<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと


 翌朝、通学途中の改札口を通り過ぎると、やっぱり今日もあれれと首をかしげた。
 この一週間、いつもの光景に出くわさないのだ。
 人には、習慣がある。朝起きて、最初に何をするかは人それぞれだ。
 伊藤くんにももちろん習慣がある。
 いつも見かける光景をある日突然見かけなくなると、妙に気になるものだ。
 最初にそれを見た時は不思議だったが、最近はすっかり日常の一コマになってしまった。
 その光景というのを今から書いてみよう。
 
 改札口の柵の向こう側には老婆が待っている。そして、柵のこちら側には一見すると普通の勤め人には見えない中年の男が手提げ袋を持って、柵越しに何かを渡している。
 これが毎日決まって伊藤くんの通学時間に合わせて行われるのだ。
 もちろん伊藤くんにも休日はあるし、昼からの授業もあるので実際毎日行われているかは分からないのだが、とにかくよく見かけるのである。  
 駅員が特にとがめ立てしないところを見ると、よくある行為なのだろうか。あるいは荷物の受け渡しくらいなら許されるのだろうか。
 そう言えば、昔とんでもなく大きな荷物を背負っているお婆さんが電車に乗っているのを見かけた事があった。中身は干物だったから、きっとどこかの店へ卸しに行く途中だったのだろう。一体、こんな小柄な婆さんのどこにそんな力があるのかと思う程の怪力だったが、きっと荷物を持ち上げるコツのようなものがあるのだと思う。
 
 この二人もそういった類なのだろうか。
 伊藤くんは老婆の後をつけてみたい衝動に駆られたが、行く先が全く違うのでいつでもいいかとそのまま通り過ぎて約一年がたった。
 それがこの一週間、全く見かけなくなってしまったのだ。
 
 謎である。
 
 実は、親戚関係にある二人が近所のスーパーで安売りした食材を大量に購入して、それを弁当屋で働いている老婆がいかにも自家製のようにしてお昼時に売っているのかもしれないが、真相は真昼にもかかわらず闇の中である。
 名探偵コナンがいたら、早速少年探偵団の調査が始まるところだろう。
 実際は補導されて、先生に怒られるのがオチだろうが。歩道でね。オチてないか(反省)。
 伊藤くんの周りは謎だらけである。
 しかし、よくあるミステリー小説と違って何ら解決しないところが画期的である。
 何の弁解だろう。
 いくら型破りとは言え、森博嗣の工学部・水柿助教授シリーズだってここまでなげやりではない。
 同じ槍でもどうせなら重い槍、いや思いやりに満ちた作品を書きたいものだ。
 飛んでいる距離ではこちらの方が上か。
 そもそも同じ種目ですらないのかもしれない。
 飛距離を競っている場合ではないか。
 
 しかし、何かに疑問を持つ事は頭に刺激を与える事なので伊藤くんにとっては大いに興味のある事なのである。伊藤くんがもっとも恐れる事は思考が停止する状態である。それって意味が違うかもしれない。
 面白いCM作りで定評があり、ゲームソフトI.Qやダンゴ三兄弟のプランナーとして有名な佐藤雅彦さんは『毎月新聞』(毎日新聞社)というエッセイ本の中で「私たちは、質問(=問題)ができた時に初めて答えに向かって進むことができる。極端な言い方をすれば、素晴らしい質問ができた時、その先に素晴らしい答えが用意されていると言ってもいいほどである」と語っている。
 つまり、問題が無ければ考えなくなってしまうのが人間の習性なのだ。
 だから、毎日何かを考え続けていなければ、何も生まれないのだと伊藤くんは思っている。
 伊藤家の家の時計はしょっちゅう合っていない。
 というより、わざと実際の時間とずらしてあるのだ。
 小さい頃から、それが当たり前の伊藤くんにとって、時間というのはあくまで人間が決めたものであり、人間はそれに基づいて生活サイクルを作っているのだという概念がある。
 そうして実際の時間とは違う空間で生活すると、時間という鎖から解き放たれて、一種の無重力状態に置かれたような感覚に陥る。
 これも両親が考え出した脳に刺激を与える工夫の一つである。おかげで頭の中まで真空になってしまったけど。