<小説のお時間>伊藤くんのひとりごと

11
 気が付けば、もう11である。セブン…である。
 
 もう3万文字も書いているのに、全く進歩が無い。
 
 話の展開も遅々として進まない。はは。
 
 400字詰め原稿用紙に換算して、70枚以上。そのうち作者のつぶやきというかぼやきが65枚ほどあるのではないかと推察する。作文の授業なら、先生は辟易するだろう。
 
 しかし、考えてみればクラス全員の作文量よりは少ないから大した事はないのかもしれない。データにすればわずか200キロバイトである。ピザ屋のバイトなら、間違いなくスピード違反で捕まるだろうが、1メガのフロッピーにさえ楽々収まる容量である。
 DVDなんかに焼こうものなら、もったいないお化け(古すぎる)が出るだろう。そもそもフロッピーなんてもう見かけない。
 
 時代はテラである。1000キロバイトが1メガなら、1000メガは1ギガである。1000ギガが1テラ。もう何が何だか分からない。もしも1テラ分の文章を書いた人がいたとしたら、それはギネスものである。おそらく、動画データにコメントを付したアーカイブソフトというのがオチではないか。
 
 ところで、伊藤くんはかなりの読書家である。しかし、彼の部屋には書棚が無い。これはどういう事だろう?

 ・図書館で借りている
 ・読んだそばから捨てている
 ・別の部屋に書棚がある
 ・本というのは名ばかりでマンガを立ち読みしている
 ・家が本屋さんである

 選択肢を作るのに飽きたのでそろそろ正解を書こう。
 
 正解は全てデジタル書籍だから、である。

 つまり彼は全ての書籍をデジタルデータで所有しているのである。
 
 ヴァーチャルの最大の利点は何か?

 それは場所を取らないという事だろう。
 実際にはデータ保存の領域を必要とするのだけど、それはサーバーさえあれば家に置いておく必要すらないのだ。

 本というのは衣類と共に場所を取るものである。本を読まない人には、例えば何かコレクションしている物を思い浮かべてもらえると親切な読者だと敬意を表する。

 本は重い。一冊ずつは大した重さではないが、100冊、1000冊となると話は別である。本の重みで家屋が潰れたというニュースもあるではないか。『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』という本が新書でベストセラーとなった事は記憶に新しいが、『本屋さんは本の重みでなぜ潰れないのか?』という本を出せば、耐震構造が関心の的のこのご時世では大ベストセラーになるかもしれない。

 そう言えば、伊藤くんは六法もデジタルデータであったから、この物語を暇つぶしに読んできたあなたなら、すでに当たり前の事じゃんと思った事だろう。というより、ここまで読んできた奇特な方ならば、早く答えを書け!と思っている事だろう。

 前回、誰が見てもパクリの迷探偵まで登場させて謎を提示しておきながら、冒頭から暴投である。

 笑えない。むしろ腹立たしい。

 しかし、もう少しだけ本の話がしたい。寂しいのだ、もう少し戯れ言に付き合ってくれてもいいではないか。

 デジタル書籍というのは確かに便利である。音楽だって、映像だって今はデジタルデータである。昔のように、カセットテープやビデオテープで場所を取る事も無ければ、劣化する事もない。サーバーにはバックアップの予備データがあるので、データ消失の心配も無い。家で録り溜めたデータは全て携帯を始めとするモバイル端末で遠隔操作が可能である。ディスクで保存する必要すらなく、いつでもどこでもデータを鑑賞する事ができる。

 ネットは高速で定額が当たり前であり、最新の楽曲はデータを気にする心配も無いので、自動でダウンロードされる。もちろん任意でジャンル選択やデータの削除も可能である。だから、伊藤くんは昨日見た映画の主題歌もネットにつないで検索すれば瞬時に転送できる。というより携帯にはそれ自体にダウンロード機能があるので、帰りの電車の中ですでに楽しんでいたりするのであった。伊藤くんにとってすでに本というのはテキストデータの事であって、書籍というのは過去の産物なのである。彼の場合、紙媒体は全てモニターで代用される。

 紙よりも視野角の広いモニターは直接書き込むが可能であるし、分からない用語にはリンク機能で調べる事ができる。検索も簡便なので、大事だと思う範囲を登録しておけばいつでもどこでも参照する事が可能である。以前の物よりも格段に見やすくなったので、目の疲れも少ない。

 但し、著作権については規制が厳しくなったので、コピー&ペーストには使用料が必要で、引用箇所には文献元が必ず明記される。違法を承知で引用したい場合は、自分で文章を入力する必要があるが、そんな面倒臭い事をする人間は今時いない。人間とは楽な環境に順応する生き物なのだ。

 さて、もう少し伊藤くんの部屋を覗いてみると、彼の部屋にはテレビが無い。これはどういう事だろう?

 えっ?もう答えの無い選択肢はいらない?

 無駄な労力はやめよう。

 確かに彼の部屋にはテレビというものが無い。しかし、映像データの保存をしているというのは本当である。それにパソコンを持っていないわけも無いから、パソコンがテレビであるというのは正解である。しかし、それでは3分の1しか答えになっていない。PDAと携帯は似たようなものだから、それがもう一つの答えだとしても3分の2である。

 残りの一つは壁を見ると分かる。

 ほら、見えるでしょう?

 いいお顔ですよ〜。

 お前は美輪明宏か!

 以下も余談の事ながら、美輪明宏江原啓之と言えばオーラの泉で有名な前世霊能力者である。

 この番組において、見えるか見えないか等はもはや愚問である。少なくとも我が家の古いテレビでは違うゴーストが見えるだけである。だから、私はあくまで国分太一の陣営である。

 は〜、そうですかとただ傍観するしかないのである。

 この二人の即興とも思える会話に向けて水をさすゲストの発言に時にハラハラしながら、何となく気持ち良くなっていくゲストの反応を楽しんでいる。この番組のいい所は誰も傷つかないという所である。だって悪口言わないだもんと今時の女子高生さえ恥ずかしくて口にしないようなセリフを書いてしまいたくなるくらいほのぼのとしている。たとえ現在の素行に釘を刺されようとも、最後にはベタ誉めで終わる。

 これは商品のセールストークをする上でも大切な事である。うまいセールスマンというのは決して全てを誉めない。なぜなら人間には誉めすぎると逆に欠点を探したくなる懐疑心があるからだ。だから、悪い点を挙げつつ、最後は長所でしめる。これが逆だと、最後に聞いた事が耳に残ってしまって印象が悪い。

 この番組においても二人の会話はあくまで相手を持ち上げる。だから、見ているこちらもいい事言うな〜という催眠術に似た効果に浸ってしまうのである。国分太一などいらないのではないか?と思われるかもしれないが、それは間違いである。我々は彼がいるからこそ、自らの立ち位置を確認できる。たとえ彼がコメントに窮していても、それは我々の代弁者であるから温かいまなざしで見守る事ができる。同情である。見えない我々に何が言えると言うのか。

 伊藤くんの部屋の壁話であった。

 もちろん見えるわけは無い。だから、私は自由に話を進める事ができる。これであなたもTOKIOの一員だ。

 伊藤くんの壁には一枚のスクリーンがかかっている。これがモニターになっているのだ。液晶の大型モニターである。入学祝いに親戚から頂いた物でかなりの高額品だ。普段は風景が映っているので窓と勘違いする人も多い。ある時は滝が流れ、ある時は森林が小鳥のさえずりや葉擦れの音と共に流れる。真冬に常夏の透き通ったビーチの映像を流す事もボタン一つで可能である。ドラえもんから見れば古い技術かもしれないが、お金さえあれば壁に限らず、床や天井までモニター加工する事も可能である。

 部屋の模様替えが好きな人は多いが、これからは空間を変える人もいるだろう。全モニターをプラネタリウムに変えれば、宇宙の神秘性に魅せられたニートも急増するかもしれない。立体映像技術が進歩すれば、もうそこは自分の部屋ではない完璧なヴァーチャル空間である。完璧の璧は壁ではない。ここはどこ?という事は十分にありうる寝起きゼリフである。

 ちなみに伊藤くんの部屋には物が無い。ただの空間が存在するだけである。彼の部屋は全てが収納なのである。ベッドも引き出し式だし、デスクもイスも何もかもが必要な時に必要な分だけ取り出して使う。ニッスイの冷凍食品のような欲しい分だけが売りの部屋構造だ。スピーカーは埋め込み式であるし、衣類も当然クローゼットの中である。だから八畳の部屋はまるでリビングのような広さである。もちろん大抵の人間は、初めて彼の部屋を見た時にはびっくりする。引っ越したばかりなのかと勘違いされても仕方が無い。

 伊藤くんの部屋の話で今回は幕を閉じよう。次回こそ解答編であると信じて。

さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学 (光文社新書)

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