<小説のお時間>伊藤くんのひとりごと


 さて、すっかり置いてけぼりをくらった伊藤くんがすねるといけないので、話を先に進める事にしよう。
 伊藤くんも結構変わっているのだが、それは多分に両親の影響でもある。
 伊藤くんの両親は、世間から見ればごく一般的な部類に入る。お父さんは普通の会社員で、お母さんは専業主婦である。
 では、どこが変わっているか?
 実は二人とも発明に凝っているのである。
 二人は常にアイデアとか発想という物に興味津々で、伊藤くんもその影響で好奇心旺盛なのである。
 たとえば家に帰って、最初に発する言葉は「ただいま」ではなく、「おはよう」であったりする。
 すると、たとえば母親も「おはよう」と反応する。
 しかし、別のある時は全く別の言葉であったりして、こちらもそれにすばやく反応しなければならないのである。
 それも全て頭に刺激を与え、常に発想法の助けとする為であった。(どんな家族だ!)
 また、父親がある本でアイデアマラソンなるものを知ってからは、毎日最低一つはアイデアを出さないとご飯さえ与えてもらえなかった。(ペットか!)
 アイデアに貪欲と言えば聞こえもいいが、要するに変なところで厳しい両親なのである。
 利き腕もどちらか一方より、両方使えた方が右脳にも左脳にもいいということで、両手が使えるように箸の持ち方や鉛筆の持ち方さえ矯正された。
 そのおかげかどうかはともかく、伊藤くんも今では新しい思考訓練に関心を持つようになった。
 だから、彼の好奇心は筋金入りなのである。
 この点こそ彼が他人と違っている個性というべきものだろう。
 さて、世の中には不思議な事が満ちあふれている。伊藤くんのような若者にとっては満ち満ちているといってもいいだろう。
 
 先日も不思議な事があった。
 ある大型の家電販売店のレジで並んでいると、前の人がいわゆるポイントカードというものを店員に差し出した。
 そこまではよく見るやりとりなんだけれども、その後が少し違った。
 店員が受け取ったカードをレジに通すと、少し怪訝な顔つきをしたのだ。そして、恐縮した口調で、
「お客様、申し訳ございませんが、こちらのカードは現在紛失届けが出ておりますのでお使いになれません。よろしければ、新しいカードをお作り致しますが…」
 と、丁重に応対したのだ。
 そう言われた中年の男性は、大して動じる事も無く、じゃあ新しいカードをと、その場で入会手続きをしたのである。
 紛失届けが出ているとは、もちろんカードの所持者からであるはずだから、それはつまり今ここにいる本人の事であるはずである。
 たとえば、カードのポイントを借りるつもりで友人から借りたとすれば、紛失届けが出るはずは無い。
 では無断借用したのだろうか?
 もしくは拾ったのか。
 しかし、どのような理由であれ、他人の所有物をそのままレジで差し出す勇気はなかなか湧かないものだ。
 ましてや、でたらめな情報かもしれないがその後で入会手続きをすれば、平静を装っている店員が、紛失届けを出している当人へ個人情報を伝える可能性もあるのだ。
 だから、不思議なのである。
 真相はXファイル並みに闇の中なのであるが、店員のとっさの対応に舌を巻くと共に、後日談が気になる伊藤くんなのであった。
 案外、ケンカ中の弟のカードなどと言うつまらないオチが妥当なところなのかもしれないが。
 
 不思議と言えば、書店におけるブックカバーのかけ方も不思議である。表と背表紙の両方がカバーの口に入っていないのは単なるカバーを本に挟んでいるだけだから、まだ分かるとして片方だけかけてもう片方の口だけそのままにしているのがよく分からない。
 そして、大抵の書店でそのような中途半端なかけ方をしているのがより不可思議さを醸し出す。
 中には変わった人もいて、カバーに折り目をつくのが嫌だとレジで声高に主張する客を見かけた事もある。
 そのような人はおそらく角張った漢字も丸みを帯びて書くのだろうか?
 しかし、筆跡鑑定によれば角を丸く書く人はあまり他人と衝突を好まない性格らしいのだが。
 文字には性格が表れるなと思う伊藤くんは、分類幅の少ない血液型分析よりはよっぽど信頼するのであるが、やはり分類にあてはまらないのが人間の複雑な点であり、また面白味でもあるのだろうと思う事にしている。
 手提げ袋を持参する人が、レジで「袋は入りませんから」と少しきつめの口調で言うのを見ると、地球に優しい人が必ずしも人に優しいとは限らないなぁなどと思ってしまう伊藤くんである。
 その人もまた角張った文字を書いたりするのであろうか。
 不思議だ。
 実に世の中は不思議だ。
 
 町で見かける土下座したホームレスの前には、蓋の開いた缶詰めが置かれている。
 中には小銭が少し入っているだけだ。
 老境にさしかかった風貌のこの人に何があったのかは分からない。
 若くして借金にまみれ、人生を踏み外したのかもしれない。
 家族も身寄りも無く、ただ頭を下げて物乞いをする姿が寒空の下でさらに哀愁を感じさせる。
 大して喉も渇いていないのに、何となく口さみしくてジュースを買おうと自販機に投入する小銭が、この人にとっては一日の唯一のごちそうになり変わるかもしれない。
 おそらくこの浮浪者には、生きる望みも働こうとする希望ももう無いだろう。
 仮にあったとしても、社会のレールから外れた老齢者に満足な働き場などそうそう見つかるわけも無い。
 その一方で、指先一つで何億ものお金を動かす人もいる。
 全く不思議な世の中である。
 極端な話だが、自分の時間が持てないくらい忙しい金持ちの都会人と、その日暮らしではあるが、自分の好きな事をしながら過ごす田舎の人と果たしてどちらが幸せか。
 世の中は万人に平等ではない。
 あくせく汗を流して働く事が美徳に思えても、他人にお金を貸す事であっという間に利潤を生み出す人間の方が楽である事は明らかだ。
 つまり、一日の労働量と得られる利益は千差万別である。
 伊藤くんも学生なので、当然搾取される側である。彼がどれだけ頑張っても、特別な才能や運が無い限り、体を酷使する事でしか人並み以上に稼ぐ事はできないのだ。
 きっと世の中にはこの先、どんなに頑張ってもどうにもならない事がたくさん待ち受けているに違いない。
 だから、伊藤くんは毎日楽しく過ごしたいなと思うのだ。
 楽しい事を毎日していれば、生きる事も楽しくなるし、たとえ苦しい労働であったとしても頑張れるのではないかと考えているのである。
 生きるためには働く事は不可欠かもしれないが、もしも莫大な財産が急に入ってきたらどうだろう?
 豪遊三昧の末、残るものは何か?
 生き甲斐が無ければ、お金があってもきっとつまらないのではないだろうか?
 老後になってから人生を楽しむという人が、果たしてそう簡単に楽しめるものだろうか?
 寿命も平等ではないのだ。
 伊藤くんにとって楽しく過ごすというのは、自分の好きな事をとことん究めるという事である。
 自分の好きな事を毎日たとえほんの一瞬でもできたら、生活にも張りが出て、毎日が楽しくて仕方無いだろう。
 もっともっと生きたくなって、人生は充実する事だろう。
 もしも、明日この世からいなくなったとしても、きっとその人は楽しかったのではないだろうか。
 結局のところ、人生の価値は人それぞれなのだろうと思う。
 伊藤くんの人生における価値は毎日楽しく生きるという事に尽きる。         
 だから彼は好奇心旺盛なのである。

 ところで伊藤くんにはちょっと変わった癖がある。
 物が多すぎるのだ。
 その原因ははっきりしている。
 彼は何でも買い溜めしないと気が済まないのだ。
 たとえば、ボールペンが一本だけ必要だとしてもどうせいつかは必要になるからと何本もまとめ買いしてしまうのである。
 ボールペンくらいなら確かに大した事は無いが、これがあらゆる物に対してそうなのだ。
 だから旅行なんてしようものなら、ちょっとした民族大移動状態なのである。
 お前は一体何人分の荷物を持っているんだ、などとつっこまれたりするのである。
 将来、デパートの販売員にでもなれば確実に在庫を増やす伝説的な存在になりうるだろう。
 もっともそうなった場合は、真っ先に会社のお荷物在庫となった彼がリストラされるだろうが。
 
 そういうわけで、彼は普段から荷物が多い。各種の常備薬や小型のひげ剃り、暇つぶしの携帯ゲーム機、文庫本(しかも二冊)、電子辞書、iPOD等々、常に鞄は一杯だ。まるで小学生の多機能型筆箱のように大して使わない物ばかりだ。横のボタンを押すと虫メガネが出たり、上のボタンを押すと定規が飛び出すアレだ。
 最近凝っているのは斎藤孝さんの三色ボールペン活用術だ。斎藤孝さんと言うとじゅげむブームや声に出して読みたい日本語で一躍有名になった大学教授である。
 文章を読みながら、まあ大事というところには青を、客観的に見てすごく大事と思ったところには赤を、自分が面白いと思ったところには緑を引く。このように主観・客観的な読み方を色分けすると文章の理解度が高まり、後から読み返した時に視覚化され論旨がつかみ易くなるらしい。
 伊藤くんも早速、試しに大学のテキストに傍線を引きながら読んでみると、今まで漠然と読んでいた難解な文章も随分早く理解できるようになった。斎藤さんに言わせれば、三色をカチッカチッと使い分ける事が頭の中のスイッチを切り替える事にもなるらしい。
 伊藤くん感心する事しきりである。
 さすが、偉い学者さんである。
 へへぇ。
 平身低頭である。
 水戸黄門登場の時間である。
 これに味をしめた伊藤くんは四色ボールペンで更に細かく読み方を分析し始めた。
 それから少しずつ色を増やし、現在は六本の四色ボールペンで実に二十四色もの色を引きながら読んでいる。
 こうなると全く何が大事で何がそうでないか分からなくなってくる。
 まるで、ぬりえを覚え立ての幼児である。
 わざわざ市販の四色ボールペンの芯を入れ替えて色数を増やす念の入りようであるが、伊藤くんどこか人とずれているのである。
 引く事に夢中になるあまり、全然文章を読んでいないのである。
 目的と手段が逆転している。本末転倒、抱腹絶倒である。
 木を見て森を見ず、林に迷い込むような性格である。
 かくして、毎日何か面白い事は無いかと模索し続ける伊藤くんであった。