<英語のお時間>〜翻訳って面白い?!

 前回の英語の時間が少し短かったので、いつもより周期が短い。さて。

 問題:He chuckled.「彼はくすくす笑った」の彼がもしも50すぎのおじさんだとすれば、あなたはどう訳しますか?ー翻訳家ノート・宮脇孝雄より

 考えるヒント:主語が変われば動詞も変わる?年齢に応じた表現を考えてみよう。


 僕なりの解説:宮脇さんは一時期僕が購読していたジャパンタイムズの週刊新聞で連載されている翻訳家の方である。この方の翻訳のこぼれ話が好きで僕はスクラップをしていた。

 今でも時々、そのノートを読み返すのだけど、翻訳というのはつくづく面白い作業だと思う。人の思考は言語に縛られる。大半の日本人は通常日本語しか持たない。母国語と聞いて一つしか思い浮かばないのが我々だ。

 しかし、言語の幅が広がれば思考の幅も広がる。その意味で多くの言葉を知る事は頭の中のもやもやを明確にする手段である。もちろん絵が描ける人ならそれをキャンバスに描き出せばいい。数式が得意な人はそれを数字に置き換えれば良いと思う。

 ところで、翻訳をするという事は慣れない言語を身近な言葉で置き換える作業であると思う。日本語は自称語の数が多い。「私」「僕」「自分」「俺」「わし」等、実に様々だ。また数の概念も曖昧である事は英語と比べれば明らかである。

 この様な文化の違いや思想の違いを文章にする事は発想の転換を訓練するのに極めて有効であると僕は思っている。昔の日本人で言えば漢文や古文がこれにあたるだろう。

 普段目にしない文章を読む事でわきあがるイメージを的確な文章で捕まえる事の楽しさを是非味わってもらいたい。僕にとって英語とはコミュニケーションの道具であると同時に既成概念を解体してくれるトンカチである。

 作家村上春樹は、『翻訳夜話』(文春新書)の中で翻訳作業と執筆について次のように語っている。「小説を書くのと翻訳をするのとでは、脳の中は全く逆の側が使われている感じがするんです。小説を書くというのは、簡単に言ってしまうなら、自我という装置を動かして物語を作っていく作業です。自我というか、エゴというか、我というか。我を追求していくというのは非常に危険な領域に、ある意味では踏み込んでいくことです。

 ところが、翻訳というのはそうじゃない。テキストが必ず外部にあるわけです。だから、外部の定点との距離をうまくとってさえいけば、道に迷ったり、自己のバランスを崩したりというようなことはまずない。こつこつとやっていれば、ほとんどの部分は論理的に解消できます。」

 翻訳作業は文章を客観的に見るには有効なのかもしれない。自分を外に移し、日本語を外側から見るのは確かに面白い。

 

翻訳家の書斎―「想像力」が働く仕事場

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翻訳夜話 (文春新書)

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