<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと

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 洋子さんとヒトシの小説談義がひとしきり済んだ後、二人は講義があるという事で席を離れた。残ったのは伊藤くんとカズである。そう言えば、前にもこんな事があったなと伊藤くんは思ったけれど、何の話題をしていたのかはひっそりと佇む神社のように記憶に無い。
 おやつの時間が過ぎると、学食は元の静けさを徐々に取り戻すから不思議だ。冒険こそする気は無いが、いつかこの謎を解いてみようと平和な事を伊藤くんは考えたりする。
「俺が今言っている事は嘘だというのは嘘だろうか、本当だろうか?」カズのパスで試合が再開する。ホイッスルが聞こえなかったのは気のせいだろうか。
「えっ?」
「だから、俺が今言っている事は嘘だというのは嘘か本当か?」
 伊藤くん会話の一部がよく飲み込めない。このまま押し問答を繰り返して、今日の小説を終えたらきっと明日から誰も読んでくれないだろう。
「うーん」伊藤くん、カズの声を心の中で追唱しながら、ようやく会話の輪郭にピントが合い始める。
 言っている事が嘘だというのが嘘だとすると、それは本当の事を言っているのだから、嘘になる。しかし、この発言が嘘だとすると、嘘の発言が嘘なのだから、本当という事になり、また元に戻ってしまう。あれ?
 ではこの発言が本当だという事を出発点にすると、それはつまりまたー
「寄せては返す波のように思考もまた堂々巡りをする。つまりパラドクスだな」カズが伊藤くんの思考を断ち切る。
「うん、確かにそうだ」
「これは嘘つきのパラドクスと言われている」
「えっ?有名なの?」
「ああ、そして未だに解決されていない永遠のパラドクスだよ」カズが一瞬古代の学者に見える。
「こんなのもある。あるクレタ人が「すべてのクレタ人は嘘つきだ」と言った。これは嘘か本当か?」
「なんでクレタ人なの?」
「それはこれを考えた古代ギリシャの哲学者エピメニデスがクレタ島出身だったからだ。別に場所はどこだっていい。但し、いい点をついてはいる」
 ユーミンが他のアーティストへ楽曲を提供する時に使うペンネームが浮かんだが、この場合は全く関係ないだろうなと伊藤くんは口に出すのをやめる。
 あるクレタ人が発言したのだから、その人はそこの住人だ。そして、その人がクレタ人は嘘つきだと言っているのだから、この発言は嘘になる。
「さっきと同じだね。嘘だというのが嘘なら本当だし、逆なら嘘だ。つまり、またしても無限の思考ループにハマってしまう」
 伊藤くん、少し謎が解けてホッとする。
「期待通りの回答をありがとう。俺はいい生徒を持って幸せだよ」
 やっぱりカズはここでは教師のようだ。
「違うの?」伊藤くんの眉が八の字に変わる。
「何も気にする事は無いさ。そういう答えは大半の人がしてしまう極めて平均的な意見だ。しかし、実際は違う」
「違う?」
「ああ。さっき発言が嘘なら本当だと言ったけど、それをもう少し説明してくれ」
「え〜と。「すべてのクレタ人は嘘つきだ」は嘘だから、この発言が本当という事になって、「嘘だ」と言っているから本当ではなくてー」
「そこがおかしい。もう一度考えよう」
「えっ?だから、嘘の発言が嘘で、本当だから、嘘になって、本当になるから。うー、段々分からなくなってきたぞ」伊藤くんがロボットだったら、確実に頭の回路はショートしているだろう。
「では問題を限定しよう」カズが人指しゆびを立てる。
「すべてのクレタ人は嘘つきだの否定文は何だ?」
「すべてのクレタ人は嘘をつかないでしょ」
「つまり、それはみんな正直者だと言いたい訳か?」
「うん」
「ではその文章が嘘ならどうなる?」
「嘘をつかないのは嘘だから「本当の事をクレタ人が言う」かな?」
 伊藤くんすでに自信喪失で言葉に勢いが無い。廊下で立たされている生徒のようだ。
「違うな。ここで問題となっているのは始めのパラドクスのような話者だけではない。自分で自分の事を指しているのとは違うんだ。クレタ人はの前には何がついている?」
「すべてのクレタ人だね」
「だったら?」
「だったら?」伊藤くん、飼い慣れたオウムのようにリピートする。英会話学校だったら、さぞかし優秀な生徒だろう。
「答えはすでに目の前にあるさ。後は、思考を補強するだけだ」
 すべてのクレタ人が嘘つきだというのが嘘の発言だとしてもそれが、すべてのクレタ人が本当の事を言っているという意味にはならないと、カズは言った。
 つまり、否定の仕方が間違っているのだ。この嘘という否定はどこにかかるか、まるで英語の全否定か部分否定かみたいである。「すべての」という部分にどうやらカギがあるらしい。「ALL」を否定するのか。Aさんというクレタ人もBさんというクレタ人もみんな嘘つきだというのが嘘だとするとー、あれ?
 伊藤くんの中で拡散した思考が収束し、一つの答えが浮上する。
「分かったか?」
「ちょっと待ってよ。ん?「すべてのクレタ人が嘘つきだ」の否定文は「嘘つきでないクレタ人もいる」という事?」
「おっ、いいぞ。その調子。あと少しだ」
「という事はという事はだよ」
「ふふ」カズが含み笑いをしながら、この動物を檻の外から観察している。
「何だろう?」
「おい!もうちょっとがんばれ」
「うーん。何がおかしいんだろう。あれ?待てよ。さっき話者が同一だとか言ってたよね」
「ああ、言った」
「この場合の話し手はあるクレタ人だから」
「だから?」
「そのクレタ人が正直者だとしたら、「すべて」という条件は嘘になる。嘘をつかないクレタ人がいるなんて考えられないからね」
「うん、それで」カズは檻からバナナを差し出している。もはや猿扱いである。
「では逆にこのクレタ人が嘘つきだとしたら、「すべてのクレタ人は嘘つきだ」というのは、嘘としては矛盾しない?」
「そうさ。例えば俺がここで「日本人ってみんな嘘つきだよな」と言っても、俺が嘘をついているのならそれは別にパラドクスではないよな」
「なるほど」
「じゃ、これがパラドクスになるには条件をどう変えればいい?」
「えっ?まだ終わりじゃないの?」伊藤くん、すでに頂上に旗を揚げる勢いだ。
「もう少しだけ考えてみろよ」カズが持っている旗を引っ張る。
「それって、さっきの話者の関係?」
「うーん、少なくとも日常ではあまり目にしませんね〜」カズがヒトシもいないのに草野さんの口調をまねる。
 始めの嘘つきのパラドクスは、なぜ成立したのだろう?
 伊藤くんは再び、深い谷底へと落ちていく。
 闇が光を閉ざす。
 それは話し手が自分自身であったからだ。
 もう一人の伊藤くんがささやきかける。
 話し手=自分自身。
 Talk myself。
 Speak myselfではまるで青年の主張だ。
 雑音が心の中で反響する。
 黒部ダムで歌った中島みゆきの凄さを思い出す。よくもあの反響の中、歌ったものだ。
 要らない思考をどんどんゴミ箱の中へドロップする。
「そうか!「すべて」のがミスリードだとすればー」
「おっ、探偵みたいだな」伊藤くん、さっきの小説談義がまだ残っているのかもしれない。
「すべてのクレタ人だからと言って、大勢いるわけではなくて、その島にクレタ人が一人しかいなければ、それはつまり嘘つきのパラドクスだ!」
無人島とかな。トム・ハンクスの『キャストアウェイ』良かったな」カズが軽く拍手する。
「いえ〜い!」伊藤くんがピースサインをする。
「まっ、よくやった」
 日本の伊藤、金です!いや〜、途中あやうい所もありましたが、これはなかなかの演技でしたよ〜。
 伊藤くんが勝手にシミュレートして自分を演出する。もちろん頭の中で。
「という事で、そろそろ帰るわ」カズが机を片づけ始める。正確には机の上をだ。机を片づけたら職員の人がびっくりしてしまうだろう。
「うん」伊藤くんもこれから家庭教師のバイトがある。
 校門を抜けた所でカズと別れ、坂を下りながら伊藤くんは少し爽やかな気分に浸る。
 但し、いい点をついてはいる。
 カズの声が再生される。
 ん?
 確か、なぜクレタ人なんだという問いの対するカズの答えである。
 そうか。
 伊藤くん、少しおかしくなって唇をかむ。
 あの時からすでにクレタ人の限定が始まっていたのだ。カズはヒントをくれたのだな、と。

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