<国語のお時間>〜ちょっとマジメに現代文読解講座

 では、早速引用文から。

 変形によって芸術のすべてが説明できる、とは言えなくても、芸術創造が先行するものの変形を重要な要素として含むことは疑いがない。このことから、いくつかのことが帰結する。
 芸術の創造が先行するものから出発してそれを変形するのであれば、芸術のスタイルが変化するのは必然的である。この点で芸術は科学と異なっている。
 科学の場合でも変化というものはあるし、その変化は、客観的真理への接近といったものではなく、クーン(注1)のいうパラダイム・チェンジといった性格をもつものかもしれない。しかし、科学の場合は変化する必然性はないように思われる。もし科学がその目標に到達して、すべてをきれいに説明できるような日がくれば、そこからさらに変化していかなければならないという理由はない。科学の場合、変化は、まだ目標に達していないことのしるしである。しかし芸術の場合、変化は未完成のしるしではないし、いつの日にか変化しないような状態に到達するわけでもない。
 もしバッハが偉大で(たしかに偉大である)、完璧な曲を作った(実際、完璧と思わずにはいられない。訂正の余地がないように思えるのだから)のだとすれば、人類はそれ以降の作曲家を必要とせず、バッハも完璧な曲を作った後は作曲をやめたとしてもよさそうなものである。しかし実際には、どの芸術家も作品を作れるかぎり作り続けるのであり、芸術家はつぎからつぎに登場するのである。これは芸術全般にみられる基本的事実である。どんなに「完璧な作品」を作っても、それで終わりということにはならないのである。
 芸術のたどる変化は、服装などの流行の変化に似ているところがある。服装の流行の変遷も、終焉をむかえることはないだろう。しかし服装の場合は、同じ個人が年月を経たあげくに以前の好みに帰るということがありうるが、芸術の場合は不可逆的であるように思われる。服装の流行は循環しうるが、芸術の場合は過去とまったく同じスタイルが復活することはないように思われるのである。
 伝統や歴史の中で先行のものを基盤としてはじめて芸術が成立するのだとすれば、「すぐれた芸術作品は時代を越えて万人の胸を打つものだ」という考えは誤解をはらんでいると言えるだろう。
 アリストテレスは、詩人の方が歴史家よりもすぐれていると考えた。それは、歴史家が現実的事実にかかわるのに対し、詩人は可能性にかかわるからである。このことでアリストテレスが意味しているのは、歴史家は現実の個別的事物にあてはまることしか語らないが、詩人(叙事詩、悲劇、喜劇などの作者)は人間一般など、普遍的に成り立つことを語る、ということである。これは重要な指摘であるとわたしは思う。しかしそれを拡張して、すぐれた芸術は時代と場所を越えて万人の胸を打つ、とまで言うのは飛躍である。作品に感動するためには、伝統のなかに身をおいて、先行するものを十分に理解していなくてはならない。先行のものから離れては制作も鑑賞もできないのである。
「芸術は人間の純粋な感性に訴える」という考え方も誤解を招くものである。芸術が知性だけで十分だ、と言えないことは明らかであるが、かといって感性さえあればよい、というものでもない。制作にも鑑賞にも、何が先行するもので、どのように変形されているかということに対する理解の果たす役割は大きい。この理解は、感動することとは違うし、制作することとも違うが、感動にも制作にも不可欠のものである。理解ということでわたしが意味しているのは、制作の背景とか動機(芸術家の生い立ちとか社会情勢など)についての知識ではなく、基本的には、変形の理解をはじめ、専門家の条件の多くを含む複合的なもののことである。
 たとえばジャズで、決められた和音進行に沿って即興演奏するのを聴いていて、いま曲のどの箇所を演奏しているか、何をどう変形しているか、その時の和音は何か、何拍子で何小節単位の曲かなどを指摘できなければならないだろう(さらに、使われている音の階名が言えれば申し分ない)。さらには、緊張して演奏している箇所とリラックスしている箇所、ソロとリズム・セクション(注2)の間がうまくいっているときとそうでないときなどを識別したり、演奏のなかにミスがあればそれを指摘できなければならない。あるいは、ポリフォニーの音楽を聴いていて、何本ものメロディーが独立に聞こえなければ理解しているとは言えない。さらに、曲のどの部分が決まり文句で、何が奇抜な部分か、どんな効果をねらっているか、などを指摘できることが理解の基準とされることもある。普通、これらの理解に達するには、教育や訓練が必要である。専門家と素人の区別は主として理解力の違いである。
 これらはもちろん、テストして合否を決めるような問題ではないし、直接、感動に結びつくわけではない。だが、これらの水準に達していないと、作品を味わいつくすことはできない、と言いたくなるところがある。これで思いだすのは次のような実話である。
 アメリカのある一家が子供の教育のためにグランド・キャニオン(注4)に自動車旅行をした。父親は道すがら、グランド・キャニオンができるまでにどれだけ長い年月がかかったか、この自然の驚異を一目見ようと人々がヨーロッパからはるばるやってくることなどを、こんこんと子供に語って聴かせた。ついにグランド・キャニオンに着いた一家は縁に立って、畏敬と驚異の念をもってながめ、写真をとった。その夜、父親は教育の成果を確認するため、子供がつけている日記をこっそり見た。日記には一行書いてあるだけだった。「今日ぼくは、つばを1マイル先まで飛ばした。」
 同じものを見て同じように歓声をあげても、十分に味わっていないことがありうる。十分に味わっているかどうかを決める基準は、鑑賞しているときのふるまい(どこでどんな反応を示したかなど)のほかに、どの程度理解しているかということも含まれているのである。もちろん、ここでいう「理解」をもっていなくても芸術を楽しんでいる人が数多くいるという事実を否定するつもりは毛頭ない。ただ、そのような人の楽しみ方は、作者をはじめ専門家の楽しみ方とは異なったものであるとわたしは言いたい。ちょうど、野球ファンにも、なぜこの場面でこの選手がこう動くのかといったことを選手と同じくらいよく理解して楽しむ人もいれば、そんな理解なしにただ勝敗だけを楽しみにする人もいるのと同じである。
 芸術は知性しかもたないものには無用の長物である。しかし「知性しかもたない」ということの意味を具体的に考えてみれば、そこには芸術を解さないということがすでに含まれていることがわかるだろう。かといって、芸術は先天的な純粋の感性に訴えるわけでもない。もし先天的感性だけで足りるなら、芸術には教育は必要ないことになるが、ここで示したように、芸術には教育や理解の要素が不可欠である。芸術を解するロボットの備えるべき条件は、感性というよりは、この種の理解である。しかしそれを実現するのは難しい。感嘆のふるまいを随所にみせるだけでなく、歴史性、社会性を備え、変形の能力と理解力をもたなくてはならないのだから。

(注)
 1.クーンのいうパラダイム・チェンジーアメリカの科学哲学者トーマス・クーン(1922〜1996)が提示した概念で、科学者たちが共通して用いている思考パターン自体が転換すること。
 2.リズム・セクションーポピュラー音楽で、リズムの進行を受け持つ楽器の部門。
 3.ポリフォニーー複数の独立したメロディーを組み合わせた作曲形式。
 4.グランド・キャニオンアメリカ合衆国西部の大峡谷。
 5.1マイルー約1600メートル。

 →さて、今この僕の文章を読んでいる人は大きく分けて二つのパターンに分かれると思う。一つはここまでを真面目に(中には印刷までして)読んでくれている人と、引用文を飛ばしてここから読み始めた人である。

 そして、僕はそういうあなたのためにこれから文章を書こうと思う。少なくとも僕の意見を読もうと思ってくれているあなたがいると思うだけで、ここまで手打ち入力してきた努力は報われた(笑)

 さてさて、この一見難解そうな文章をなぜ選んだかには理由がある。引用元は2000年度のセンター追試験第一問である。もちろん、どんなに難解そうな文章も論理的に読めば意外に読めるものだという事を紹介したくて引用したのはもちろんなんだけど、実はそれよりもこの文章の作者に引きつけられたからというのが一番の理由なのだ。

 なんとこの文章の書き手は土屋賢二さんなのである。賢明な読者、もしくはファンの方ならすでにご存じだと思いますが、あの屁理屈エッセイ(勝手に命名)で有名な土屋教授の文章なんですね〜。土屋先生ってこんな高尚な文章も書けたんだ(笑)

 てゆーか、本来こちらの方が本職なのですね。いつものユーモラスさは、かなり影をひそめていますが、たとえば( )内のつぶやきとか、グランド・キャニオンの話を引き合いに出したところに土屋先生らしさが伺えます。

 さぁ、これでファンの方はもう一度読み返してみたくなったはずです。

 では、僕と一緒に読んでいきましょう(今日はかなり受験長文モードですのでお覚悟を)。

 さて、その前に国語の補講のお時間で紹介した出口先生から学んだ大切なことをいくつか紹介しましょう。

 この文章を読んで全く頭に入らなくてイライラした人(あっ、もちろん僕の文章のことではありませんよね?)、なんでこんなに現代文の問題文って分からないんだ!という人に少しお話しします。

 というのもかつての僕がまさにそうだったからです。だから、その気持ちはよく分かります。今でも僕は全問正解するほど文章を読めるわけではありません。但し、解説を読んで思考のプロセスを訂正し、納得することはできます。

 数学の問題でもそうだと思いますが、大切なのは答えが合っているか間違っているかという照合にあるのではありません。大切なのはその答えに至った思考の過程が合っているかどうかです。そういう訓練を積むことによって、どんな問題にも対応できる力を僕は実力と呼んでいます。今の場合で言えば論理力です。

 例えば、たまたまよく知っている作家の文章が問題になっていたからといって実力の無い人が問題を解けることはありません。

 これが英語の問題であれば、和訳で得をすることはあるかもしれませんが、こと現代文に限って言えば(類似問題であれば別としても)論理力があるか無いか、それがすべてです。

 それはなぜでしょうか?

 答えは簡単です。現代文の問題は思想を問うのではなく、思考力そのものを問うものだからです。ここではいわゆる学校教育における国語と受験における国語を分けて考えなければいけないと思います。

 いわゆる国語という教科は、感性を重視した科目であると僕は思います。作文や読書感想というのはその最たる例でしょう。そして、これが一番受験の国語と異なる点ですが、そこに答えは無いのです。

 つまり、感動的な本を読んで笑ってもいいのです。それは個人の感性です。そして、必ずしも先生が生徒よりも優れているわけでもないし、場合によっては大人顔負けの名文を書く子供だっているのです。

 しかし、答えの無い問題で不特定多数の受験生をふるいにかけることはできません。(もっとも僕は答えの無い問題ほど奥深いものは無いと思っていますが)つまり、絶対解を用意しなければ受験問題を作ることはできないのです。

 そして、現代文という科目における絶対解というのは論理力の有無なのです。そこに求められるのは出題者の意図に添える論理の道筋を追う力なのです。

 だから、問題が不正解だとしても落ち込むことはありません。それは出題者の意図する論理の道筋が見えなかっただけで、あなた個人の人格を否定したものではないからです。思考の結果に採点はつけられても、思想に点数をつけることはできないのです。

 読書好きなのに、現代文を感覚の教科だと思っていた僕はこのことを出口先生に指摘されるまでは、まるで深い深い海の底に沈んだような気持ちになったものでした。何回、テスト会場から抜け出したいと思ったことでしょう。本は好きなのに、目の前の文章が読めない(頭に入ってこない)苦しさは、おあずけをくらった犬よりもつらい体験でした(何だそりゃ)。

 さらに驚いたのが相対的という言葉との出会いでした。よく出題に「最も適当なものを一つ選べ」というのがありますが、あの意味が僕は分かっていませんでした。

 つまり、それまでの僕は絶対的な正解が常に一つしかないと思っていたのです。

 もちろん、問題に「一つ選べ」とある以上、正解は一つです。しかし実際は、相対的に選ばなければいけないことの方が多いのです。一つの選択肢には、部分的に正しい箇所とそうでない箇所があります。難しい問題というのは選択肢が5つあるとすれば、大抵2つまでは絞れるものです。つまりそれ以外は、問題文に全く書いていないことがさもそれらしく書かれているだけです。

 しかし、残りの2つはどちらも正しいのです!

 初めてそれを知った時は、そんなバカなと思いました。例えば数学の答えは一つですよね?(あまり理屈はこねないで下さい)

 しかし、現代文は言葉という曖昧性ゆえに正しくもあり、正しくもない選択肢が存在するのです。

 さて、その場合どうするか?

 そこで相対的判断という考え方を僕は学んだのです。つまり、キズのより少ない選択肢を正解とするのです。「最も適当な」とはそういう意味だと教わったのです。

 このことを知っただけで僕の現代文の点数は飛躍的にアップし、安定するようになりました。少し抽象的でしたが、現代文が苦手な方がいらっしゃったら、出口先生の本やその他の著名な先生方の参考書を、少し客観的な解き方を意識して読めば、突然成績が変わるかもしれません。あなたができなかった理由は意識の差なのです。

 さて、そういったことを意識して文章を読んでいきたいと思います。もちろん、どのように読むか、そしてそれを読んでどう感じたかは個人の自由です。

 しかし、文章を書くということは誰かに自分の考えを分かってもらいたくて書くわけです。それは僕の文章だって同じです。

 では文章を書いて他人に何かを伝えたいとした場合に必要なことはなんでしょうか?

 それはいかに読み手を納得させるかにあると僕は思います。

 そして、その説得力こそ論理力が無ければ生まれないと思うのです。もちろん、他人のつぶやきに同情や共感を覚えることもあるとは思います。しかし、ある程度の長さの意見となるとそこに論理の道筋が無ければ断片的にしか理解できません。

 ここまで僕の文章を読んだあなたなら、僕が論理を駆使して書いていることに納得して頂けると思います、たぶん(笑)

 さて、本文にはいくつかの具体例が出てきます。バッハとかアリストテレスとかジャズとかグランド・キャニオンとか。

 これはなぜだと思いますか?

 具体例というくらいですから、つまり分かりやすく具体的に説明することで読み手の意識を喚起しているのです。

 出口先生は仮に筆者の言いたいことをAと記号化すると、あとはA’やA’’といった繰り返しに過ぎないとおっしゃっています。あるいは反対の意見をB(出口先生は別の記号を使われていますが)と置くことでAをより際だたせるだけで、言いたいことは一つだと言います。特に入試問題のような短い文章の中ではこのことははぼあてはまります(もちろんちょうど論理展開がまたがる部分の抜粋などもあります)。

 だから、文章を読む時は今読んでいる箇所が本筋なのか、脇道なのかを意識して読めば、どんなに長い文章も、そしてどんなに難解そうな文章も頭の中に一つの大きな道ができて、必ず理解できます。

 まるで、しおりをはさんだり、マーカーを引くような感じですね。具体例を筆者の主張に重ねるようにして読めば、実は論理の道筋は意外にシンプルなのです。そして、シンプルだからこそ誰にでも分かるような文章が書けるし、読み手もその文章を評価できるのです。数学の公式が世界共通なのはルールだからです。公の場に出る文章にもルールがあります。

 それが論理というものですね。

 さてさて、今日は随分と前置きが長くなってしまいました。ではその目で本文の論理の足跡をざっと追ってみましょう。

 まず、最初に芸術と科学の話が出てきます。

 なんで分野の違う二つの話題が出てきたのでしょう?

 対比ですね。

 どちらかの特徴を際だたせるために片棒をかつぎだしたのです。「しかし」という接続詞がポイントです。

 「科学の場合は変化する必然性はない」とあるので、その反対である芸術は「変化の必然性がある」ということになります。こういったメモ書きを余白にすることで文章の理解は早くなります。

 この「しかし」という逆接の接続詞は論理を重んじる英語にも通用するすごいキーワードです。なぜかと言えば、AしかしBというのはどちらか片方が分かれば、もう片方は裏返せば推測できるからです。読めない単語や文の意味もこれで助かることがあります。ちなみにこれは古文の荻野先生から教わりました。

 少し余談になりますが、僕はかつて荻野先生の門下生でした。僕は古文が好きな珍しい生徒でした(今でも当時から好きな徒然草を愛読しています)ので、幸いにもハイレベルな授業を受ける事ができました。あの種の知的興奮は、大学でも味わえなかったので今となっては貴重です。もちろん受験勉強は答えを追求するものであるのに対し、大学での勉強は学問を追究するものですから全く趣きが異なるわけですが…。

 受験界ではマドンナ古文などと少しタレント的な扱いを受けている印象がありますが、実際にお話したり、講義を受けると非常に論理的で頭の回転の速い女性でした。僕が初めて見たプロの方でしたね。未だにあれ程プロを感じた事はありません。
 
 特に当時の先生は今の僕とそう変わらない年齢だと考えると余計にそう思います。どんな問題にも応用の利く解法を通して学んだ論理的な思考回路は出口先生と共に僕の一生の財産と言えるでしょう。以上、余談でした。

 さて、「科学の場合、変化は、まだ目標に達していないことのしるしである」しかし、「芸術の場合、変化は未完成のしるしではないし、いつの日にか変化しないような状態に到達するわけでもない。」という箇所に僕は線を引きました。(もちろん三色ボールペンで)

 でも、ここが大事だと思えなければ線を引く必要はありません。

 よく線を引けという先生がいますね。

 英語でも語句のかたまりに/(スラッシュ)を入れさせる人がいます。それは補助輪としてはいいかもしれません。あるいは訓練の初期段階であればいいでしょう。

 しかし、その線を引いたのは誰ですか?

 あなた?

 物理的にはそうです。でも、実際は先生の命令で引いたにすぎません。試験会場の隣席に先生はいますか?いたとしてもそれは監視するためであり、もし代わりに線を引いてくれたら、それはカンニングです。つまり、本当の実力ではありません。

 大切なのはあなたがあなた自身の考えで大切だと思う所に線を引き、論理を追いかけることです。

 英語を読める人には意味のかたまりをなす語句が見えます。しかし、読めない人にはアリの行列のようにしか見えません。実際、僕もどれだけ苦労したことでしょう。もちろん今でもまだまだ大して語学力は無いのですが、主語や目的語なんて全く意識しなかったあの頃を思い出すと、自分の頭で考え、納得することがいかに理解につながるかよ〜く分かります。

 だから、大事だなと納得できたら、僕と同じところに線を引きましょう。逆に僕が見落としているところだってあるでしょうから、論理さえ追えればそれでいいのです。

 では本文に戻りまして、バッハが出て来ました。

 なぜ?

 そうです。具体例です。芸術に未完成は無い。しかも変化のしないような状態に達するわけでもない、の具体例にバッハを持ってくることによって、読み手を引きつけようとしているのです。

 だからバッハは完璧な曲を作っても(未完成ではありませんね)、作曲を続けるし、その後にも音楽家は生まれる(つまり変化のしないような状態に達しない)、変化するのですね。

 次に服装の話が出てきますが、これも対比です。
 
 芸術の説明に対する肉付けですね。

 芸術と服装の流行は似ているけれども、服装の流行は循環するが(確かに何年かに一度、昔のファッションがはやりますね)、芸術はまったく同じスタイルが復活することはないのです。つまり変化しているのです。不可逆的というのは逆戻りできないことですが、読めなくても気にしない。どうせ筆者は同じことを繰り返すだけです。

 これは英語でも同じです。よく英語は単語だと言われますが、大意さえ把握できれば、英単語が1つや2つ読めなくても分かるのに似ています。但し、文脈をつかむだけの単語力が無ければ類推もできませんので、その意味では英語は単語力というのもうなずけますが。

 さて、また話がずれましたが、今度はアリストテレスの話が出てきます。

 芸術の意味をより鮮明にするためだと思いながら読めば混乱はありません。文章が読めないのは、考えすぎるからなのです。真実は一つというコナンの言葉を信じて、一つのウインドウだけ頭に開いていれば論理が見えてきます。

 今、ウインドウがいっぱい開いている人はクリックしてマルチタスク状態から脱しましょうね。

 アリストテレスは何で出てきたのでしょう?

 あっ、もういいですか。

 そう、これも分かりやすくするために土屋先生が持ってきたのです。

 「すぐれた芸術作品は時代を越えて万人の胸を打つものだ」というのは誤解だと言いたくて引き合いに出しただけです。

 ここでアリストテレスや詩人のことに目を奪われそうですが、我慢です。これは歴史家と詩人の違いについて述べ、その拡張論から芸術は時代を越えて万人の胸を打つというのは誤解だと繰り返しただけです。重ねて読めば論旨はむしろ明快です。

 重要なのは、その後の文でしょう。「作品に感動するためには、伝統のなかに身をおいて、先行するものを十分理解していかなくてはならない。先行のものから離れては制作もできないのである。」

 そして、土屋先生の言うところのもう一つの誤解が出てきます。

 「芸術は人間の純粋な感性に訴える」というのも誤解だというのです。

 えっ?感性に訴えるんじゃないの?と思った人もいると思います。先ほどの万人の胸を打つくだりでも驚いた人はいるでしょう。

 ここでもう一度、文章を書く意義について考えたいと思います。先ほど、僕はみんなに分かってもらいたくて文章を書くと言いました。土屋先生だって同じです。だからこそ、こんなに具体例を用いているのです。

 しかし、人に文章を読んでもらおうと思えば、それだけではつかみが足りません。インパクトがいるわけです。

 注目される意見というのは、つまり人とは違う意見です。もう少し言えば、一般論を否定することで生まれる突飛な意見と言えるかもしれません。

 だから、「えっ?」と驚かせる意見で無ければ、誰も読んでくれないのです。僕もこのブログを書きながら、少しでも読んでいる人が面白いなと思ってくれればいいなと思いながら書いています。驚かせようとまでは思いませんが、目を引く内容を意識しています。読んでもらえなければ書き甲斐が無いですからね(笑)

 そして少し変わった意見にうなずいてもらおうと思えば、具体例を用いて身近な話から引きつけるしかないのです。

 セレブの会話より吉野屋や松屋の話の方が分かりますよね(笑)

 芸術が感性に訴えるというのは誤解だと言うことですが、では土屋流の芸術作品の理解とは何かと言えば、「制作の背景とか動機についての知識ではなく、基本的には、変形の理解をはじめ、専門家の条件の多くを含む複合的なもののことである。」僕なら、ここに線を引きます。

 こうして線を引くことでQ&Aをすっきりさせれば、後から文章を読み返しても分かりやすいわけです。

 今度の具体例はジャズです。これは今、僕が線を引いた箇所の意味を分かりやすくするために引き合いに出されたはずですね。グランド・キャニオンの話だって同じです。

 せっかく子供にグランド・キャニオンの偉大さを伝えても、つばの話しかしないわけです。

 つまり、芸術を理解するには先ほど線を引いた部分が必要ではないかというわけです。

 さらに土屋先生はこうも言います。「もちろん、ここでいう「理解」を持っていなくても芸術を楽しんでいる人が数多くいるという事実を否定するつもりは毛頭ない。」と、ただ、そのような楽しみ方は専門家の楽しみ方とは異なるとおっしゃっています。

 この専門家の楽しみというのはつまり「理解」を持って楽しむということですね。今言ったことを異なるを軸に裏返しただけですよ(笑)

 野球ファンの話も具体例。

 理解して楽しむ(専門家の楽しみで見る)人と理解なしに楽しむ人がいるわけです。重ねれば簡単でしょ?

 最後のロボットだって同じです。

 芸術を理解するには何が必要かを分かりやすくするために引き合いに出したのです。多少、分かりにくいのは抜粋だからだと思います。

 まるで現代文の講義録になってしまいましたが、文章を客観的に読むという訓練は単に受験だけに通じるテクニックではなく、文章を読み書きする全ての人に一生の財産として残る思考訓練でもあるわけです。

 今日初めて、その大切さを実感された方がいたとしたら、僕は嬉しいです。そして、これからは新聞や雑誌を読んでいる際にも少しその事を意識して読んでみれば書き手のメッセージを明確にしかも簡単につかめると思います。

 では今日はこの辺で。ふぅ〜。
 
 

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