文書力の無さは自他共に認めるところではあるのだけど。

 そして、まだ一言もしゃべっていない伊藤くんを置いて話は次回に続くのである。

10
 時刻は夜である。
 
 この小説が画期的というのは、掟破りという意味においてである。ここでは時間的拘束も場所による制限も無い。

 時系列は複雑であり、学年はドラえもんやコナンのように変わらない。登場人物が全く言葉を発しない事もあれば、主人公以外の人物描写や筆者の屁理屈に終始する事もある。スジナシである。スジナシというのは笑福亭つるべが、毎回ゲストと筋の無い即興劇を演じるのが売りの番組である。一度ご覧になるとよろしいかもしれない。

 ところで、ここ最近小説のお時間ばかりだとお嘆きの奇特な方もここまで読んでくると、実は小説とは名ばかりで大して以前の勉強ブログと内容に大差無いではないかとお気づきの方もいるかもしれない。本当は気づいてくれという淡い期待を込めて今書いている。
 このようにして愛用のMacに向かって心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくっていると一端の作家気取りになってくるから不思議である。妄想は自由だ。憲法でも保障されている。一昔前にはできなかった事が今では個人レベルで大抵の事はできる。例えば、この文章もそれなりのソフトを使えばちょっとした自費出版並みの書籍を作る事さえ可能だ。
 そもそも画面に打ち出されているだけで、他人の書いた文章のような錯覚に捕らわれる事がある。いっそ他人が書いていると思えば、拙い文章もいくぶん慰めに変わる。

 ネットという不特定多数の目にさらされているだけでも書く意味はあるし、文豪と呼ばれる人しか出版できなかった時代と比べれば随分幸せな事だろう。だからと言って何でも書いていいのかと言えばそれも違う気がするが。

 さて、時刻は夜なのである。そろそろ会話を増やさないとマジでやばい、イケてない。エロかっこわるい。想定の範囲外だ。

 これは言葉の賞味期限を測定する為の実験である。

「何か期待外れやったな〜」
久々に登場の田山等、経済学部二回生、秋葉系である。浮かない顔の彼には、ヲタ知識を刺激するような要素は薄かったのだろう。

「私はああいうの分かるな。やっぱ女だからかなぁ。何かよしよしってしたくなるというか。その携帯、かわいい〜みたいな。あたしも同じのにしようかなみたいな」
 文学部・山口洋子二回生である。いちいち解説を入れるのはファンサービスというより、作者のキャラ設定リバースと単に人物描写に自信が無いからである。こちらはヒトシとはうって変わって嵐の過ぎ去った雲一つ無い空のように涙そうそうのサビの出だしのような表情である(聴覚と記憶を喚起させる実験である、文学性など望むべくも無い)。

 「まあ、あんなもんだろう。マンガの実写化っていうのは難しいからな。キャラの見た目が似てたらとりあえずオッケーみたいな」
 キムタク似の社会学部二回生、金持ちで議論好きであったと記憶する所山一樹、通称カズである。洋子さんと並んで歩くとモデルカップルみたいな感じである。天は二物以上与えていると確実に思う。うらめしい。

「僕は音楽が良かったと思うな」
 最後に口を開いたのは、我らが伊藤くんである。今さら説明は不要だろう(と書けばバックナンバーも見てもらえるだろうか)。

「あっ、それ、私もそう!やっぱ、バンドの話だからそれは大事よね。ベックだって、のだめだって、そこがダメだとザルだもん」

「救いようが無い、と」
ヒトシがぼそっと後ろでつぶやく。

「さむっ」
カズがブルった仕草で笑う。
続けて、「スケキオがいない犬神家っていうのもありかも」

「まっ、一番のミステリーは90歳の市川監督がメガフォンを取るって事だけど」
 ヒトシがさらにかぶせる。知ってるぞという意思表示である。ヲタのプライドはエベレストよりも高いのである。もしホテルを経営する事になれば、有頂天ホテルと呼ばれるであろう。

「あれ、流行るよね。もうCMでばんばん流れてたしね」
洋子さんの言葉に、伊藤くんの目がきらりと光る。流行という言葉に過敏な性分なのだ。ワレモノ注意のシールを貼ってもおかしくないくらい繊細なのだ。渚カヲルならガラスのようにという比喩を口にするところだろう。繊細というより、マメなのかもしれない。とにかく、いろんな事に伊藤チェックが入るのである。きっと家に帰って早速、携帯にダウンロードするつもりだろう。

 もしこの部分がセリフで語られていたら、ヒトシがエヴァネタだねとつっこむところであるが、作者のA.T.フィールドもまたチョモランマのように高い。梅田と大阪である。ネタは加速するが、無視しても物語には影響が無いので気にしなくていい。

 そうこう話しているうちに(大して話していないのではないか?)、出入り口に行列ができ始める。

 タイタニックのような形をしたこのビルは大阪の中心地、梅田のど真ん中に存在する。近くにはそねざき警察という日本で一番いちゃもんをつけられているであろう、かわいそうな国家施設がある。

 そねざきという地名がひらがなで表記されているのは、誰にでも読めるようにという配慮からだろうか。少なくとも当て字ではない。

 以下、余談の事ながら、筆者がよく利用する駅になるほどなと思わせる注意書きの看板がある。パッと見ると「高圧電気通電中」といういかめしい漢字表記と共に、近寄ったら危ないよという感じの絵が描いてあるのだが、その漢字の上にはひらがなで「こわいでんきがながれています」と書かれているのだ。これなら、大人も子どももお姉さんも(懐かしいフレーズだ)納得である。但し、漢字の読み仮名テストで減点されるので、世の中には柔軟性が求められるのだと教えてあげた方が賢明だ。どうやらひらがなは思考をときほぐす効果もあるようだ。

 ところで伊藤くん達が入ったこの映画館はシネコンと呼ばれる複合型のシアタールームである。そして、このビルの最上階に位置している。レイトショーで観たため、すでにエスカレーターは営業時間に準じて停止している。つまり、他の飲食店やファッションフロアはすでに閉店しているのである。

 従って、出入り口は必然的に二基のエレベーターに限られる。人気作品の為、ようやく劇場の扉を抜けた先もまた人でいっぱいである。

「うわ〜、めっちゃ混んでるやん!これはだいぶ時間かかるで」
時計を気にしながら、ヒトシが大きな声を出す。

「私、人混み苦手」洋子さんの顔に嵐が指す。実際、洋子さんはジャニヲタで嵐というグループが好きらしい。誰がタイプ?というヒトシ人形の質問に、みんな好きと答えたと言うが、それは煙幕なのではないかという見方もある。

 ジャニーズつながりで書けば、昔テレビで「人ゴミと書くと怖いね」とキムタクがつぶやいていたのを見た事がある。確か同じ年齢の人を招いて対談する企画番組だったと思う。他にもサーフショップに行って、値段を尋ねると店員が「木村さんならこれくらい安いでしょ」という発言にムッときたとも言っていた。これがセルフプロデュースでないとしたら、庶民感覚を持った感受性の強い若者という事になる。宇多田ヒカルが「金持ってるよ〜」と明るく言い放つようになかなか人物として素敵だと思う。予断を許さない余談である。

 ところで、人混みが好きな人などそうはいないのではないか?

 もし、いるとすれば、逃走中の犯人か、群衆の中で孤独に浸る執筆中の作家など限られた人種に違いない。ファーストフードを食べながら、眼下の人間観察を行ってみると、世の中には変な動きをする人がいるものだ。急に立ち止まって、思案した後、歩きだす人。地面にしゃがみ、鞄の上で書き物をするサラリーマン。前方不注意のままメールに夢中の高校生。もしかしたら、携帯電話を耳に当てたままひとりごとをつぶやいている人だっているかもしれない。そもそもこうしてマンウォッチングをしている人間だって十分に変だ。張り込みの刑事と間違われる確率よりも、単なる暇な人間と思われる方が一般的だろう。

 こうして、並んでいる人達を見ていると人間への興味は尽きない。圧倒的に若い女性が多い中で、年配の男性も混じっているが、周りを見渡せば、他の劇場でも上映作品があったらしい。つまり、群衆はますます増えるばかりだ。

 行列の前方で、「え〜」という声が上がる。何やらどよめきが起きているのだ。

「なになに?どうしたの?」
背伸びした洋子さんが、首をかしげる。実際はかしげていないが常套句というのは、文才の無い者にとっては定型文章と共に使いやすい。

「てゆーか、上がってくるエレベーターが全部満員なんだよ」
ヒトシの口癖に逆接の意味を探すのは、海中に落ちたコンタクトレンズを見つけるよりも難しい。

「変だね」伊藤くんも首をかしげる(楽だ)。

「何が?」
洋子さんにはワトソン癖がある。実は分かっているのに誰かに言わせたいという役回りを演じるのだ。賢いワトソン、あるいは今風に表現すれば山内一豊の妻、千代と言ってもいいかもしれない。

 仕方ないな〜というしたり顔で、見事ワナにはまったのはヲタの悲しき性に火がついたスーパーヒトシくんである。
「つまりね、このビルはこの映画館以外はほとんど閉まっているのに、下から来るエレベーターが満員なんてどう考えてもおかしいという事だと思うよ」

「そっか。そうよね」
心の中で舌を出しながら、洋子さんはうなずく。物事に聡い女性というのを嫌う男性も、若さとかわいさには弱い。見ようによっては嫌なタイプかもしれないが、洋子さんの巧妙さに気付く人間はそう多くは無い。

「下の階に行こうか」
カズがつぶやく。

「でも階段で降りると結構時間がかかるよ。洋子さんもいるし」
最後の言葉はヒールの高い女性を気づかっての発言である。伊藤くん、意外にやるではないか。

「下の階に降りられればいいよ」再びカズがつぶやく。

「えっ?」
ヒトシが驚く。

「そうね」
洋子さんもコンマ2秒で悟る。但し、他の二人には聞こえないように微かに、である。

「それでいいの?」
伊藤くんは傍観者である。ヒトシ陣営と言ってもいいが、カズの頭の良さはすでに分かっているので、本能的に従う方がいい事はこれまでの経験から帰結している。

(突然の暗転、スポットライトが一人の人物を照らし出す)

「え〜、みなさんご無沙汰しております。新畑任二郎でございます。今回の事件は地の文が長すぎます。その点では、みなさんはアンラッキーでした。残念ですぅ。しかし、このブログを丹念に読んでいる人はラッキーでした。ポイントはなぜエレベーターは満員なのか?ヒントは〜、答えはすでに過去のブログに書いてあります。でもちょっと考えてみて下さい。解答編は次回のブログで、新畑任二郎でした」

 そういう事になったのである。

 果たして、何人の人が過去のブログを読み返すか?あなたにその勇気と根気と時間はあるのか?直ちにこのブログを読むのをやめるか、次回の更新を待つか。二つに一つである。