<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと

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「いいかい。計算にはきまりがあるんだよ」
 伊藤くんが今年で小学校四年生になる中山さとる君に算数を教えている。
「えー、適当に計算しちゃダメなの」さとる君が愛嬌のあるむくれた顔をする。
「物には何でも順序があるんだよ。家に入る時だって、いきなり窓から入らないだろ?」
「この前、カギ忘れたから、裏の窓から入ったよ」
「いや、そういう事じゃなくてね」伊藤くんが苦笑する。この年の男の子は何にでも反発したいようだ。伊藤くんにもそんな事があったなと思い出す。
「例外っていうのは何にでもあるよ」
「レイガイ?農業ができなくなるって事?」
「いや、イレギュラーだ」
「ああ、裏ルールか」
 どうやら、最近の子どもは横文字には強いらしい。さすが、ネットで育つ子どもである。
「だからね、左から順番に計算するんだよ」
「必ず左からなの?」純粋な視線が伊藤くんの顔に突き刺さる。子どもの質問は時に鋭いから、適当に返事をしてはダメだと伊藤くんは思う。
「じゃ、実際にやってみよう」とにかく問題を解けば納得するはずだ。
「うん、分かった」さとる君もそれ以上は聞いて来ない。大人が質問に答えないのは身を守る術なのだと子どもなりに理解しているようだ。
「じゃ、17-3+8-4は?」
「それを左から順番に計算するんだね?」さとる君が聞き返す。
「うん」
「えーと。17-3は14だからー」さとる君がノートに筆算を埋めていく。
 もちろん伊藤くんはこれくらいなら暗算でできるから、瞬間に答えを出すけど、余った時間で別の通り道を考える。そうか、なるほど。
「できたよ、18だね」
「うん、正解だ」伊藤くんニッコリと微笑む。
 但し伊藤くんがうなずいたのは、答えではない。もっと別の答えが分かったからだ。
 なぜ左から順番に計算しなければならないのか。
 その質問はやはり鋭い質問だったのだ。
 伊藤くんはもう一度自分自分の頭に浮かんだ式を展開する。それはさとる君が書いた筆算とは違う。むしろ、さとる君の書いている式を見ながらその違いに少し驚いた。
 反骨精神を持ちながらも忠実なるしもべであるさとる君は、式を左から順に計算する。自分がそう言ったのだから、当たり前だ。
 しかし、伊藤くんはどうか?
 彼は自分の命令に従順ではない。
 無意識にマイナスの組とそうでない組を分けて計算している。
 17+8と-3-4だ。
 =25-7
=18
つまり、彼はさとる君とは違って、数字を入れ替えて計算していたのだ。
 それはなぜか?
 楽だからだという非常に明快な答えが返ってくる。
 しかし、なぜ小学生は左から順番に計算をしなければいけないかと言えば、彼らにはまだマイナスの世界が概念として与えられていないからだという事になる。彼らにとってのマイナスとはあくまで大きい数から小さな数を引くための記号に過ぎないのだ。
 伊藤くん、ここで面白い実験を思いつく。
「いいかい、じゃあ、今度は少し長いのを出すよ」
「ええー。いやや」さとる君が口をとがらせる。
「まっ、計算は反復練習だからね。はい、これ」伊藤くん、ノートに次の式を書く。さて、さとる君はどう解くのだろう?
 13-3+8+5+2-8+3=
「うわっ、ひどいよ。もっと簡単なのにしてよ」
「ダメだよん」伊藤くんがピエロのような顔をする。幼い時、マクドナルドのピエロが怖かったのは僕だけだろうか?
「ひー、う〜」さとる君が他人にとっては意味を成さない擬音を発する。そして、左から順番に少しずつ解いていく。
 やがて「20だね」と顔を上げる。
「うん、そうだよ」
「伊藤先生はもう解いたの?」
「うん、そうだよ」伊藤くん、壊れたロボットのように同じ言葉を繰り返す。
「答えを知ってたからそんなに速いの?」
「ううん、式は適当だよ」
「ふーん。すごいね」
「すごくないよ。大人なら誰でもすぐにできるよ」
「大人なら?」
「ごめん。子どもでもできる。しかも計算が速くなくてもだ」
「えっ?じゃあ、僕でも?」
「もちろん。ちょっとしたコツだよ。考えてごらん」
「えー、何かヒントちょうだい」
「じゃあ、計算は左からやらなくてもいいよ」
「えー、それってさっきと言ってる事が違うやん!」
「まあね。但し、今回だけだ。さとる君の場合は小さい数から大きな数は引けないだろ?」
「うん、引けない」
「それは中学校になってから学ぶから、とりあえずそうじゃない式にだけ有効だ」
「ふーん。何か魔法みたい」
「そうハリポタさ」
「変なの。でも、僕考える」
「うん」
 もちろん、特に解説の必要も無いかもしれないけど、ここで伊藤くんの頭の中の計算を再現してみる。問題をもう一度。
 13-3+8+5+2-8+3=
 ここで注目できるのは8-8だろう。
 従って、これは計算せずにただ斜め線で消すだけだ。
 さとる君には難しいかもしれないけど、-3+3をひっくり返せば、彼にもそれが計算の0である事は分かるだろう。
従って、残るのは13+5+2=20が正解だ。
他にも8のペアーだけ消去して、13-3+5+2+3=10+5+2+3というのでも構わない。5+2+3が10になると見抜ければ、さらに答えは速くなるだろう。つまり、計算が速くなるコツは計算しやすいグループをまとめてしまうという事にある。
 1+8+4+3+2+7+6+9を単純に前から足しても構わないが、検算の為にも、10になる組を見抜く方が確実だ。4つの組があるから40になるというのは誰にでも納得できる。計算が複雑になればなる程、計算力に自信の無い人間は手抜き工事を見習っても訴えられたりはしない。
 たかが小学校の問題なのに、教えられる事は意外に広くて多い。問題を教える事が一番の勉強になるとやっぱり伊藤くんは思うのだ。飛び方を気にしない鳥のように、人が歩き方を意識する事は少ない。しかし、意識をした途端、頭脳は覚醒する。そして、再び穏やかな眠りに就くのがいつになるのかは分からない。そこにあるのは思考の果てなのか、それとも始まりなのか。
伊藤くんはさとる君が悪戦苦闘する様子を見ながらそんな事を考えていた。