<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと

33
 晩ご飯を済ませると伊藤くんは、一人レイトショーを始める。
 壁に掛けられた大型のモニターからレンタルショップへアクセスする。このモニターはネット接続されているのだ。いろんな作品パネルの中から『12人の優しい日本人』を選び出す。これは古畑任三郎でブレイクする前に作られた三谷幸喜の作品である。
 映像は高速であっという間にデータ送信される。一度しか見られないようにプログラム処理がなされているので、録画はできない。伊藤くんは、急に裁判員制度について考えてみたくなったのだ。日本でも数年間、陪審員制度が実施された時期があった。しかし、戦争によりそれらは活動停止を余儀なくされた。
 この作品は古典的な名作『十二人の怒れる男』をパロディにしたものだが、日本で陪審員制度が行われれば、このような会議は踊る、されど進まずの状態になってもおかしくない。
 ここには実に典型的なキャラクターが多数登場する。リーダーシップを発揮する者、他人の意見に追従する者、付和雷同タイプの人間、理路整然と語る人、とにかく早く終わらせたいとやっつけ仕事な人。見ているとホームルームを思い出す。
 伊藤くんはベッドの上で三角座りをしながら、それを鑑賞する。
 極端な話をすれば、議論を重ねれば重ねるほど、結論は定まらないだろう。人が人を裁くという事は大変に難しいことなのだ。明白な事件ならば議題にはならない。そしてまた多数決というものが必ず正しい事ではないというのも分かる。その場の空気を支配した者が、意見を扇動し、それが集団心理となる怖さも内包している。そんな事を考えていると、この作品を笑い飛ばす事は決してできない。

 翌朝、伊藤くんはまた例のへんてこな目覚まし時計に起こされた後、『脳を鍛える大人のDSトレーニング』の<人数数え>をしている。これは家の中に出入りする人間の数を数えるトレーニングだが、最初のうちこそ簡単に数える事ができるものの、スピードが増すと記憶力に基づいた足し算と引き算の問題に変わる。

 ところで、動物は数を数える事ができるだろうかという実験がある。矢野健太郎さんの『数学物語』によれば、鳥類は四つくらいまでの数字を確認できるらしい。但し、これは数を数えるというよりも、2と1の違い、3と1の違い、4と3の違いなど、あくまで数の区別が視認できるという意味だ。犬や馬なども3くらいまでなら判断できるそうだ。

 という事はこのトレーニングが苦手な伊藤くんは時に獣以下という事になるかもしれない。
 この本にはさらにイタリア中部の古代人、エトルリア人が創ったと言われるローマ数字の話も紹介されている。では彼らはどのようにして数を数えたのかと言えば、それはローマ数字を見れば明快だ。では早速1〜10までのローマ数字を書いてみて下さい。

 I、II、III、IV、V、VI、VII、VIII、IX、X
 
 書いてみればお分かりのように1〜3までは一つずつ棒の数が増えるだけだが、ちょうど5を境にして4と6は鏡で映したように逆になっている。Vの左側に棒がある事はマイナスを意味し、右にあればプラスになる(9も考え方は同じ)。そうして10の時点でXになるが、これはVを上下逆さにくっつけた形らしい。
 その後はXの横に上の表記を足し、20はXXと二つ重ねてまた繰り返しとなる。つまりこれは5を折り返しの基準にして考えた事になるわけだ。
 
 しかしながら、数が発明されるまでの人類というのはなかなか大変だっただろうなと思う。1や2や3くらいまでは確かに簡単に識別できるだろう。けれども、どこかで3とそれ以上、4とたくさんみたいな発想になってしまったはずである。考えてみれば、いっぱいという概念を何かの記号に置き換えてみたり、分からないものと分かるものを分けるというのは、すごい発明である。無知の知。やはり0を発明したとされるインド人はすごい。解なしという解答もすごい。とりあえずXとするのもすごい。
 もしも数が数えられなかったら、そして計算が出来なかったら、貨幣価値も文明もこんなには進化しなかったのではないだろうか。 

 伊藤くんは傘を見て、時々感心してしまう。あの傘の形は世界共通なのだ。それはつまり、それだけ洗練された無駄の無い形をしているという事になるだろう。
 始めは、レインコートのような物が発明されたのだろうが、たまたま大きな葉っぱを持った人がいたのではないか?
 そこから現在の傘の形がデザインされる。傘が発明されてからもう随分たつのに、画期的な傘という物は発明されても廃れていく。
 昔の人の知恵の上に僕たちは生きている。身の回りの生活道具は、どれも誰かが不便だと思った物の解消グッズである。という事は、昔の人より明らかに生活は便利になっているのだ。洗い桶が洗濯機に変わり、全自動から乾燥機へと変わる。薪を拾わなくても風呂は沸かせる。
 そんな先人の知恵を現代人はとくに何の疑問も恩恵も感じずに過ごしている。おそらく後何十年もすれば固定電話と同じ感覚で携帯電話にも注目しなくなるに違いない。
 昔は、公衆電話の位置というものを気にしたものだ。待ち合わせ場所に近い電話は特に重宝する。しかし、今は目の前に公衆電話があろうと、はたまた家に備え付けの電話があっても、携帯電話を使用してしまう。
 メガネは体の一部ですという宣伝文句があったけれど、メガネを携帯と置き換えても全く違和感が無い。
 
 ところでCMというのは、最新の宣伝情報であるゆえに少したつととても古く感じるものである。昔のビデオ(ってこれもすでに消えそうだが)にたまたま入っているCMを見るとほんの一年前でも、とても懐かしく思える。特にファッションやデジタル機器の宣伝は、今時それかよ!とつっこみたくなる。
 もしもCMだけを一日見ていたら、すごく疲れるかもしれない。実際、面白CMだけが収録されたDVDや放送もある。
 CMプランナーの佐藤雅彦さんの『プチ哲学』にこんな一節がある。例えば、天気予報で「明日が快晴」と報じられると喜ぶ人もいれば、そうでない人もいる。つまり、同じ情報でも、違う価値を持つ場合があるという事だ。
 僕が普段使う最寄りの駅は僕から見れば、どこかへ行く為の出発点だが、近くに高校があるので、学生から見ればそこは通学駅である。田舎に住む人が都会にある実家に帰れば、田舎が都会である。兄弟と言われても、72歳の姉と65歳の弟という場合もある。夜の仕事をしている人にとっては、おはようの意味が違う。祭りと聞いてワクワクする人もいれば、スリの機会を窺う者もいる。みなさんにおかれましては、この小説を作者の意図とは逆に高尚なものとして読んで頂きたい(無理か)。

12人の優しい日本人 [DVD]

12人の優しい日本人 [DVD]

数学物語 (角川ソフィア文庫)

数学物語 (角川ソフィア文庫)

プチ哲学 (中公文庫)

プチ哲学 (中公文庫)