<小説のお時間>伊藤くんのひとりごと

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 7時25分
 2時20分
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 09:02
 5時55分

「くそっ!」
「あっ、5じゃなくて2か」

 このような文章をあと10行でも書けば、読み手はおおまかに次の二つに分ける事ができるだろう。

 一つは意味不明で曖昧模糊とした冗漫な文章に嫌気がさしたクリッカー。その指は次なるサイトを閲覧するためにマウスの上にある
。もう一つは、興味半分で速水もこみちとした(また客寄せ蟻地獄表現か)饒舌さに好意を持ってくれている奇特なーいや、心優しいあなたである。

 もしかすると、貴重な時間を割いてこれまでの全ての駄文を多分多文に読んでくれたのであれば、どこかのホテルの社長以上に頭を下げよう。ありがとう。浜村淳です。

 ネタは新鮮なうちに使わないと死滅する。寿司と同じである。きっと、リアルタイムで読んでいる人には通じるネタも、関西人以外でニュースも見ないような世代には何の事か分からないに違いない。

 ショートショートの神様として知られる星新一さんは、時事ネタを使う事を自ら禁じていた。だから星さんの作品はSFの設定が多いにも関わらず古びない。生前は表現に手直しを加えられていたと聞くが、普遍的なテーマは古さを感じさせない。日本の長寿アニメと言えば、サザエさんだが、家電スポンサーにも関わらず、家にある電化製品は一向に新しくならない。DVDレコーダーなんて半世紀後にでもならない限り登場しないのではないかと思う。調度品も然り。

 しかし、それがサザエさんサザエさんたらしめる表現法なのである。サバをしめても、タラをしめる事などきっと無いだろう。サザエさんにとって全ては記号である。季節は存在するが、そこで語られる話題もまた形骸化した予定調和である。

 このように書くとサザエさんに対して罵詈雑言を吐いているようで、たたでさえ版権問題に厳しい、過去に訴訟も起こしているサザエさんに敵対しているようであるが、ここでオセロを反転させて頂こう。なぜなら、これらのちんぷん漢文の牛歩戦術的表現は全て賛辞なのである。

 つまり、たらしめるとはアイデンティティの確立なのであって、個性の象徴なのである。( )つけて書いても中身が伴わないこんなブログとは違って、普遍的な表現と話題が逆に作品の鮮度を保っているのだ。テレビと聞いて思い浮かべる物は人それぞれである。しかし、そこで誰もが分かるテレビという記号は四角いあの物体である。サザエさんの世界には全編そういう表現技法が満ちあふれている。
 
 金田一耕助という人物を作者の横溝正史は最大公約数的人物と語っていた事がある。あくまで私の記憶力が正しければだが、確かそう言っていた。その証明にもっと文章を費やしてもいいが、ただでさえ脇道にそれているのに、このままけものみちに入る事は松本清張ファンが黙っていないだろう(また時事ネタか)。

 では、その意図する事は何かと言えば(金田一の話である)、彼は名探偵とは言われても、超人ではない。もしも彼が非常に優れた人物であるのなら、殺人事件は多発しないはずだ。でも物語の中では第二、第三の殺人事件が続発するのである。もちろん、ウルトラマンがいきなりトドメの一撃を喰らわせたり、水戸黄門が印籠を突然出したり、金さんがもろ肌を脱いだりすれば、話の盛り上がりに欠けて、悪い輩も出て来ないだろう。お約束という奴である。金田一探偵はあくまでも普通の人達の能力を最大限に集約した人物なのである。と言っていたはずだ(語尾に力が無い)。

 迷う前に戻ろう。

 サザエさんもまたそのような最大公約数としてのシンプルさを持ち得ている。シンプルというのが実は奥深いものだという事はテトリスをプレイすれば分かる事だ。上海でも、ぷよぷよでもいい。

 もう少し戻ろう。

 星新一さんの作品の普遍性と反比例するこのブログの今回の出だしは支離滅裂な時刻表示から始まった。これが分かった人はDSユーザである。そして、このブログを丹念に読んでくれている人だ。謎は解けた。じっちゃんの名にかけて。

 伊藤くんは今朝もまた『もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング』をプレイしているのである。分かるかそんなもん。しかも朝かいっ!と、ここまでの文章を思いついて何とかトレースできた事に今ホッとしている私は記憶力がいいのだろうか。それとも単なる変人か。それともこのソフトのおかげだろうか。任天堂に抗議されそうだ。そもそもこれは伊藤くんのお話のはずである。混同してはいけない。

 TRAINと言えば「列車」であるが、これは名詞の一番ポピュラーな意味であって、英語の場合には動詞の意味が隠れている事も多い。TRAININGと言えば「訓練」とか「練習」の意味で、これがトレーニングである。だからHe trained a dog for the race.と言えば「彼はレースの為に犬を訓練した」という意味になるわけだ。こんな簡単な単語でも使われる位置によって意味が変わるから文法は必要だ。規則変化動詞である事が分かれば動詞ようと迷う事も無い。
 
 伊藤くんの話である。

 先ほど彼が夢中になっていたのは、<時計判断>というトレーニングメニューだ。これは上下左右に反転したアナログやデジタル時計を読み取る問題である。

 これが意外に難しい。これは伊藤くんのつぶやきである。前作にも<時間計測>というものがあって、上下に並んだアナログ時計の時間差を答えるという問題があった。今回も似たような問題で、今日の4日前の昨日は何曜日?とか、今週の月曜日は何月何日?など頭の中のカレンダーに消しゴムがかかっている人間には難しいトレーニングが収録されている。

 伊藤くん、実は時計の読み取りが苦手だった。この場合の時計とはアナログである。伊藤くん家の目覚まし時計のような変わった物なら(詳しくは過去のブログを参照してね)いざ知らず、普通デジタル時計の読み取りで迷う人はいないだろう。表現のうまい文章というのは、余計な事を書かなくても誤読されない表現の事をいうのかもしれない。

 ところで伊藤くんの家にはデジタル時計しか無かった。だから、アナログ時計を見たのは小学校が初めてである。より正確な表現を試みるなら、アナログ時計というものの存在を意識したのが小学校だったという事になる。まだ低学年の話である。但し、ここに少し悲劇があった。彼は、時計の読み方を習う授業をたまたま休んでしまったのだ。

 だから、そういう時計がある事は、みんながその授業で習ったという話題から分かったけれども、読み方が分からない。3時とか6時とかきっちりした時間は文字盤の短針の指す数字を見れば分かるらしいという事は見当がついたけれども、1時37分あたりになると2時なのか1時なのかもう怪しい。これは、九九を覚えていない人が高額紙幣をレジに出すのに似た暗中模索の手探り状態であり、恥ずかしくてなかなか聞けないまま何とか過ごしてきた人間にしか分からない不安感なのである。
 
 彼は先ほども書いたようにデジタル時計家族であったので、幸いにもアナログ時計に触れないで過ごす事ができた。しかし、運命は時に残酷な顔を覗かせる。

 中学のある体育の時間に時計の見えない位置にいた先生が何気に伊藤くんに時刻を尋ねたのだ。校庭にあるのはもちろんアナログ時計である。しかも先生との距離は少し離れている。一瞬、伊藤くんは自分のポジションを悔やんだが、時すでに遅し。いや、まだ午前中だ。しかし、時計の針は無情にもさらに悪い位置にある。

 クラスのみんなのいる前で、相対性理論を証明しろと言われているような最悪の状況だ。こういうのを針のむしろ言うのだろうか。まな板の鯉でもいい。頼む、誰かさばいてくれ。

 この時、伊藤くんは確かに刻の涙を見た(アニヲタにしか分からない、他は推察なされよ)。

 一頃、Mr.ビーンという作品が流行った。ローワンアトキンソン演じる奇妙な紳士がブラックユーモアに満ちた行動で笑わせるイギリスの喜劇である。その中で教会でハレルヤ〜という歌を歌うシーンがあった。ビーンは実はその歌を知らない。

 しかし、それはあまりにも有名で知らない人はいないという歌であったため、今さら人には聞けない。というより、もうみんな歌い始めているのだ。そこで、彼は何となくごにょごにょとそれらしき歌を即興で歌い、調子を合わせる。そして、ハレルヤというサビの部分に至った時、ここぞとばかり大声で歌い上げるのだ。ところが音程の違いで一人浮いてしまい、笑いを誘う。

 誰にでも似たような経験はあるのではないだろうか?

 伊藤くんもこれに近い行動を取った。彼は何とか聞き取れる程度の声で時刻を告げた。しかし、先生には聞こえなかったようだ。音波としては耳に届いているのだろうが、意味が分からない。まさかこの世に時計の読めない中学生がいるなんて想像さえしていないから、先生は重ねて志村けんのように「あんだって?」と聞き返す。

 背水の陣とはこの事である。絶体絶命。窮鼠猫をかむ。かまない、かまない。かんでる事でごまかそうとしても時刻を知りたい先生の前では通用しない。時刻の地獄である。

 どうしよう。このままではみんなにおかしいと思われてしまう。穴があったら入りたい。掘ってみようか。もっと変だろうな。

 と、そこで天から助けが舞い降りた。きっと窮状を見かねた神様が同情したのだろう。つまり、チャイムが鳴ったのだ。この時ほど、チャイムに感謝した事は無い。

 実はこれと似た事が高校生の時にも起きた。しかも二回も。

 一つ目は運動会の本番でビリから二番になった時だ。実は伊藤くん足が速い。小学校の時はリレーでアンカーを勤めた事もあるくらいだ。元々、奈良の山育ちの人間である。足腰は自然に鍛えられている。しかし、高校に入って帰宅部に属した結果、運動不足がたたり、前日の体育の時間の予行演習で筋肉痛になってしまった。そんな恥ずかしい事は誰にも言えない。そして、本人は少し足が痛いなと思ったけれども、まさかそれが筋肉痛だとは思ってもみなかった。若気の至りである(何か違う)。で、結果は無惨にもみんなの期待を裏切った。前日に彼の足の速さを見た人間には不思議だったはずだ。

 もう一つはある国語の授業で黒板の文字を読み上げなければならなかった時だ。一番後ろにいた彼には文字が読めなかった。だから、彼は視力補助用具であるところのメガネを使った(関係代名詞か)。ところが、運命は皮肉にも彼の予想を裏切った。席替えをしたばかりという事もあったけど、視力が思いのほか落ちているのだ。つまり、メガネの度が合っていない。だから文字はやっぱり見えない。

 しかし、まるで視力検査のように指し棒で文字を示している先生には彼がなぜ答えないのかが分からない。先生からすれば答えはここよと、まるでからくりテレビのさんまのように「それをまとめて言うと何?」「だ・か・ら!」と、もう喉まで出かかった答えを言わせたくてたまらないのである。今や教室では先生を含めて、クラス中の生徒が彼の発言をかたずをのんで待ちかまえているのである。つまり、みんな色メガネで彼を見ているのだ。いっそこのメガネがサングラスなら納得してくれるかもしれないのにと考えながら、彼は再び刻の涙を見た。チャイムは鳴らなかったのだ。

 このように人には当たり前に思える事でも、当事者には当事者の事情というものがあるものなのだという事を伊藤くんはこの時自らの経験で悟った。人間の幅が広がったという意味では学校で教えてくれない勉強をした事になるだろう。もっとも学校で学んだのだけど。