<小説のお時間>伊藤くんのひとりごと

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 朝の電車は相変わらず混んでいる。そして、みんな一様に急ぎ足だ。駅の階段を脱兎のごとく駆け上がる人々。二段飛ばしで登る若者、ハイヒールを器用に操ってつま先でくのいち忍法を披露する女性(男性は想像したくない、朝からケインだ)、どこにそんな体力が残されているのかと目を疑う老人。ところで我らが伊藤くんはと言えば、ゆっくりと足を交互に運んでいる。以前にも書いたけれども、彼は電波時計並みに時間に正確なのだ。それはつまり、何事にも余裕を持って行動するという事を意味する。

 彼には遅刻という二文字は似つかわしくない。次の日の準備は、前日の夜に済ませるし、課題は提出期限の何日も前からすでに出来上がっている。ただ、周りの人を気にして提出日になるまで出さないだけなのだ。従って、朝も比較的時間にゆとりがある。通学電車も2本くらい早めである。人から見れば変わっているかもしれないが、彼の方から見れば、よく毎朝走れるな〜と感心しきりなのである。とは言っても、朝早くから吹きすさぶオープンカフェで英字新聞を読むような人間にはもっと感心する。世の中にはいろんな朝の過ごし方があるものだと思う伊藤くんであった。

 ところで伊藤くんの通学電車の過ごし方であるが、まずiPODで音楽を楽しむ。もちろん携帯電話やPDAにも音楽は入っているのであるが、くるくる回してポンと選曲する快適さには適わない。音声ニュースも自動録音されているので、地下鉄でも何の支障も無く聞ける。映像も見られるのは携帯も同じだが、ネット経由で海外の番組まで落として見る事ができるので少し得した気分になれる。

 時間と空間に余裕があれば読書をするのはもちろんだが、伊藤くんは何か思いつく度に携帯にアイデアを放り込んでいるので、それを整理してメールでPDAに飛ばして保存する。こういったスキマ時間がちょうど都合がいい。移動オフィスと言ってもいいだろう。これなら片手で文章を書く事も苦にならない。と言うより元々そういう風に作られているのだから当たり前だ。

 携帯が不便だと言う人はこの親指ダンスレボリューションが苦手なんだと思うけれど、伊藤くんの携帯には仕掛けがある。もちろん、またまた親戚の会社の試作品である。まず携帯を机の上に置き、90度に開く。少し暗めの場所がいい。そうすると机の上にキーボートが浮かび上がる。画面から投影されているのだ。そのキーボードの上に指を置くと、画面から出された光を遮る事で文字の位置を感知する。

 つまり、両手で入力できる携帯なのである。折りたたみキーボードが別売りされている携帯やスライド式でキーが飛び出す携帯もあったけれども、ちょっと携帯からかけ離れているなというのが伊藤くんの正直な感想だった。そこで、ある展示会で見かけたこの最新技術を親戚のおじさんに話したところ試作の段階までこぎつける事になったのである。伊藤くんは毎度の事ながら、バイトでモニタリングしているのだ。

 車窓から見える風景は、手前の景色と遠くの景色が少しずつズレて行く。伊藤くんはある時テレビゲームをしていて多重スクロールという言葉を知った。それが現実の風景として眺めていると実感できる。この風景のズレが奥行きを感じさせるのだ。中学の美術の時間に遠近法というものを習った時、とても不思議な感じがした事を今でも鮮明に覚えている。伊藤くんにとってはそれ程インパクトがあったのだ。よく子どもに絵を画かせると、建物は全て四角い図形の羅列になる。ヘリコプターの回転翼も楕円形というよりも丸い図形が上に乗っかっている。

 もしも誰にも習わずに遠近法を用いた図形を描ける子どもがいたら、その子はかなり精確な空間把握能力を持っているという事になるだろう。あるいは三次元の映像を二次元に置き換える能力が卓越しているという事か。ある有名な絵画に小さな穴が開いていた。そこから少し光が漏れていたのである。これが謎として話題になった事があった。その答えがこの遠近法である。

 伊藤くんは時々、昔の人達の英知に驚嘆する。ナスカの地上絵、ピラミッドや神殿の数々。ミステリーサークルだってきっと地球人の作品だと伊藤くんは思う。でも、よく考えてみれば現在使われている測量術も作画法もその先達の技術の改良の上にあるのだ。昔だからできないのではなくて、昔からできたのだ。名曲と言われる楽曲の中にもアレンジの古さを感じさせない、それしかあり得ないような曲が存在する。

 ネットも無かった時代、人々は毎日発見の喜びに満ち満ちていたのではないだろうか。たとえ世界のどこかで同じような発見があったとしても、喜びを共有できる範囲はそう広くない。栗が落ちていた。いつもはトゲトゲがあって、ただのいたずら道具でしか無かったものが、食べ物に変わる瞬間。偶然、中身の物に興味を持った先人達。きっと、世界のあちこちで誰もが生活に宝探しゲームを見出していたのではないだろうか。坂よりも階段が登るのに適している。山を登っていて、自然の隆起にそう感じた人もいるだろう。あるいは毎日食べる物は無いかと躍起になって探して命を落とした者もいるだろう。

 ふだん空気のように感じているものが、どこかの誰かの思考の結晶によって成り立っている共有感を感じながら、悠久の時に思いを馳せる伊藤くんであった。