<人間のお時間>天才と秀才の違いって?

 「問題を解くことがその人間の能力ではない。人間の本当の能力とは、問題を作ること。何が問題なのかを発見することだ。したがって、試験で問題を出すという行為は、解答者を試すものではない。試験で問われているのは、問題提出者の方である。どれだけの人間が、そのことに気づいているだろう。」

 これは僕の好きなミステリ作家の森 博嗣さんがお書きになった『冷たい密室と博士たち』の中で作中の人物がつぶやくコトバです。

 この時間では、いろんな人物のコトバに注目して、みなさんと考えていきたいと思います。つまり、試されているのは僕の方なのです。

 さて第一回目の今日は、ユーミンこと松任谷由実さんのコトバです。

 「天才と秀才って、全然違うのよね。秀才って、インプットするだけなのよ。いろんなものを自分の中にどんどんインプットしていくわけよ。でも、それが新しいものとして出てくるってことはあんまりないのよね。だけど天才っていうのは、ちゃんとアウトプットの回路を持っているんだな。新しいものがバンバン出てくるわけよ。」−『ルージュの伝言』(角川文庫)

 ここで僕が思ったのは、類義語の境界線はどこかということです。

 普段何気なく使っている言葉もよく考えてみると微妙にニュアンスが違っていたりします。

 この天才と秀才もそうですね。

 ユーミンのことを知らない人はいないと思います。彼女は紛れもなく天才でしょう。数々の名曲が彼女一人の手で生み出されているなんて信じられないくらいです。

 僕は秀才についてはとくに関心は無いのですが、天才については関心があります。

 最近の僕が思うのは、天才とは努力をいとわない人を指すのではないかなということです。

 但し、人から見れば努力と見えることであっても本人にとってはそれが楽しくてたまらない。つまり、苦にならないので継続して行うことができ、結果としてすごい力を発揮することができる。

 それが集中力であり、さらに天才にはアレンジ力があるということになるのでしょう。それをひらめきと呼ぶのかもしれません。

 インプットとはアウトプットという対概念があって初めて成立するコトバではないでしょうか?

 みなさんの身近にもこんなコトバありませんか?

 

ルージュの伝言 (角川文庫 (5754))

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すべてがFになる (講談社文庫)

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すべてがFになる (バーズコミックススペシャル)

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