今週の伊藤くんのひとりごと(総集編)

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駅までの道のりは時間にして約10分である。そう遠いわけではない。ある家の前を通り過ぎたところで伊藤くんの思考にノイズが入る。
 表札の一文字が欠けていたのだ。木製の楕円形の表札にカラフルで立体的な文字が一字ずつ貼り付けてある。伊藤くんの今日の注目のカラーバスは茶色だったので、偶然その表札が目に入ったのだ。女の子が見たら、かわいいと表現するかもしれない温かみのある手作りの表札である。
 その右から二文字目が欠けていた。もし、一文字目が欠けていたら、よくコントなどにされるパチンコの看板の下品なネタになるところだが(今時そんな古いネタは使わないか)、これは二文字目である。それはひらがなで「さ○もと」となっていた。
「坂本」。そんな漢字が一瞬浮かんだ。字は違うかもしれないが、おそらく「か」が抜けているのだろうと思う。
 そう思ったのはなぜだろう?
 伊藤くんの妄想の旅は始まる。伊藤物語に旅の仲間はいない。いつも彼一人だ。従って、そのトラベリング(BGMはご想像通り)はバスケだったら審判に止められるところであるが、なかなかその思考はストップしない。
 類似?
 そんな言葉が頭のフックにひっかかる。
 と言って、マリオの弟ではない。緑色のあいつである。あちらはルイージだ。本名をルイージ・カトリーヌ・ひろみち兄さんという。
 兄ではないか。
 奇怪な機械体操ではない動きが頭をよぎる。
 ルイージ知名度はかなりのものだが、彼は決して主役ではない。
 そして、彼が一度だけ主役になったマンションは現在取り壊しが進められている。建築工法に手抜きは無かったのに、誠に残念である。それはともかく。言葉の表記にはこだわる伊藤くんである。
 キュリー夫人はきゅうり夫人ではない。それでは農園で働く老夫婦みたいではないか。
 ベートーベンもそうだ。Beethovenの表記に近いのはベートヴェンではないだろうか?これではまるで和田勉である。く、苦しい。
 理系作家としばしば評され、この小説のお手本となった(類似作品や模倣作品と言うとファンから叱られそうである)『工学部・水柿助教授』シリーズの生みの親・森 博嗣さんは理系的表記を好むので(というかそれが森さんにとっては自然なので)語尾を伸ばさない。コンピューターはコンピュータだし、データーはデータだ。ちなみにdataはdatumの複数形だと習って役に立った試しも訳にたった試しもないが、どうでもいい事なのに忘れられない。この辺りに記憶のカギが潜んでいそうである。
 脳科学者として有名な茂木健一郎さんはその著書『脳の中の人生』でアメリカ・ワシントン大学で行われた記憶についての面白実験を紹介している。
 被験者にホラー映画を見せて恐怖の感情を持たせた上で、顔写真の記憶テストをすると普段よりも成績が高まるというのだ。ところが単語の記憶テストをすると今度は逆の結果になったという。そこで幸せな気分にさせて単語の記憶テストをすると好成績を収めたというのである。
 人間には短期記憶を司るワーキングメモリーとよばれる機能と海馬に代表される長期記憶の場所があるらしい。伊藤英明ではない。それは海猿である。
 すました顔で先を進めよう。この海馬の手綱は僕が握っているのだ(主語が変わっているのは気のせいか)。この海馬がダメージを受けると名作『メメント』のような事態に陥る。つまり、長期間記憶を保っていられないのだ。また『海馬』という糸井重里さんとの対談本の中で同じく脳科学者の池谷氏は、記憶は30代を超えると活性化すると言っている。
 池谷氏によれば、子どもが大人より記憶がいいのは、単に情報の引き出しが少ないからであり、必要とする情報をサーチする対象が少ないからだと指摘している。逆に大人になるとそれらの情報は有機的につながり、応用が利く。子どもが場当たり的な記憶を得意とするのは、じゅげむブームやポケモンのモンスター名を覚える事例を見ても明らかだ。駅名を端から言えるとして、それが何の役に立つだろうと考えてしまうのが大人である。
 九九や古文の助動詞の活用、英語における不規則変化動詞など何の意味も無い記憶を幼少期に行う事で、三つ子の魂百までというのはすでに経験済みである。OJTの有効性は大人なら誰でも実感している事だ。マニュアルは確認事項に過ぎない。学校の勉強でも全体像を捉えてから学ぶ方が効率がいいと思われるが、子どもの勉強と大人の勉強の差異はこういった部分にあるのではないかと伊藤くんは思うのだ(主語が戻った)。
 しかし話はまだ戻らない(何の話だ)。
 先ほど、ワーキングメモリーという言葉が出てきたが(森風にメモリでもさし支えない)、プレステ2でこれを題材にした面白い、というか変なゲームがあるので紹介しよう(やっぱり主語も戻っていないのではないか、主語霊が怒るゾ)。
 今回紹介するのは、元々はドリームキャストという本当に夢を投げてしまった(おいおい)セガのハードゲーム機(HGではない)用に発売されていた『ルーマニア』という覗きゲームである。いや、これでは何か怪しい。生活介入ゲームというのが妥当だ。なすびの部屋を想像してもらえるとありがたいが、何それちょーうける等という生物にはもはや意味不明かもしれない。
 主人公ネジタイヘイ君は大学生。このゲームは彼の生活を覗き見ながら、神の手となって彼の生活にちょっかいを出すのだ。彼がこれから取る行動は箇条書きで表示される。ゲームにはクリア条件があって、一定期間内に目標となる行動を取らせなければならない。そこでプレイヤーはテニスボールのようなボールを次に取らせたい行動の選択肢にタイミング良く投げつける事で行動の優先順位を入れ替えさせる。そして、行動の連鎖を予測しながら目的の行動をネジ君にチョイスさせるのだ。
 例えば、トイレに行かせたければ、冷蔵庫にある飲み物を飲ませなければならないという風に彼の行動を事前にシミュレートしなければならないところにゲーム性がある。
 この時に表示される行動の選択肢が、言わばワーキングメモリーと言えるだろう。個人差はあるものの、人間がこれから行う行動の選択肢はそう多くない。せいぜい3つ〜5つと言ったところではないだろうか。この頭のメモ帳は頻繁に上書きされる。クイックセーブ方式なのでリセットされやすいのだ。行動の最中にふいに誰かから声をかけられると、自分が何をしようとしていたのか忘れてしまうという経験がそれだ。
 脳というメカニズムは誠に複雑である。記憶や計算に特化したコンピューターも人間の脳内ブレンドには適わない。意味のあるミックスジュースは到底マネできないのだ。アイデアが突然ひらめくというのは嘘である。事象としては正しいが、それは日頃「考え」を「続けて」いなければ、つまり「考え続けて」いなければ生まれない。人間は忘却の生き物である。頭にメモした事はすぐに忘れる。だからこのブログの事も読んだ側から忘れて欲しい。少なくとも筆者は書いた事をすぐに忘れるのでキャラ設定に間違いがあっても心配する事は無い。きっとそれは目の錯覚だ。

 類似の話であった、たしか。

「さかもと」と感じたのは、過去に坂本や阪本といった名前を知っていたからだろう。他にも「ま○もと」や「や○もと」とあれば、松本や山本を想像してしまう。本当は牧本や八尾本さんかもしれないのにである。この事は過去のデータベースから無作為に検出し照合する中にも定石や先入観があるという一例ではないだろうか。

 駅の階段を登りながら、もしかしたらあの人がさ○もとさんだろうかとア行から順番にあてはめる伊藤くんであった(この終わり方多いな〜。これが僕の定石か)。

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ホームに着くといつも感心する事がある。このホームは両側に電車が停まる。ホームからは雄大な山並みが見えるが、伊藤くんにとってはすでに日常風景だ。それは海育ちの人間が海を意識する事が無いように極自然な自然である(不自然な表現だ)。
 だからこの場合、感心したのは山容ではない。では何に感心するのかと言えば、整列している人々にだ。一般に関西人は並ばない事で有名である。また関西人はエスカレーターでは左側を空けるのが常である。もしも右側を空ける人がいた場合は、関東出身者か自己中の人間だろう。その関西人が並んでいるのだから感心しているというのでももちろん無い。関西人だって立派な人間である。特に出勤率の高い朝は常識をわきまえた人間の含有率も高い。ちょんまげを結った侍が徘徊しているわけではないのだ。映画村じゃないのだから。
 確かにみんな調教された馬のようにきれいに並んでいる(この表現はいかがなものか)。しかもホームの両側に、である。そんなの両方に停車するのだから当たり前ではないかと思われるかもしれない。しかし、そこに電車が停まっているにも関わらずという補足説明がこれに加わる。
 つまり、電車が停車している前にも列ができているのである。反対側のホームで並んでいる人はもちろん次の電車で座席を確保する為に並んでいるのだろう。という事は、ここに並んでいる人はこの電車を含めて三番目に来る電車の為に並んでいる事になる。次の次の電車だ。朝の余裕が無い時間にそのような人がいる事に関心を持ってしまう伊藤くんである。
 前にも書いたように伊藤くんは比較的朝にゆとりを持って行動しているが、早く目的地に着きたいので停まっている電車に乗る。だから、そういった人達の横をすり抜けて半ば感心するように乗り込むのだ。
 そう言えば、先日伊藤くんはちょっと不思議な行動をした。というより自ら演じてしまったかもと後で思ったのだけれども、案外このようなところに日常ミステリーは潜むのかもしれないなと思って一人心の中で笑った出来事があったのだ。
 
 時刻は昼下がりである。朝の講義が無かったので、のんびり通学モードである。朝と比べると人はかなり少ない。階段を上がりきったところに電車が停まっている。伊藤くんは進行方向に向かって一番後ろのホームから入った。発車を告げるベルが鳴る。
 ここから先は向かいのホームに立った人間から描写してみよう。その方がミステリーには効果的だからだ。推理小説は大抵三人称である。それは相手の心理状態が見えないところに怖さがあるからだ。何を考えているのか分からない人間ほど怖いものは無い。行動の予測ができないからだ。作者の事ではない。つまりこの場合の伊藤くんがそうだった。
 電車がホームを離れた後、彼の姿が見える。乗っていないのだ。決して間に合わなかったのではない。十分に間に合う距離だったはずだ。電車のガラス越しに彼の歩いている姿が見えた。電車が遠ざかると姿がはっきり視認できる。彼はただ前に向かって歩き続けているのだ。前の車両に乗るつもりなのだろうか?しかし、それなら車内で歩けばいい。まさか今ホームに来た人間がわざわざ前の方の階段へ向かっているはずも無い。ここは乗り換え駅ではないのだ。もし、何か忘れ物があったなら今来た道を戻るだろう。雨が降っていたら、駅を雨よけの通路代わりに使うかもしれないが、新緑がまぶしい山並みは燦々と降り注ぐ太陽に照らされて、稜線をくっきりと浮かび上がらせている。
 それにしてもいろいろと考える人である。少し異常である。誰だチミは?
 やがて彼の姿はホームの真ん中辺りで消える。マジックではない。そこに改札口へと向かう階段がある。彼はその階段の下に消えたのだ。遮蔽物によって姿を隠した彼はすぐに階段の向こう側からホームに現れる。つまり、階段の下をくるりと回って今度は進行方向と逆の方へ戻るのだ。
 何なんだ?
 ちょっと頭がおかしいのではないか?
 きっと彼をストーカーしている者なら彼の奇妙な行動に首をひねった事だろう。尾行している刑事さんなら挙動不審で疑惑を強めたに違いない。
 しかし、真相は違った。

 再び視点と時間を伊藤くんに戻す。
 
 伊藤くんがいつも乗るのは一番後ろの車両である。発車のベルが鳴る。伊藤くんはわざと乗らないという意志を示すために電車に近づかない。そして、そのまま前に向かって歩く。電車のドアはためらいがちにいくぶん申し訳なさそうな様子で閉まる。
 やがて伊藤くんは階段の下に回り込む。階段の幅を利用してそこに新聞の販売機があるのだ。伊藤くん、そこで目的の新聞を買おうと思っていたのだ。しかし、目的の新聞は無い。よく考えてみれば昨日は祝日で、どうやら休刊日だったらしい。そこで伊藤くんはがっかりしながら、さっきの電車に乗れば良かったな〜とため息をつき、元来た道を引き返したというのが真相なのであった。このように他人にとって不可解な行動というのは、意外につまらない理由で生まれる。
 伊藤くんにとっては恥ずかしい行為が見る人によっては奇妙な行動に映るのだ。もしここで伊藤くんが声に出して笑っていたら、場合によっては変人と思われたかもしれない。
 
 そう言えば恥ずかしい行為を覗き見た事がある。それは伊藤くんが中学生の時に起きた。修学旅行での話だ。伊藤くん達はチームで自由行動をしていた。自由行動と言っても本当の自由ではない。もしも、一人で家に帰ったりしたら大変な騒ぎになっていただろう。自由と感じられるのは束縛があってこその感情なのである。しめつけのきつい下着から解放される感覚がそれである。話がまたそれて来た。もう少ししめつけよう。
 伊藤くん実はあまり気分が良くなかった。だからクラスメイトに理由を告げて、先に一人だけバスに戻る事にした。駐車場に入るとそこは鬱蒼とした森の中のような静けさである。静寂というのはこういう事を言うのだなと伊藤くんは思った。
 乗ってきたバスを見つけると幸いにもドアが開いている。人影は全く無い。不用心な事だと思ったけど、伊藤くんは疲れているので、ラッキーと思いながら真ん中より少し手前の座席に身を沈める。そしてうとうとと眠りに就いた。
 しばらくして、突然車内に大音響が鳴り響いた。爆発ではない。それでは今の伊藤くんが幽霊になってしまう。この音楽は演歌だ。
 伊藤くんびっくりして言葉が出ない。
 と、イントロの終了と共に野太い男の声がした。ちらっと顔を上げて前方を見ると運転手姿のおじさんがマイク片手に歌っている。まさかコスプレをした変態オヤジが乗っているはずもない。あれは紛れもなく運転手なのだろう。
 伊藤くんとっさに身を深く沈めた。見つかったら殺される。笑い話ではなく、その時はそう思ったのだ。
 やがて運転手のおじさんは気持ち良く歌を歌い終える。続いて二曲目が始まる。どうやらこのおじさんは誰もいないバスの中でカラオケの練習をしているらしい。しかし、一番目を歌っている途中で突然歌が止まった。曲もストップする。バスストップはとっくにしている。
 この時の伊藤くんの心中と言ったら心臓が口から飛び出そうであった。ハイドアンドシークが終了したのだ。今にも座席の上から「見〜つけた」というおじさんの勝ち誇った顔が見えるのではないかと恐怖でいっぱいだ。
 その思いは同級生の声によって遮られる。
「あ〜、面白かったなぁ」
「うん、あのみやげもん屋のおばちゃんかなりおもろかったな〜」
 みんなが帰って来たのだ。何と説明的な口調か。そんな作者の思いはよそに、伊藤くんホッと胸をなでおろす。
 そうか、だからおじさんは歌をやめたのだ。
 しかし、恐怖は再びやって来る。
「あれ、伊藤くん何やってんの?」
 バカッ!
「伊藤、変だぞ、おい。気分でも悪いのか?」
 気分なら最悪だよ。
 仕方無く座席から立ち上がる伊藤くんである。
 その時、運転手のおじさんとまともに目が合ってしまった。
 それは一瞬の出来事で、慌てて目をそらす伊藤くんであったが、その目が忘れられない。あの目はこう言っていた。
「分かっているな。しゃべったらタダではおかないぞ」と。
 伊藤くんには少なくともそう見えたのだ。
 それからバスを降りるまで伊藤くんは眠っていた。いや、眠ったふりをしていたのだ。眠ったふりほどつらいものは無いとこの時彼は悟った。そして、目的地に着くと運転手の方は見ずに降りた。幸いにも次に乗る時にはバスが変わっていた。これが伊藤くんの恐怖の体験スペシャルである。

 電車は今日もたくさんの人を飲み込む。みんな電車男と電車女だ。
そんな締めかいっ!許して下さい。自分を上等な人間と思っていました。すみません(下等だけど)。

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 「僕は絶対、握手しないな」
 
 一体、何の話なのだ。
 そして誰がしゃべっているのだ。
 場所はどこなのだ。
 映像の世界と小説の世界の違いをまざまざと感じさせる実験である。
 握手をしないなんて、よほどその人物と仲が悪いのだろうか?
 あるいはサイン会を強要されたタレントが握手だけはしないと拒絶しているのかもしれない。
 しかし、予測されるような事を書いてもつまらない。このブログは抱腹絶倒、前代未聞、七転八倒、断崖絶壁、絶体絶命、詳細キボンヌ、支離滅裂な文章を綴る事でかろうじて細い綱を渡っているのだ。綱の端から火の手が見える。「網」ではない、「綱」だ。完璧の「璧」が「壁」ではないように、絶体絶命の「体」も「対」では絶対ないのだ。何の話をしているのだろう?
 おそらく、あなたの興味はこんな戯言が一体いつまで続くのかという好奇心にあるのではないだろうか?いっそ戯言シリーズでも作ってみようか(西尾維新ファンに怒られるぞ)。

 ところで気が付けば7万5千文字である。
 
 よくもこれだけ一人言を続けたものである。伊藤くんの、じゃないだろう!と何人の人がつっこんでくれただろうか。しかし、世の中には物好きもいるようで、カウンターは日に日に上がっている。そのうちの半分が僕の自作自演だと言ったら信じてもらえるだろうか?嘘である。本当は感謝している。このカウンター数が伸びる限り、僕は書かねばならないだろう。いつまで続くかは分からないが、カツオブシくらいに身を削ってうんうんとうなりながら、眠い目をこすりつつ、物語とは名ばかりの文章を綴っていこう。
 さて、シンキングタイムは終わった。どうやら元気玉ができたようだ。話を進めよう。

「僕は絶対、握手しないな」と語ったのは伊藤くんである。
 場所はいつものごとく学食兼部室である。そしていつものごとく、いつものメンバーがそこにいる。ご存じない方のためにここでおさらいすると、彼らはアイデア発想クラブというサークルに属し(と言っていつもマンガの話しかしてないが)、暇があるとだべっている典型的なキャンパスライフを満喫している。絵描きの人の生活はカンバスライフだろうか。はいはい(戯言感を高める演出である)。
 キムタク似の彼が所山一樹、通称カズ。社会学部の二回生。
 モデルのような美人の彼女が山口洋子さん。文学部二回生。
 秋葉系の小太りじいさんが田山等、通称ヒトシ人形。経済学部二回生。そして、この小説の主人公、伊藤くん。法学部二回生である。
 確か、そうだったはずだ。
 ところで、すでにお気づきの事とは思うが、伊藤くんのフルネームを一度も記述した事が無い。伊藤くんはこれまで名字でしか呼ばれていないのだ。これは作者の貧弱な記憶力を試すまでもなく、そもそも考えていないのだから間違いない。
 実は、彼の名前にはとんでもない秘密があるのではないかとか、伏線としてあえて伏せているのではないかと思ってくれた人がいたとすれば、それは深読みである。伊藤太郎なんてのはベタだし、伊藤英明じゃパクリだし、伊藤真ではあまりに失礼だ(分かる人だけでいい)。
 そこでここは開き直る事にした。何で下の名前が必要なんだ!(逆ギレかよ)。いいではないか。名前で呼ばれない人はたくさんいる。逆に名前でしか呼ばれない人もたくさんいるのだ。木更津キャッツアイのアニの例もある。全国の伊藤さんの感情を逆撫でしないように配慮すればいい。いつか時がくれば彼にも名前がつくだろう。

 さて(笑)
「それって、教授でも?」洋子さんが万華鏡を覗き込む子どものような顔をして聞く。
「うん」伊藤くんが当然という顔で答える。kaleidoscopeか。
「俺もそうかな」カズも追従する。
「俺もそやな」ヒトシも縦に首を振る。但し、首が短いので実際にはアゴが上下しただけである。
「何で、何で?何で男子は満場一致なわけ?」
 男子、女子。懐かしい響きだと伊藤くんは思う。unanimously、これは副詞か。
「手を洗わないからだろ?」カズが伊藤くんの方へ目を向ける。
「うん」伊藤くん、エキストラ並みにセリフが少ない。
「まぁ、女子にはわからんやろな〜」ヒトシ、バカの一つ覚えである。普段はクリスタルヒトシのくせにトークが飛び交うと無い首をつっこみたくなるオタクである。
「何それ、あー、女性差別だわ、それ」
「違う、違うよ。これは男でないと分からないんだ」伊藤くんようやくセリフが増える。「だって、大半のおじさんはトイレで手を洗わないんだよ」
「うそー、マジで?」洋子さん驚愕の表情である。
「独自の調査によるとそうなるな」ヒトシの言葉にどんな調査だよと心の中でつっこむ伊藤くんである。
「ほんとなの?」洋子さん、カズに同意を求める 。
 カズはわずかに唇の端を上げ、「ああ、確かにそうだな。逆に言えば、手を洗うか洗わないかでおっさんかそうでないかが分かる踏み絵みたいなものだ」
「ええ、えーっ、どうしよう。うそっ、最悪」洋子さん、急に慌て始める。
「もしかして、さっき誰かと握手したのか?」カズの目に小悪魔が宿る。デビルマンに変身する予兆だろうか。
「うん、酒井助教授」
「うわっ、NGや」ヒトシがスーパーヒトシ人形に変わる。いや、ゴールドか。
「ちょっと、ちょっと、何よそれ、それってつまりー」
「あの人は手洗わない派だよ」
 何の派閥だよ。
「えー、きゃあ、不潔。ちょっとタンマ。手洗ってくる」
 タンマ?洋子さんよほど慌てているようだ。マンガだったら足が回転している勢いで、飛び出していく。
 残された男性チームは苦笑している。
「でも、ほんまやもんな〜」
「まあな」
「僕もそう思う。あれって、何で洗わないんだろうね」
「さあ、でもハンカチを持ってないおっさんはまず洗わないと思って間違いないわな」
 洋子さんが戻ってきた。
「もう、手が真っ赤よ。最低、私もう誰とも握手しない!」
 嵐以外は、という条件があるんだろうなと伊藤くんは思う。洋子さんはジャニーズファンなのだ。
「世の中のおじさん全部がバイキンマンに見えてきたわ」
 なかなかかわいいなと伊藤くんはつっこむ。
「ジムでも風呂あがりに裸のまま洗面台に座る奴は多いしな」カズがコーヒーを飲みながら話す。ブラックというところがカズらしい。
 確かにカズならスポーツジムに行ってても不思議ではない。やっぱり金持ちなのだろう。
「ジム?」ヒトシが反応する。しかし、言葉の意味を反芻したのか黙る。多分、このヲタは何かと勘違いしたのだろう。
「うそ、ダブルサプライズじゃない!」
 このようにして、日本語が日々進化、もしくは退化していく。これを退化の改心と言って、人々は自分の辞書を書き換えるのだ。
「もう不潔不潔!最悪じゃない」ぷんぷん。洋子さん、佐藤珠緒のような顔である。
「まさか、あんた達もそうじゃないでしょうね?」もしもメガネをかけていたら、教育ママのように片手で少し上に傾けていただろう。キラッ。
「そんなわけないやん」ヒトシがぶるぶると顔を横に振る。まるでブルドッグみたいだ。
 残りの二人ももちろん否定する。
「もう考えるのも嫌だわ。他の話題にしましょう。伊藤くん何か無いの?」リモコンは洋子さんの手にあるのだ。
「うーん。ちょっと待って」伊藤くんごそごそと鞄の中に手を入れる。「靴」ではない、カバンだ。
 手が止まる。何かを見つけたようだ。
 鞄から出された手にはPDAがある。
 伊藤くんは素早くそれを起動させると何かのファイルをサーチする。どうやらネタ帳らしい。君は何者だ?
「あった。これこれ」
「面白くなかったらカットするで」
 ヒトシがつっこむ。まるでさんま御殿である。あの指し棒をたかじんが持てば数秒で吹っ飛ぶだろう(関西人だけ分かればよい)。
「人はなぜ避けようとする方に避けるのか?」
「えっ?」洋子さんの表情は山の天気より変化が激しい。
 どうやらそのネタ帳には箇条書きでしか書かれていないようだ。
 慌てて原石を磨き出す伊藤くんである。
「つまり、向こうから見知らぬ人が歩いて来て、こちらが右に避けようとすると、相手も右に、左に避けようとするとやっぱり左に、止まると向こうも止まるって、そういう経験あるよね?」
「うん、あるけど」洋子さんが同調する。
「それはなぜなんだろうって事」
「確かに不思議ね」
「でしょ」伊藤くん少し自信を取り戻す。
「思考パターンが少ないからだろうな」カズがぼそっと言う。
「右か左か停止か。上とか下って事はまあ無いわな」ヒトシもうなずく。
「そういう時、伊藤くんならどうするの?」
「まず相手の目をじっと見て」
「じっと見て?」洋子さんが言葉を繰り返す。
「少しずつ後ずさりする」
「熊か!おい!何で戻るねん!」ヒトシが素早くつっこむ。「態」ではない。
「僕はかなり手前の方から端に寄るかな。場合によってはすみませんと言って避けるとか」
「見えないし、聞こえなかったら?」
「どこの世界だよ!お前もう歩くな!」ヒトシの激しい口撃が続く。
「でもさ、数学の世界や物理の問題じゃ、そういう条件をつけるよな。但し、空気の抵抗は考えないものとするみたいな。特定の条件を作り出す事で思考を進めるわけだ」カズが言うと妙な説得力があるから不思議だ。
「では視覚も聴覚も使えないとした場合はどうするの?」洋子さんが話に乗る。だてにアイデア発想クラブに属しているわけではないのだ。
「てゆーか、場所はどこなんだよ?」ヒトシの口癖が出る。
「そうね、狭い通路かしら?」
「広いとこじゃ、確かに意味が無い」カズが空想を共有する。
「では細い廊下っと」伊藤くんすでにPDAに書き込んでいる。みのもんたが横で電話相談に乗っているようだ。女性アシスタントの書き込む相関図はいつでも的確だ。そのうち歴代天皇の相関図だって書けるかもしれない。
「その人はもちろん知り合いちゃうよな?」ヒトシが誰にともなく質問する。チャウチャウちゃうんちゃう?は大阪弁であれはチャウチャウじゃないよね?という意味だ。そして先ほどの「ちゃう」は「違う」という意味だ。全く関西弁はこのブログと同じくらい分かりにくい。
 ではみなさんも考えてみて下さい。続きはまた明日。

26
 前回、問題が提示された。
 細くて狭い廊下で見知らぬ人が向こうから歩いてきた時、どうするか?
 そんな問題だった。
 実はまだまだ考える事がある。
 その人物は何歳くらいの人なのか?
 狭い廊下はどこの廊下なのか?
 相手の歩く速さとこちらの歩調の差は?
 もしかしてこちらがエイトマン(何だそれ?)並みの速さなら、相手は一陣の風が吹いたくらいにしか思わないかもしれない。
 彼らの議論は以下のように続く。
「どうする?という問いなら、俺は避けないな」カズが言う。
「そんなのずるいわ。答えになってないもん」洋子さんが切り返す。
「じゃあ、80歳の老婆が杖をつきながら、ゆっくりと向こうから歩いてきたらどうする?」カズが問題を出す。
「その時はおばあさんに駆け寄って、大丈夫ですかって?一応聞くわ」
「それは避けてないという事だ」
「まあ確かに」洋子さんが不服そうに肯定する。
「どうするかという問いの先には無限の答えが広がっているのに、俺たちは無意識に避ける事しか考えなくなる。俺が思考パターンが少ないからだと誘導したせいかもしれないけど、戻るという答えもありだし、キアヌやハットリ君だったら壁を歩くかもしれない。ドラえもんでも可能だろう。主語が必ずしも自分である必要も無い」
 だんだん話が怪しくなってきた。しかし、カズが言わんとする事は伊藤くんにも分かる。会話の流れが思考を知らず知らずに限定していく。集団心理が逆に選択肢を狭めていくという事だろうか。カズは意図的に会話の流れをコントロールしていたという事にもびっくりである。やはり、こいつはどこか違う。
 だけど、特定の条件をつける事で思考が進むと言ったのはカズでは無かっただろうか?それもあるいはミスリードか。
「じゃあ、実際の話を僕がするね」伊藤くん、次のネタがあるようだ。
「この前電車に乗っていたら、向かいの席が空いているのに誰も座らないんだ。さてそれはなぜ?」
「立っている人がいなかった」ヒトシが答える。
「ブー、電車は満員です」
「次の駅が乗り継ぎ駅で、みんな降りるつもりで座らなかったとか」
「ブー」伊藤くん楽しそうである。ヒトシお手つき二回目だ。
「怖い人だった」洋子さんが口を開く。
「ブー、優しそうなおじさんで〜す」
「異臭を放っている」再び洋子さんだ。
「ブー、毎日口臭予防と服を着替えてま〜す」伊藤くん少し調子に乗っている。
「というのは嘘ですが、そんな臭いはありません」
「その人はマスクしてるのか?」カズが質問する。
「ぐっ」伊藤くん言葉に詰まる。こいつはいつだって王手を指す。
「決まりだな」
「な〜んだ。その人風邪ひいてたのね」洋子さんが口をとがらせる。
「はい、消えたぁ!」ヒトシがキンキンのような笑顔で机を叩く。分からなくても気にしないのがこのブログを読み続けるコツだ

「でもさ、隣の人が風邪をひいてるとちょっと席立ちにくいよね?マスクしてなければ見た感じじゃ分からないし、急に隣に座ってきたら困るよ」伊藤くんが汚名挽回、名誉返上(ん?)で続ける。
「急に横の席が空いた時も前に立ってる人が座らないと気になるわ。何か隣にあるのかなって、そっと様子を伺ってみたりとか」
「この前、俺の前にめっちゃ元気そうなおばちゃんがおって、めっちゃ俺の方見てんねん。俺思わず席譲ってもたわ。目で殺すってああ言う事なんやろな」
 違う、激しく違う。
「そろそろ部屋移動しようか」カズが落ち着いた口調で促す。
「あっ、もうそんな時間か」ヒトシが腕時計を見る。アナログの文字盤に萌えキャラがウインクしている。
 この大学では、サークル活動を認められている団体なら、申請さえすれば空き教室を借りる事ができる。伊藤くん達も今日は昼からフリーなので、久しぶりにトークバトルをしようと思っているのだ。
 従って、先ほどの会話群は軽いウォーミングアップと言える。
 食堂から出た4人は、廊下を曲がり、階段を上がる。向かうは503号室だ。
 そこは教室と言っても比較的小さい。しかし、冬に改築されたばかりなので、設備は新しい。独特の塗装の臭いがまだ残っている。
 洋子さんはトートバッグからDon’t disturbの札をドアに掛ける。別に寝るわけではないが、使用中を示す注意札だ。
 電気を点けるほど室内は暗くない。時刻は1時すぎ、窓から見える向かいの校舎に強い日差しが照り返る。
「さっ、何の話をしましょうか?」洋子さんがイスに座りながら問いかける。机は固定式なので残念ながら、寄せる事ができない。前の座席座った洋子さんと伊藤くんが振り返る形だ。
デスノートの共通言語は何か?」伊藤くんが口火を切る。
「えー、ここまで来てマンガの話なわけ?」洋子さんが怪訝な顔をする。
「まぁ、いいじゃん。ちょっと面白そうだ。まだまだ時間はあるわけだしさ」カズが添え木をする。
大阪弁でない事は確かやな」
「もー仕方ないわね。日本語じゃないの?」
「そこが問題だと思う」伊藤くん我が意を得たりとばかりに口を挟む。
「矢神月は日本人である事は間違いない。キラもそうだと思う。しかし、ニアやメロとなると怪しい」カズが思考し始める。
「そうね、あの二人は日本人離れしているもの。大体、あんな名前の日本人がいるわけないし」
「オリンピック選手にはいるよ、今井メロ」と伊藤くん。
「あっ、あれはびっくりしたわ〜」ヒトシがハッとしたように伊藤くんを見る。
「まっ、それはそれとして」洋子さん自分の間違いを認めたくないのか、先を続ける。「でも、彼らのように優秀な頭脳があれば何カ国語も話せても不思議じゃないわ」
「だとすれば、また矛盾が起きる。捜査本部にいる他の者も語学に堪能でなければ話が進まない。アメリカ大統領がライトと話して射る時も側に松田がいて、特に何の断りもない。他にもニアやライトの話をみんなが聞いている。あれほどの緻密な論理を聞いて分かるとなれば、かなりの語学の達人だろう」カズの口数が増える。
「まあ、そやな」ヒトシの口数が反比例する。
「死神は何語を話しているんだろう」伊藤くんが歩調を合わす。
「メロはマフィアに属しているのだから、部下の共通言語は英語だろう。だとすれば彼らに姿を見せた第三の死神シドウは英語を話している事になる。またリュークは人間にノートを使わせる為に英語でルールを表記している。ミサはアメリカで活動する限りは英語に堪能という事になり、松田や模木はエリート公務員だからやはり英語が話せると解釈するべきか。死神同士が会話する時と人間がいる前で語る時は、使用言語を変えているのかもしれない。もしくは人間に分かる言葉で語る事ができるのか」
「カズってライトみたいね」洋子さんが感心したようにつぶやく。
「しかし、まだ矛盾は残る」
「えっ、まだあるの?」
「出目川だ」
「ああ、あのいかにもマスコミの典型みたいなキャラね」
「そう、あいつはライトの情報によって、ニアを追いつめる為に民衆を扇動し、本拠地のビルを包囲する。コミックスで言えば10巻の始まりだ。彼が放送しているキラ支援の番組、キラ王国は日本人に向けて放送しているはずだ。出演している人達はどう見ても日本人だし、魅上は日本語でアンケートに答えている。さらにスタッフのカンペも日本語だ。しかし、ここで包囲している民衆はどう見ても外人だ。だからこそ、ニアの逃亡作戦も成功する。出目川の指示の元に集まった同志が日本人でないのは疑問が残る。二日間では日本人は十分に集まらなかったという事だろうか」
「むむむっ」伊藤くんナメクジに塩である。青菜よりもさらに存在感が無くなっている。そこまで考えていなかったのだ。カズの深読みにたじたじである。
「そんな事考えてもみなかったわ」洋子さんが尊敬のまなざしでカズを見つめる。
「翻訳コンニャクを食べているってのはあかん?」
「無粋ね」
「うわっ、何か二文字責めってこたえるな〜」二段階ダウンである。そんなクイズが昔あったっけ。
「まっ、マンガと言ってしまえばそれまでだし、いちいち断り書きがあってもわずらわしい。日本人が読んでいるのだから、日本が舞台になるのも自然だし、事実ライト達は再び日本に戻ってくる。そこからは全部日本語で交わされると考えても特に不都合は無いだろう。問題になるのは実写化する時くらいか。アニメならモーマンタイか」
 チェ・ジウ竹野内豊の顔が一瞬浮かぶ。違和感の無い吹き替え版の冬ソナを見た伊藤くんにとっては日本語をしゃべらない、低温のジウ姫に涙の大魔王が降りてくる。ジャッキーチェンが日本語をしゃべれないと知った時の衝撃は今でも忘れられない。竹野内の出生の秘密にも少しびっくりしたけど。
「読む楽しみがまた一つ増えたみたい。ありがとうカズ」
 言ったのは僕なんですけど…。
 そんな伊藤くんの心の叫びも虚しく、ディーラーはカズへと移行する。時刻は2時になろうとしている。

27
「じゃあ、そろそろ始めますか」伊藤くんが席を立つ。
 議論の舵はいつもカズに奪われてしまうが、材料を差し出すのは伊藤くんの役目である。漁師とシェフのような関係と言えるだろう。
 教壇までは机一つ分くらいしかない。そこから教室を見渡すと、ほんの少しだけ教師のような気分になる。と言っても見渡す程の広さではない。せいぜい40人くらいだろう。
「では今日はSCAMPERについてお話します」伊藤くん落ち着いた声でみんなの顔を見比べる。いつも思うのだが、カズは知っているのかいないのか表情に変化が無いので分からない。ただ、どうも知っていて隠しているのではないかと思う時が多い。あるいはそれが彼の処世術か。すっぴんである事は間違いないので、やはり表情が乏しいのだろう。
 その点、洋子さんは違う。化粧をしていても筋肉の伸縮運動は激しい。そして実に魅力的な表情を浮かべる。微笑を浮かべる事を英語ではwear a smileと言うが、wearを衣服以外に使うのは不思議な感じがしたものだ。洋子さんの場合はこのドレスチェンジが頻繁に行われる。きっとオーダー衣装が多いのだろう。カズは少しだけヒゲを生やしているが、ひげを生やす場合にも同じ動詞を使う。彼の場合は衣装より飾りにバリエーションがあるのだろう。
「今何言うたん?」
 それに比べて何と貧相な顔か。人の事は言えた立場ではないが、同類哀れみの令というか、同じ人間でもこれほど違うのかと思わせるのがヒトシ人形である。人間離れしているのだから、いっそお人形さんの方がかわいがってもらえるかもしれない。しかし、安心感を覚えるのも確かな事ではある。
「これはある頭文字の略称です。今移します」伊藤くんは電子ボードの端にあるケーブルをPDAにつなぎ、前面のボードにデータを移す。「フォントの大きさはこれくらいでいいかな」狭い教室の為、大教室のように各机に端末画面は無い。必要に応じて講師がプリントアウトする仕組みだ。
 そこには次のような文字が表示されている。
 Substitute?=代用できないか?
 Combine ?=結合できないか?
 Adapt ?=応用できないか?
 Magnify ? Modify ?=拡大できないか?修正できないか?
 Put to other uses ?=他の使い道はないか?
 Eliminate ?=削除できないか?
 Rearrange ? Reverse?=並べ替えられないか?逆にできないか?

「何か5W1Hみたいね」洋子さんが面白そうな顔をする。洋子さんの為に補足すればそれは洋子さんの顔が面白いという意味ではない。興味を持ってくれているのだ。ここで伊藤くん一列に8つの机が並んでいる事に気づく。横の列は5列あるから、やはり40人が収容できる教室だという事を無意味に確認する。
「これはアレックス・オズボーンという人が考案したアイデアのチェックリストで、後にボブ・イバールという人がこういう順序に並べ替えました。このリストは有名なので、訳もいろいろと加工されていまして、例えばこんなのもあります」
 伊藤くん手元のPDAにペンタッチする。
 画面が切り替わる。
 
1.転用したら?→現在のままでの新しい使い道は?
2.応用したら?→似たものはないか?真似はできないか?
3.変更したら?→意味・色・動きや臭い・形を変えたらどうなる?
4. 拡大したら?→大きくする・長くする・頻度を増やす・時間を延ばすとどうなる?
5.縮小したら?→小さくする・短くする・軽くする・圧縮する・短時間にするとどうなる?
6.代用したら?→代わりになる人や物は?材料・場所などを代えられないか?
7.置換したら?→入れ替えたら、順番を変えたらどうなる?
8.逆転したら?→逆さまにしたら?上下・左右・役割を反対にしたら?
9.結合したら?→合体、混ぜる、合わせたらどうなる?

「うわっ、何か増えたな」ヒトシがタラコ唇を突き出す。大ぶりなので、市場価格はわりと高いかもしれない。
「つまりいろんな角度から対象を考察するという事だな」カズがザ・ワイドの有田さんのように卒の無いコメントをする。
「そうだよ。これにあてはめて考えればアイデアが浮かびやすいという項目リストなんだ。ちなみに先ほどのリストは頭の体操で有名な多湖教授のオリジナルブレンドだよ」
 コーヒーにすればさぞかしおいしいだろう。
「で、考える対象は何?」
「それはこれからみんなで作ってもらいます。じゃ〜ん」
 最後の擬音と共に伊藤くんの片手にトランプのカードのような物が現れる。いつからマジシャンになったのだ君は。そして、トランプマンはどこへ行ったのか?あるいはこの物語はどこへ進もうというのか?
「ではこれからこの白紙のカードを二枚ずつ配ります。これに何でもいいので言葉を一つ書いて下さい。但し、名詞に限ります」
「ふふ。何だか面白そうね」洋子さん乗り気である。
 伊藤くんみんなにカードを配り始める。なかなか手際がいい。
 これから何が起こるのか。
 続きはまた明日。

28
 前回、4人の人間に二枚のカードを配り、1枚のカードに一つだけ任意の名詞を記すという課題を出した。
 伊藤くん達がそのカード作りに専念している間に、アイデアの発想法についてもう少し考えてみよう。偉大な発明をする人はその陰でたくさんの失敗をしている。しかし、大事な事は彼ら(彼女ら)はそれを失敗だとは思わず、次のステップにつながる可能性の一つと捉えた事にある。
 壁にぶち当たったと思うのは自ら壁を意識した時だ。アイデアを出し尽くしたと思った時、アイデアの泉は再び湧き出すものなのだ。
自分の能力に自信を無くした方には次の言葉を贈ろう。

 人が新しいアイデアを恐れる理由が私には理解できない。古いアイデアの方が私は怖いージョージ・ケージ(アーティスト)

 発見は、ほかのみんなと同じ物を見て、違う風に考えることによって生まれるーアルベルト・セント・ジェルジ・フォン・ナギラボルド(ノーベル生理学・医学賞受賞)

 いずれもスウェーデン式アイデア・ブック(ダイヤモンド社)からの引用である。これは発想訓練を紹介する絵本仕立ての面白い本である。

 ほぼ日編集長の糸井重里さんのこんな言葉もある。

 なにかがガラッと変わるときというのは、いろんな関係なさそうな要素が、複雑にからみあって、ちょっぴりずつ流れをつくっていくものなんだとぼくは思っている。

 何かと何かが混ざり合うには、たくさんの材料をこねないといけない。つまりインプットとアウトプットのバランスの良さがアイデア製造のカギではないだろうか。
 どうやら、伊藤くん達の準備が終わったようである。

「え〜、みなさん書けましたね。では回収します」伊藤くんがカードを集める。
「では、ここに書きます」ボードに8つの長方形の枠が現れる。カードのつもりだろう。どうやら予め用意していたようだ。
 ラジオ
 扇風機
 ペット
 植木鉢
 うちわ
 ホテル
 雑誌
 楽器
 8つの言葉が画面に加わる。このボードは直接書き込みもできる。もちろん電子的にデータに置き換えるのだ。言わば巨大なペンタブレット式のボードである。
「では無関係なこれらの言葉から、先ほどのリストを使って検証してみましょう」伊藤くんが画面横のボタンにペンタッチすると、縮小された先ほどのリストが右端に表示される。
「例えば、ラジオと雑誌」そう言って伊藤くんは言葉を丸で囲み、線でつなぐ、結びつけられた言葉は左右に並び、言葉の群れから飛び出す。そこに簡単な絵を添える。まるで魔法のように言葉が重力を失って伊藤くんのペン先に集まる。さすがに家庭教師のバイトをしているだけあって、説明慣れしているようだ。
「さて、この二つの共通点は何でしょう」伊藤くんの目が洋子さんに向かう。
 自分を指さす洋子さん。
 うなずく伊藤くん。
「情報メディアかな」
「そうですね」伊藤くんボードに書き込む。
「他には?」今度はヒトシに目をやる。
「流動的というか、消費されるもんやな」
「確かに聞きっ放し、立ち読み感覚という点では似てるね」これもボードに書き込む。
「ではこのラジオと雑誌の特徴を結合してみるとー」リストの「結合」の文字に触れるとそこが赤色に変わる。
「文字放送というのができるわけです」
「またラジオの利点を音声と捉えると、ラジオと雑誌の順番を変えて」今度はリストの「逆転」の文字が変化する。
電子書籍の音声機能に変わるわけです」
「ほう」カズが少し感心したような顔をする。これは、電子書籍の文章を音読再生したり、電子図鑑の鳥の絵にタッチすると、生態映像や鳴き声が聞けたりする機能だ。
「続けて」洋子さんがコブクロ並みのエールを送る。もう少し大きくなると嬉しいんだけど。
「うちわと扇風機の共通点は涼しくなるところにあります。両者の違いは手動と電動の違いですがー」今度は「代用」が赤字になる。
「以前、ぬいぐるみの手にうちわを持たせてあおぐおもちゃが流行りました。涼しいかと言えば疑問ですが、見た目のインパクトはなかなか面白かったと思います」伊藤くん、口調がすっかり変わっている。プレゼンじゃないんだから。
「じゃあ、ペットホテルは応用ね」洋子さんが画面を見つめて答える。
「そうです。ホテルは本来人間の為のものですが、生き物であれば預かって欲しいという要望があっても不思議ではありません」
「では残った植木鉢と楽器ですが、この全く結びつきそうに無かった言葉も飾りという点では共通します。観葉植物のように楽器をオブジェとして扱う人もいます。これは転用ですね。植木鉢を重ねて人の形や動物の形にして楽しむ人もいますね」伊藤くんの饒舌ぶりはとどまるところを知らない。
「さて」伊藤くん急に言葉を切って、画面を消す。
「何?どうしたの?」洋子さんがびっくりした声をあげる。
「ここで記憶テストをします」すっかり先生気取りの伊藤くんである。「今ここに書いた8つの言葉を思い出して下さい」
 画面には8つの長方形が再び浮かぶ。伊藤くん三人に紙を配る。
「では書いて下さい」
 みなさんもどうぞ。もちろんカンニングは無しですよ。

 1分経過。

「はい、そこまで」
 伊藤くんももちろん試している。だから回収した紙は4枚だ。
 自分が書いた言葉が二つ含まれるのだから、残りの6つを思い出せばいい。結果はー
「全員正解でした」
「おおー」ヒトシがクリスタルに変わる。本当はクリスタルヒトシ君より、隣の豪華賞品だけでいいんだけどな〜と伊藤くんはいつも思う。しかし、司会の草野さんには逆らえない。あのスーツの下には想像もつかない筋骨隆々のボディが隠されているのだ。
「これが連想記憶術の効果です」
「えっ?何?」洋子さん、伊藤くんの思考の切り替えの速さに追いつけない。
「記憶術の一種です」伊藤講師は洋子さんに向かって話す。
「ちなみに洋子さんはどうやって8つの言葉を思い出しました?」
画面の長方形の枠の中に再び言葉が表示されている。
「自分の書いた言葉はすぐに思い出したの。私の場合はペットと植木鉢ね。で、そこからペットホテルと楽器を飾る話を思い出して、うちわをあおぐぬいぐるみが欲しいなと思いながら、文字放送を思い出して、それでおしまい」
「つまり、それが連想記憶術です」伊藤くんが草野さんに見えたのは気のせいだろうか。
「そっか、そういう事か」洋子さんがうんうんとうなずいている。
 心なしかカズの目つきも優しい。伊藤くんも満足顔である。
 授業の終わりを告げるベルが鳴り、向かいの校舎から学生たちが排出される。
「というところで、本日のアイデア発想クラブはおしまいです」伊藤くんの声が教室に元気良く響いた。