<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと


 偶然というのは、ある意識した事象が続けて起こった時にそう呼ばれるのだろうが、午後の授業は善悪をテーマにした刑法の授業だったのも偶然と呼ぶべきだろうか。
 テーマは違法とは何かである。
 法律で罰するという事は当然、その行為が悪いからである。
 では何をもって悪とするかについては議論が分かれている。
 規範に反した行為を処罰する考えを行為無価値論と呼び、他人の法益を侵害した結果を処罰する考えを結果無価値論というらしい。
 
 例えば、人を故意に殺害した場合と過失で殺害した場合とでは故意に殺害しようとした行為を重く見るのが前者であり、結果として殺害した事に変わりが無いと見るのが後者なのだ。
 というような話を聞きながら、人が人を裁く難しさがいろんな考え方を生み出すのだなと感心した伊藤くんである。
 もしもデスノートの話が無ければ、記憶にも残らず、寝て過ごしたかもしれない世の中は全く不思議だ。記憶と偶然も相性の問題なのだろうか。
 
 午後の講義でみんなとバラバラになった伊藤くんは、さて何をしようかなと思いながら、坂を下る。本当は夜にカテキョのバイトがあるのだが、急にキャンセルになってしまったのだ。
 と思ったら、カズからメールが入る。
 
 今、ヒマ?
 
 相変わらず、カズらしい素っ気ないメールだ。
 
 ヒマだけど、何?
 
 しばらくすると返信が来た。
 
 食堂で待つ。
 
 うわ、せっかく駅の前まで来たのにと思いながら、伊藤くんはまた坂道を上るのであった。
 カズの家はどうやら金持ちであるらしい。バイトは全くしていないようだし、何と言うかガツガツした所が無い、妙な落ち着きがあるのだ。それが彼の魅力なのだろうか。
 
夕方の学食は人もまばらだ。
 
一見派手な服装の茶髪男、それがカズだ。社会学部の二回生である。春だというのに、少々暑苦しい格好をしている。体感よりもおしゃれを重んじる男なのだ。
 
ホストと間違えられてもおかしくはない。もしも赤いスーツでも着ていれば、ポストと間違えられるのだろうかとどうでもいい事を考えてしまう伊藤くんである。
そんな思いはよそに(そりゃそうだろう)、カズはズルズルとカップ麺を食べている。食べるものにはポリシーの無い男でもあるのだ。
 
「何か用?」
 「用が無きゃ呼んじゃいけないか?」
 
いきなり攻戦的である。それがカズの照れである事が分かるのに、一年の武者修行が必要だったが、こういう時は話題を切り替えるのが得策だということも今の伊藤くんには分かる。
 
「何、食べてるん?」
 カズは見れば分かるだろとは言わず、
「僕は今インスタント焼きそばを食べている。しかし、これは焼きそばなのだろうか?お湯でゆでたのだから、ゆでそばではないだろうか?」
 
何なんだ、これは。
 とても正常なコンピューターにはマネのできない質問だ。
 
 では、伊藤くんが突然の問題に戸惑っている間に、しばしインスタントについて考察してみよう。なかなか画期的な小説である。というより、行き当たりばったりである。司馬遼太郎の以下、無用の事ながらを思い浮かべながら読んでもらえると光栄である。
但し、こちらは思いっきり無用の話である。悩み無用〜。
 
 さて、伊藤くんの世代では分からないかもしれないが、その昔お湯のいらないインスタント麺があった。その名もアルキメンデス。歩きながら食べられる麺と自然科学者アルキメデスの名前をかけたネーミングだろう。実は僕は食べた事が無いのだが、かすかに残っている記憶をたぐり寄せるとあんかけのようなものをかけて食べるものだったように思う。きっとかなりどろどろとした麺だろう。やっぱりまずかったのだろうか、その後この画期的な商品は発売されず口にする事は無かった。ところで、インスタント麺のノンフライ製法とは、油を使わないという事だけど、あれは巨大な扇風機で乾燥させて固めているそうである。以上、全く無用な挿話であった。
 
 「やっぱゆで麺じゃないかな」伊藤くんは遠慮がちに答える。
 「理想と現実というのは難しいものだよな」
 「えっ?」
 話題の転換が早い。この男は、自分の興味が失せると話を切り替える癖がある。しかし、今日はいつになく早い。シャアザク並だ。こういう時は素直に話を合わせるのが友達というものだろう。
 「その質問は永遠に繰り返される若者の慣習だと思うよ」
 なかなかかっこいい事を言う若者である。習慣と慣習では随分感じが違う。よく知っている漢字というのは逆にすると難しくなるものだ。例えば、保留を逆にすると留保である。議論は論議。愛情は情愛。実に不思議だ。

 それはさておき、分かったふりをしても歯が浮かないのが若者でもある。ところで歯の浮く経験は歯医者さんだって無いだろう。

「理想を掲げる事はたやすいのです。ただ理想の追求を許された人間は少ない。限りなくゼロに近いのであります。」
 「それ何?」
 「ドラゴンのセリフさ」
 「ドラゴン?竜?桜?」
 「松本大洋だよ」
 「ああ、あの卓球マンガの」
 「ピンー」
 「うわっ、オヤジギャグ!」
 あやうくカズの誘導尋問に乗るところだった。危ない、危ない。
  当のカズは、ゆで麺と格闘中である。
 突然、カズが顔を上げて、腕時計を見てつぶやく。
 「ここまでで6分27秒か」
 「は?」
 カズは特に関心なさそうな顔で、
 「お前と俺の会話の時間」
 相変わらず変な奴だ。
 「それって短いのか?」と伊藤くん。
 「カップ麺ができるよりは長いな」
 
これでは、よく分からない禅問答だ。
 
しかし、目新しいもの好きの伊藤くんは楽しんでたりもするのだ。
 ここでまたまたおもむろにPDAを取り出し、マッピングコミュニケーションを始めるのも伊藤くんだ。
 画面の中心にゆで麺と書き、丸で囲む。その横にアルキメンデスと書き、また丸で囲み、線でつなぐ。少し離れたところに、ドラゴンと書いて丸で囲むが、まだ関連しそうに無いのでこれは別グループ。その横にピンポンと書き、線でつなぐ。
 「お前相変わらず、変わってるのな」
 「カズよりましだと思うけど」
 「よし、そんなお前に俺からの問題だ」
 このようにしてまた無為な時間が浪費されていくのどかな食堂であった。

 帰りの電車で伊藤くんはメールをしている。伊藤くんはという限定句はこの場合、不適切である事はみなさんもご承知だろう。今や、車内で携帯を開いていない人など皆無だ。

 後は目が開いていない人を残すばかりである。

 伊藤くんは、送信ボタンを押して、すぐにその内容が間違いだった事に気付く。昔なら、悔やむところだが、今はキャンセル送信があるから便利である。相手がメールを開いていない限り、パスワード付きのキャンセルメールを送れば、相手方には履歴すら残らない。但し、相手がその受信のやりとりを見ていた場合、妙な誤解を生む事もあるので注意が必要だ。幸い、相手はまだバイト中のはずだ。と言って、見られて困るような内容でもない。

 次に携帯でブログサイトにつなぐ、まずは今日一日あった事を書き残すのだ。その後で、ブログの閲覧やデジタル放送を楽しむ。デジタル放送のいい所は受信電波に乱れが無い事である。また、双方向性機能が実に充実している。

 例えば、番組に流れているテーマ曲はすぐにその情報をサイトから受信して、着うたに設定できる。昔の携帯で言えば、アンテナに当たる部分にはペンが収納されているので、画面にタッチしたり、手書きの文字や絵を送る事も可能になった。

 ところで伊藤くんのお気に入りの一つにほぼ日サイトがある。これはコピーライターという職業を一躍有名にした糸井重里さんが運営する巨大人気サイトだ。タイトル通り、ほとんど毎日何らかの情報が更新される無料型ネット新聞だ。

 無料と言っても、その人脈の広さから紙面の充実ぶりは豪華で、ヒット商品や話題のネタがここから生まれる事も珍しくない。
任天堂のヒット商品DSの人気ソフトもここで特集が組まれている。
あるコーナーでマリオの生みの親、宮本茂氏はこの人気ハードのコンセプトをこういう言葉で語っている。以下はその引用である。

「腰引かずにバット振ろう!」みたいなのがね。最近のモットーなんですよね。思いっきり振ったら当たれば飛ぶというのが、ほんとに最近、身にしみてきてて(笑)『マリオ』とか『ゼルダ』とかシリーズものなんかをつくってると、だんだんそれがうまくできるようになるでしょ。そうするとだんだんと「新しいもので思いきり振る」ということができにくくなるんですよ。だからびびらないようにしてましたね。

 天才ゆえのプレッシャーというものだろうか。
自分と同じ周回を走っている者がいなくなった時、人は風すらも感じなくなるかもしれない。と、そんな事を考えてみたりする伊藤くんであった。

 向かいのおじさんが口を開けて寝ている姿を見ながら、気道確保はやはり上向きだなと感じる伊藤くんでもあった。日本の経済も早く上向きになって欲しいものである。

ドラゴン桜(1) (モーニング KC)

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小説 ドラゴン桜―特進クラス始動篇 講談社文庫

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ピンポン (1) (Big spirits comics special)

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