<小説のお時間>〜伊藤くんのひさびさのひとりごと


 学生通りの坂を駆け上がりながら、一時限目の授業に間に合った伊藤くんは携帯を取り出し、サイドボタンを押す。授業中のメールは禁止されているが、この広い教室の中では教授に見つかる事も無い。
 というより、教壇側から見ればやる気のある生徒の方が少ないのは一目瞭然なのだ。だから、実際のところ机の下でごそごそしていてもいちいちとがめ立てなどしないのである。
 しかし、伊藤くんが今携帯を机の上に置いているのはメールのためではない。
 この携帯にはボイスレコーダーがついているのだ。
 と言っても今時デジタル放送の録画さえできるのだから驚くことではないのだが。
 彼は同じサークルの所山一樹のために講義を録音しているのだ。

 伊藤くんの学部は法学部で、カズは社会学部だが、同じパンキョウ(一般教養)の科目を取っているのだ。
 そしてカズは近くのマンションで気ままな一人暮らしをしている。
 だから、伊藤くんより遙かに有利な立地条件のくせに朝に弱いせいで一限目の講義に現れる確率は宝くじより低い。
 全く、現代の科学は学生を怠惰にさせるのには十分である。
 
 伊藤くんは次にPDAを取り出した。このPDAは普通の電子手帳とは少し違う。画面が二つあるのだ。
 これを状況に応じて縦にしたり、横にしたりして使う。実は伊藤くんの親戚はパソコンソフト関連の事業をしている。そこで彼は試作品のモニターをしているのだ。大した額ではないが、バイト料ももらっている。
 しかし、何よりも新しいモノに目が無い彼にとってこの仕事はほとんど趣味と言っても過言ではない。そして、この試作のPDAは伊藤くんにとっては手放せないアイテムになりつつある。
 もちろん、現在は黒板というものはあまり見かけない。ホワイトボードはまだ主流だけど、この講義も大型のホワイトボードを使用し、各座席には画面がついている。教授がボードに書いたことは全て手元のディスプレイに写し出され、必要に応じてプリントアウトすることができる。
 また各学生は自分の端末をつなぐことができ、データとして落として保存することも可能である。但し、これを自宅で受信できるようにはなっていない。技術的には可能だが、未だに講義は出席して受けるものという古い考えが残っているのだ。
 実際はテスト以外は出席しない生徒の方が圧倒的に多いというのに。
 もちろん通信教育に準拠するような教育システムをとると、大学という存在意義が薄れてしまうというのがもっとも大きな理由かもしれない。肩書きや権威というのは大学のアイデンティティと言ってもいいだろう。では伊藤くんの存在意義は?と言えば、この講義のテキストデータと音声ファイルをメールで添付するというところにあるのだけど。
 
 ところで伊藤くんのサークルにはカズの他に二人の部員がいる。たった二人というのが笑えるが、このサークルには先輩がいない。
 何と楽な設定か。
 この辺りが小説の楽なとこである。
 このサークルはアイデア発想クラブと呼ばれ、会員制のネット上の呼びかけで集まったサークルなのである。このサイトには紹介した者しか入れない。そこでは共通の趣味を持った人たちの共同社会(コミュニティ)があり、偶然同じ大学の者たちの呼びかけで集まったものだ。
 時代である。
 そういう事にしよう。
 彼らには部室も無く、ただ学食の一角に区切られた共有スペースでだべっているのが常である。
 一人は山口洋子さん。文学部の二回生である。
 そして、法学部と文学部は同じ校舎で使用する事が多いから、伊藤くんとも出会う機会が多い。
 もう一人は経済学部の田山等。校舎は少し離れているけれども、今はメールがあるのですぐに集まる事ができる。その話はこれからおいおい出てくることになると思うが、それは作者の僕にも分からないことである(オイオイ)。
 
 ところで、講義をつまらないと思うのは学生側であり、こんなに工夫しているのになぜ興味を持たないのだろうというのが教授側の疑問である。
 これは太古の昔から、永遠に交わる事の無い平行線である。漸近線と錯覚したのは教授側かもしれないが、交わる事が無いという点では大して違いはないだろう。
 テスト嫌いな伊藤くんであるが、予備校に通っていた頃の異常な熱気に満ちた講義を思い出すと大学の講義は活気が無いなと思う。
 それはなぜか?
 予備校の授業というのは入試問題を解く為にある。
 そして問いには必ず答えがある。
 だからそこには一定の解法があるわけだ。
 その解き方が鮮烈であればある程、講義にも熱が入り、生徒も耳を傾ける。
 人間は答えのある問題の方が解こうという気になるものだ。しかも入試というシステムは自分の能力を点数という目に見えるものに置き換えてくれるので、批判は数あれど分かりやすくて飛びつきやすい。
 しかし、大学の講義には問いはあっても答えは無い。
 あるものもあるが、単に知識を試すテストは少ないものだ。
 極端に言えば、答えは各人それぞれにある。
 つまり、目に見えない。
 そしてどちらが質の高い問題であるかと言えば、明確な答えの無い問題こそ無限の可能性があり、また新たな問題を生み出すものであるのだが、そもそも入学で求められるものは学問を追究する意欲よりも、スピーディな情報処理能力であるのだから、この両者の乖離が生徒と教師の距離感を作り出しているのである。カップインまではまだまだ時間がかかるだろう。
 結果として、純粋に学問をしたい者の多くが大学院に進むのである。
 医学部や教育学部のような専門性の高い(というより若いうちから人生設計がはっきりしている学生の含有率が高いというべきか)学部ならいざ知らず、本当の大学教育は大学院レベルになってようやく始まるのである。
 それまでの四年間は言わば準備段階という感じだ。かなり古いOSを起ち上げるような感覚と大差ない。
 そのように若い時というのは勉強に意義が見出せなくて勉強嫌いになる人が多いのだけど、社会や家庭に入って何年かすると急に意義の無い勉強をしたくなる大人になったりするのだから世の中は面白い。
 その勉強は何も学校教育や資格に限った事ではなく、平たい言い方をすれば習い事と言ってもいいかもしれない。
 本来、学ぶというのは学びたいと思った時に学ぶのが理想だ。人間は本質的に学ぶのが好きなのかもしれない。
 だから勉強に年齢は関係無いのだが、その後悔の念は自分の子どもへと向かい、教育ママやパパが生まれるというのも不合理ながら自然なのだろう。

 ところで、学生の伊藤くんには常々不思議に思っている事がある。
 それは気がつくと、引き出しの中がプリントだらけなのである。
 名付けてプリントばっかり怪である(温度はまだまだ下げる自信がある)。
 伊藤くんにはもらったプリントを無造作に引き出しに突っ込む癖がある。
 そして、一週間もしないうちに引き出しは開かなくなるのだ。
 小学生の頃から、学校の七不思議(伊藤ヴァージョン)の一つである。そしてそれはいまだに解決することの無い難事件迷宮入り確定なのである。