<国語のお時間>〜補講〜

 もう十分にご存知だとは思いますが(笑)、僕はかなりの活字マニアです。それは、文章との出会いが人との出会いに似ているからだと思っています。

 ところで、このブログでは学校や受験で習ったことをちょっと違う視点から楽しんでしまおうと思い、立ち上げました。いわば大人の目から見た勉強です。

 何だか、偉そうなことばかり書いていますが、そんなに知識があるわけではありません。このブログには知ったかぶりなことがさもそれらしく書かれてあります。プロフィールにも書きましたが、素人にしか書けない素人の視点で書きながら、時々読み返し、また勉強する。そんなつもりで、その時に学んだ全てのことを盛り込んでいます。だから、間違ったこともあるかもしれませんが、もし、みなさんが知っていることがあれば遠慮なく教えて下さい。

 ところで、僕は本以外にも現代文の入試問題が好きです。もちろん良問も素晴らしいと思いますが、単純に読み物として好きなのです。もちろん問題を解くことで客観的な読み方のトレーニングもできますが、今の僕は問題を解かなくてもいいので、そこに書いてある文章が読めればそれでいいのです。

 で、暇な時に論理的な思考訓練として問題を解く。なぜ入試問題における現代文が僕の知的好奇心をあおるのでしょうか?

 ここで現代文のカリスマ講師である出口汪(ひろし)先生の文章を引用させて頂きます。ちなみに僕が文章の客観的な読み方を意識するようになったのはこの先生のおかげです。

「予備校で講義をしながら、もったいないと痛切に感じることがある。ロジックをつかみ、知識をストックするには評論が、想像力を養成するには小説が最適だということはすでに述べた通りだが、毎年出題される大学の入試問題はそのエッセンスだけを抽出したもので、実際、これほど役立つものはないのだ。

 もし、あなたが現代文という入試科目にあまり興味を抱かなかったとしたら、それはその文章を理解していなかったからだ。逆に言えば、問題文をきちんと理解できれば、これほど面白いものはない。

 どの大学でも、原則として入試は一年に一回であり、そのうち現代文は一題か二題である。出題する大学側は、一年かけてその問題を選定する。東大なら東大、京大なら京大が、その最高の頭脳を集めて膨大な文章からたった一つを選び出す。

 いったい、どんな文章が選ばれるのだろうか。

 毎年、入試問題が発表されると、私は胸をときめかす。入試問題の発表は、各大学の顔が一堂に会することでもある。そして、それは時代を見事に反映した文章ばかりなのだ。

 各大学が選び出した評論は、ある角度から現代を切り取ったものである。文明、文化、言語、文芸、芸術、環境、医療等々、さまざまな分野のさまざまな思想が提示される。

しかも、どれもがその一番おいしい部分だけを切り取ったものなのだ。

 入試評論問題を解く効用は、これだけではない。入試問題は私たちのほうでは選べないわけで、その選べないということ自体に非常に意味がある。

 人間は誰しも、だんだん自分の興味ある分野にしか関心を示さなくなる。そして、自分の共感できる人の文章しか読まなくなる。誰もが、多かれ少なかれ偏ってくるものなのだ。

 これでは、レトリック(言い回し)感覚など、到底身につかない。あらゆる角度から物事をとらえる有機的認識の訓練も不可能である。

 物事は、目に見えないところですべてが密接にからみ合っている。そうした有機的な認識法を身につけるには、どこかですべてを俯瞰することが必要なのだ。それには、入試評論問題を解いてみることが最良の方法である。」

 そうなのです。当代きっての頭脳の結集が、入試問題に集まるのです。ただ、数学や英語などは勉強していない人にとっては今さら感がありますよね?

 でも現代文は日本語ですから、少なくとも僕の駄文を読んでいるみなさんなら読むことはできるはずです。その読み方がたとえ自分の主観に基づいた恣意的な読み方であっても別に採点されるのではないのですから、僕はいいと思います。

 だから僕はこれから国語や英語の時間でユニークな発想の問題文(もちろん本からの引用もしますが)をまるで一つのエッセイを読むように紹介していきたいと思います。

 そこに問題はありません。

 問題は読んだみなさんの中にできればそれで十分だと思うからです。

 ところで、いわゆる学校の国語と入試における国語を混同している人がいます。国語をここでは現代文に限定して話を進めますと、出口先生の講義を受けるまで、僕は入試の現代文を感覚やセンスを問うテストだと思っていました。

 では、入試現代文で問われる国語力とは何でしょうか?

 それは出題者の意図を的確につかむ客観力です。

 そして、このつかむという行為に必要とされるのが論理力です。

 今びっくりした人がいたと思います。

 かつての僕もそうでした。特に僕は本を読むのが好きでしたし、自分の意見を言うのが好きな子どもでしたから、作文も読書感想文もみんながなぜあんなに嫌がるのかが分かりませんでした。

 しかし、こと入試現代文に関してはこの事が一番の妨げとなったのです。

 つまり、僕は文章を主観的に読んで、主観的に答える事が国語力だと思っていたのです。だって、文章の読み方なんて誰も教えてくれないじゃないですか。

 でも、国語の時間はそれで良かったのです。

 なぜなら学校では「この文章を読んでどう思う?」という種類の質問ばかりですし、出されるテストは先生が教えてくれた答えを覚えていれば丸がもらえたからです。

 ところが、入試で必要とされるのは論理把握能力です。そして、社会に出て必要とされるのもこの論理力です。

 なぜだと思いますか?

 それは他人を説得しなければ会話が成り立たないからです。商談だってまとまりません。

 そして、入試というのは学校のテストと違って、落とすためのテストです。採点するには答えを用意しなければなりません。

 もしもその答えが全く解法の根拠の無い出題者の感想だったらどうですか?

 そんなの答えようがないですよね?

 問題文は文章である以上、一定の論理に従っています。なぜなら、筆者は何か伝えたいこと(主張ですね)があるから、文章を書くんです。僕もこうしてブログを書いているのは僕なりのメッセージがあるから書くんですね。

 でも、自分の意見を人に分かってもらおうと思ったら、そこに誰もが分かるような論理が存在しなければ共通の理解は得られないのです。

 社会に出て、自分よがりの理屈を並べても誰も相手をしてくれません。

 そして、入試現代文は学校の国語の時間のように個人の感覚やセンスを問うわけにはいかないのです。それでは点数のつけようがないんです。

 でも小説問題があるじゃないですか?と思った人もいるでしょう。

 小説問題も同じですよ。

 だって、答えを用意しなければ問題にならないし、採点できないんです。

 だから出題文が小説だと情緒の問題と勘違いしやすいのはよく分かりますが、主題者はあなたがそれを読んでどう感じたか?なんて聞いてないんです。

 というか聞けないんです。

 では、小論文はどうですか?

 これも自分の感想を書いてたらダメなんです。

 何のために課題文があるのかと考えれば答えは明白です。その文章の論理を読み取って、その論理を踏まえた上で、採点者を納得させるだけの論理力があるかどうかを見るしか客観的に採点しようがないんです。

 たとえば、辛い体験の書かれた課題文があったとして、たまたま家族に不幸な出来事があったとしたら、その人は有利ですか?

 それって不公平でしょ?

 どれだけ泣かすかという問題では無いんです。

 そういう能力を持っている人はぜひ小説家になりましょう(笑)

 どんな試験も試験である以上、これは変わりません。

 司法試験も法律的思考能力を基に論理力があるかどうかを見るしか採点しようがないんです。だって、裁判で一人よがりの意見なんて認められるわけないじゃないですか(笑)

 国語の先生は数学などと違って腕の見せ所が薄いという意見があります。

 歴史と違って知識がモノを言う割合は少ない(漢字の書き取りとか)し、数学のような素晴らしい解法を見せるわけでもない。文章も先生よりうまい人だっているかもしれません。詩を書かせると発想力の豊かな子だっています。

 でも入試現代文なら、その論理の道筋を解き明かす事で能力の差を感じる事ができます。

 現代文は日本語で書かれているので、その言語の特性と言葉の持つ曖昧性が他の科目よりも勉強のしがいがないように感じさせてしまうところに落とし穴があります。

 しかし、僕たちはこ一生日本語を使わなければいけません。そして日本語を使うという事は(別に他の言語でも構わないけど)論理を使う事なのです。出口先生が言うように、現代文を学べば、それは他の科目の力も押し上げる効果があります。

 問題文の意図を素早くつかむ能力もやっぱり論理能力です。

 文章を客観的に読む大切さを踏まえつつ、この時間を開講したいと思います。

 本日の補講はこれまで(笑)

 

 
 
 
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