<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと
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どうにも捨てられない物というのがある。僕(私事ながらこれから筆者の自称はこれに改める)の場合は本である。
「本は僕の体でできている」は真でないが、「僕の体は本でできている」は真である気がする。川島なおみといい勝負だ。焚書坑儒なんて死刑と同じくらい僕にとってはつらい仕打ちだ。だから僕の机には気が付けば本の山ができあがる。
読みもしない本が、というのはやや正確さを欠くが、読みかけの本が、というのはかなり精確な表現だ。つまり、興味の対象がリモコンチャンネルのように移ってしまうのだ。読み終えた本より購入する本の量の方が多い。結果として読んでない本が山を成す。気に入った本というのは内容も覚えているものだが、その余韻に浸りたくて本棚から引っ張り出し、読みかけては積んでしまう。こうして山はさらに高さを増し、城壁のように机の上を占拠する。その高さはベテランセールスマンの棒グラフのようだ。
僕の場合、読みたい本というのはその日、その時の気分によって違う。本当に面白い本というのは読んでいる行為さえ忘れて没頭してしまうものだが、退屈な本は読んでいる時間が気になってしまう。
聞きたい音楽が変わるように、読みたい本も変わる。小説であれば、最後まで読み通した方が消化不良にならなくて精神的にもいいかもしれないが、情報型の本であれば必ずしも全部読む必要は無い。
二・八の法則で知られるように、二割程度でも自分にとって有益な情報が読み取れればそれでいい。一冊の本で何か一つでも学ぶところがあれば、それで十分だし、大抵の本はそれ以上に学ぶところがある。
情報というのは自分のレベルに合っていないと無意味である。少なくともその情報の価値が判断できるレベルでなければ、役に立たない。但し、どこに何が書いてあったかという位は知っておくと便利だ。
脳というのは不思議なもので、あるアンテナを立てた途端、似た物を集め始める。ふと気づけば、似たようなテーマやジャンルの本が集まっている。
情報型の書籍の中で最も代表的な物が辞書である。しかし、辞書を始めから読むというのはとても根気のいる作業だ。そもそも辞書に載っている言葉には躍動感が無い。それらは岸に打ち上げられた残骸だ。言葉は文脈の中にあってこそ、その輝きを放つ。
だから、外国語でも辞書を第一とする考えは語学学習にとっては回り道だと思う。最低限の語彙を覚えた後は、文脈の中で言葉に対するイメージを培う方がいい。同じ言葉が見せる様々な表情を感じ取れれば、僕はそれで満足だ。そもそも言葉とは思考の結晶だと考えているので、僕は情報の伝達ツールとしての言葉の効用よりも、なぜその言葉が生まれたのか、出生の秘密に興味がある。言葉と文化の関係を探る方が僕は楽しい。ところでー
「海外小説って何であんなにスッと頭に入ってけーへんねやろな」
姿を隠すほどスリムな体型でないヒトシがバクバクと菓子を貪る。食べるかしゃべるかの二者択一は彼にとっては究極の選択らしい。何をそんな吟味していたのかテーブルについたのも一番後だった。
「どういう事?」洋子さんの目が夜行性の猫のように光を帯びる。キャッツアイだ。但し、心までは盗まない。人生そんなに甘くは無いのだ。読書好きの彼女は反射的にそのような反応を見せたに過ぎない。
「ほら、あのカタカナの名前がな、何かこう頭に入らへんねん」関西人特有の無意味なジェスチャーがパントマイムのように宙に躍る。
「私はすぐに頭に入るけど」
「うわっ、すげー」ヒトシが口の中にかっぱえびせんを見せながら、感嘆の声を出す。まるでミキサーで野菜ジュースでも作っているようだ。
「じゃ、ヒトシはどうやってストーリーを追うわけ?」
こうしているとまるでエルメスと電車男のようだ。
「人物表が大抵ついてるから、それをいちいちめくるねん」
「何?それってもしかして推理小説?」
「てゆーか、ディテクティブストーリーって言うて欲しいわ」
伊藤くんはヒトシの口の動きを見ながら、水面に上がって酸素を吸い込む鯉みたいだなと思う。Detective story、探偵小説か。
「まぁ、気持ちは分からないでもないけど、そんなのなかなか物語に没頭できないんじゃないの?」
カズは大して関心無さそうにタバコをくゆらせている。しかし、かっこいい男というのは黙っていても絵になるものだ。
「うん、そやな。いちいちこいつの職業何やったっけ?って確かめなあかんねん。クリスティの名作で『そして誰もいなくなった』ってあるやん?」
「AND THEN THERE WERE NONEか」カズがさりげなく原題をつぶやく。
「ああ、あの陸の孤島に10人の男女が招待されて、マザー・グースの10人のインディアンの子守唄通りに殺されていくお話ね」洋子さんが誰に向けてのアピールか実に説明的な口調でうなずき返す。
「そうそう、それそれ。1人、また1人唄になぞらえて殺されていくわけや」
「見立て殺人だね」伊藤くんがいかにも分かったように口を挟む。
「横溝正史の獄門島なんかにも出てくるあのパターンな。日本風に本歌取りって感じやけど」どうやらまたヲタの心を刺激したらしい。相変わらず負けず嫌いのヒトシである。
「で?」洋子さんにとってはそれらの知識は何の意味も成さないようだ。株価下落。
「いや、それがな。出てくる度に人物表で確認しながら読むから、誰がいなくなって誰がおるか分からんわけや。そしたら、最後に誰もおれへんやん。で、犯人誰やねん?って考えようにも誰がどんなんやったか覚えてへんみたいな」
「何それ」洋子さんが大声で笑う。学食はすでに大勢の学生でごったがえしているので、オペラ歌手でもない限り周りの注目を集める事は無いが、よほどおかしかったみたいだ。もっとも怪人はヒトシの方なのだが。
ところで、伊藤くんもそして誰もいなくなったという経験がよくある。彼のマシンガントークは標的の息の根を止めるまではやまない。何せあのシーマンでさえ彼の怒濤のおしゃべりに舌を巻いて逃げ出したほどなのだ。
「で、また最初から読まなあかんわけや」
「あんた博士の愛した数式じゃないだから、記憶くらいあるでしょ?」洋子さんの口から今はやりの小説が出る。伊藤くんは頭の中の読書リストの上位に慌てて情報を追記する。
「あるけど、どうも人名と人物像が結びつけへんねん。そやから最近新しい読み方発明してん」
「何よ?」洋子さんが少し顔を寄せる。伊藤くんはヒトシのパフォーマンスではないかと一瞬考える。
「なんか長ったらしいカタカナの名前があったら他の名前に置き換えるねん」
「例えば?」洋子さんの顔がさらに近づく。伊藤くんの疑惑は無糖コーヒーのように濃厚な色へと変わる。カズは以前として静観したままだ。
「佐藤さんとか鈴木さんとか」
「はぁ?」洋子さんの顔がお笑い芸人のようにゆがむ。マイクでも投げかけない勢いだ。
「てゆーか、それすら面倒臭い時はねー」
「その時は?」洋子さんの顔が吐息のかかる距離まで縮まる。
確信犯だ。こいつは確信犯だ。伊藤くんの疑惑の念は今や醤油よりもどす黒い。
「クマさんとかワンちゃんにするねん」
「クマさ、、ん?ワンちゃ・・・ん。ははっ、何それ、はは」洋子さんが腹をよじって机を叩く。
伊藤くんは笑いを取られた事にむかついている。彼はウエンツよりも笑いに敏感なのだ。今何WaTくらいなのだろう?
「どうぶつの森じゃないんだから、そんなの何の緊迫感もないじゃない!クマさんチームの誰が犯人か?じゃ、クリスティも墓場でおちおち寝てられないわ」
それで起きだしたら、クリスティは自分の事を一本の小説にしてしまうだろう。それにしても洋子さんがどうぶつの森を知っているとは意外だ。任天堂DSでも持っているのだろうか?
「じゃ、三国志とかは大丈夫なの?」洋子さんが突然思いついたように聞く。
「劉備玄徳、超雲子龍、漢字なら大丈夫やで」
「京極夏彦も?」
「もちろん。西尾維新のネコソギラジカルくらいに登場人物がいても大丈夫やで」
「何それ、じゃ単にカタカナが苦手なだけじゃない」
「ソウヤ。カタカナガニガテヤネン」
文字にしたらきっとこんな感じになったに違いないヒトシのゆったりとした返事である。
「理由なんかも大丈夫?」
「理由?」ヒトシが繰り返す。
「宮部みゆきだよ」カズが助け船を出す。
「読んだ事ないけど」
「高層マンションで起きた殺人事件を住人達の証言だけで追っていくの。宮部さんの想像力と来たら、行間まで塗りつぶされてるくらいにすごい描き込みなのよ」
実際にそんな小説があったら読みにくくて仕方ないだろうなと伊藤くんはつっこむ。もちろん心の中で、だ。
「ふーん」ヒトシ、感心モードである。
さすがに文学部に通うだけあって、洋子さんは図書司書のようにポンポンと本のタイトルを引き合いに出す。
「孤島モノが好きなら、夏木静子さんの『そして誰かいなくなった』とか、直木賞作家の東野圭吾さんの『ある閉ざされた雪の山荘で』とか『仮面山荘殺人事件』もあるし、西尾維新の『クビキリサイクル』は当然として、森 博嗣の『すべてがFになる』、綾辻行人の『十角館の殺人』、霧舎巧の『ドッペルゲンガー宮』に『カレイドスコープ島』、有栖川有栖の『孤島パズル』、吉村達也の『トリック狂殺人事件』や西村京太郎の名探偵はシリーズのー」
「分かった、分かった。もう許して〜」ヒトシが顔の前に手を広げて、洋子さんの洪水をせき止める。ヒトシはこの方面には造詣が深いわけではないようだ。
伊藤くんが知っているその手の話と言えば『かまいたちの夜』か『電脳山荘殺人事件』くらいだ。つまり、ゲームソフトと金田一少年くらいなので、洋子さんからさらに買い注文が殺到するかもしれない。ここは我慢の一手だ。
「孤島や洋館に閉じこめられた住人が互いに疑心暗鬼にかられながら戦々恐々とした日々を過ごすというのは本格ミステリーファンには密室殺人と同じくらいたまらないんだろうな」カズが灰色の脳細胞を思わせる風貌で深々と腰を沈め語る。安楽椅子探偵を地でいけそうだ。
おやつの山が消えたのは、名探偵でなくてもすぐに解答できそうだけど。
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