<国語のお時間>携帯コトバ

 さて、前回の国語の補講を読んで頂いたとしまして(笑)

 では改めて、ある入試問題の文章を紹介したいと思います。


 最近、携帯電話を使った男女交際が流行っているらしい。雑誌に自分の携帯の電話番号を載せて「交際希望」と書いておくと、誰かから電話がかかってくる。先日、テレビで、雑誌に自分の電話番号を載せた男の子に女の子から電話がかかってくる場面を映していた。まず男の子は、相手の年齢を聞き、今何をやっているかを聞く。この場合の何をやっているかは、抽象的なことではなく、今現在どんなことをしているのかということだ。

 相手の女の子は、とぎれることなくしゃべりだした。さっきどういうものを食べたとか、最近気に入っている食べ物とか、嫌いなものとか、超むかつくこととか、気持ちよく感じることとか、とにかくとめどなくしゃべっている。男の子は、「へぇー」「ふうん」と相づちをうってただ聞くだけである。そういった他愛ないおしゃべりが1時間ほど続いたとテレビのナレーションは語っていた。

 結局、この携帯を通した会話というものは独り言の掛け合いなのではないか。女の子はとにかく、自分の現在をただ叙述するのだが、その語り口のニュアンスがどうも変なのだ。変だというのは、会話の中に特に伝えたいことを強調するポイントがない。ただ自分のことをとりとめなくしゃべっているだけという印象なのである。初対面の相手に対するしゃべり方ではない、と普通なら考えるのだが、これが電話による会話というものの特徴なのかもしれない。

 ここでの関係は、とにかくはかない。危険もない。相手もよくわからない。しかし、自分の繰り言をきちんと聞いてくれる互いの関係ではある。電話による若者のコミュニケーション文化は、そういう共時的了解の関係をすでに作り上げているらしい。

 パソコン通信やインターネットを時々のぞくことがある。そこでは文字という形で様々な声が飛び交う。みんな饒舌(じょうぜつ)になったものだと読みながら感心する。私は文を書くことを教えたり、実際に書くことを職業とするものだが、どうしてもこういうところに私的な文章を載せる気になれない。それは私がどこかで、文を、自分に向かって書くものと、他者への直接的な伝達という二つの種類に分類しているからで、インターネットのようなところへ載せる文章は、そのどこにも適合しないように感じるからだ。結局、ここに載せられている文はほとんど独り言に近いと私は感じるのだ。

 独り言には、何かを伝えようというメッセージ性はない。かといって友人との楽しいおしゃべりといった相手の反応を確かめながらの言葉でもない。とにかく感じたことを文字にすればいいのであって、誰かが読んでくれればいいし、読んでくれなくてもそれはそれでかまわない、といった態度の文なのである。言い換えれば、文体というものがないのだ。文体とは、相手にこちらの伝え難い何かを伝える工夫である。その工夫は最初からない。とにかくしゃべってしまうこと、そういう感覚の文章なのだ。こういう文体のない文章は私には苦手なのだ。

 こういう文章は、携帯電話で自分のことをとりとめなくしゃべるその言葉と基本的に同じだと思われる。独り言のやりとりといっていい。

 独り言的な言葉や文の氾濫を目の当たりにして、私は正直とまどっている。というのは、まず、こういう独り言のやりとりに参加できないことに、何かの不自由である自分を感じ取るからだ。私の文には文体がある。この文体は都合よくいえば私が他者にかかわる態度であり、私自身の伝わりにくい世界を他者に伝える方法である。私の思想とでもいっていい。だが、それは私が私の固定した私の世界を他者に無理強いするものであり、多義的で流動的なこの現在の世界から私を閉じてしまっているものでもある。言い換えれば、私を不自由なものへと縛り付けているのも私の文体なのだ。時々、こういうふうにとめどなく自分のことを相手に独り言のようにおしゃべりできたらどんなにいいだろうかと思う。

 電話がこんなにもコミュニケーションの文化ではなかったころ、文体を作らずに、自分のことをすべて聞いてくれるような関係を作ることは大変なことだった。他人と他人とが突然、相手の独り言を聞いてくれるような関係を作ることはあり得ないことだった。

 だからこそ、誰もが文体を作ろうとした。小説も詩もそのような文体の一つなのだ。それらは独り言的なニュアンスを抱え込みながら他者へかかわる一つの方法だった。だが、そんな文体なしに、自分というものの存在を丸ごと聞いてくれる関係が可能なら、文体など必要はないといわれれば、確かに必要でないと答えてしまいそうになる。これは困った。文体などいらないといってしまうことは、私が私をいらないといっているようなものだからだ。

 文体がもっている伝えがたいものとは何だろう。「孤独」といういい方をすればかなり当たったいい方になるだろう。われわれの文学的な言葉が抱え込む共通の価値を一言でいえというなら、それは「孤独」である。小説や詩を評価するのに、例えば「ここには孤独が感じられる」と言えば誉めたことになる。それが何よりの証拠だ。この「孤独」をどう描くかというところに、われわれの文体の一つの自由がある。他愛ない独り言の群れにこの「孤独」が伝わるのか。携帯電話のやりとりや、インターネット上の膨大なあのおしゃべり群は実に「孤独」である。一方的な女の子のおしゃべりをただうなずいて聞いていた男の子は、女の子の独り言の「孤独」を聞いていたと私は感じた。文体という抽象力をもたないが故にその「孤独」は、より生々しく現実的である。しかも、社会的である。

 出典は、岡村隆志『言葉の重力』。もちろんナイナイの岡村さんではない(笑)そして、この出題はなんと東大の2001年度・文科・第四問です。齋藤孝さんの『「東大国語」入試問題で鍛える!読むチカラ』にも紹介されているなかなか面白いエッセイだと思います。

 読んでいてなるほどと思うところがありますね。ここでの若者の会話には意志の疎通が無く、一方通行的であるということでしょう。文体の無いおしゃべり。これを読んで僕が思うのは、最近急増しているブログです。

 と他人事のように書きながら、かく言う僕もここを含めて全部で5つのブログとボームページをさらに二つ持っていたりします。ただ、僕が普通のブログと違うと思っている点はここに書かれてある言葉を借りると、文体のあるブログという事になるのかもしれません。

 確かに僕のブログも基本的には個人のつぶやきにすぎませんが、僕は常に読み手のみなさんの存在を意識しています。読んだみなさんが、いえ、あなたがちょっと読んでよかったなとかまた読みに来ようかなと思ってもらえるような僕なりの発想を読んでもらえたらと思っています。

 あとは書くことで自分と対峙するという部分がありますね。僕は最近、過去の自分と向き合うブログを始めました。過去の日記(というより走り書きですが)を基に昔の自分は何を考えて生きていたのかを現在の視点から見つめようというものです。そこにいるのはかつての自分であり、過去の文体の僕なのですが、書き写しながら、何だか他人の文章のような違和感を覚えます。何も変わっていないと自分では思っていても、人間変わるものなんですね(笑)もうこんな文章は書けないななんて思ったりします。

 このように単なる情報のコピー&ペーストのサイトや日記とは違うのが僕のブログの特色だと思います。

 ブログのいいところは公開の場であるということです。

 本文にもありましたが、誰が読んでもいいし、読まなくてもいい。でも僕はせっかく書く限りは読んで欲しいなと思います。別に読まれなくていいのなら、僕がマックでつけている日記のように非公開でいいわけです。しかし、公開であるということが、適度な緊張感を生み、また書き込みがある事で人と人とのつながりを感じることができます。つまり僕には伝えたいポイントがあるのですね。

 ところで、活字離れという事が相変わらず若者の非難の言葉として使われますが、どちらかと言うと今の子どもの方が活字に触れている(触れすぎている)と思います。毎日のメールの量はかつての僕らが電話する比ではありません。

 もちろん通話料よりメールの通信料金の方が安いという事もありますし、メールはたとえ相手がその場で読まなくてもいいという気軽さがあるので比較の対象としては適切ではないかもしれませんが、それ以外にも漫画の活字量や読解力はかつてない程ヒートアップしています(詳しくは僕の他のサイトに譲ります)。僕は平均からするとかなりの活字マニアだと自他共に認めていますから、対象外ですが(とあえて年齢を無視する)、今の中年層の方がかえって易しいものを好む傾向にあるのではないかとさえ思います。

 但し、情報の垂れ流しが活字の洪水を生み出していることは否めません。よく言われることですが、情報を取捨選択する能力がますます必要とされる時代である事は間違いないでしょう。そして、僕も文体の無いブログが苦手です。電車男に代表とされるような2ちゃんねる形式のスレッドも苦手です。そして、そういうものが好きな人は僕のブログがまた苦手であると思います。

 あなたはどう思われますか?

 

「東大国語」入試問題で鍛える! 齋藤孝の 読むチカラ

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