今週の伊藤くんのひとりごと(総集編)

11
 気が付けば、もう11である。セブン…である。
 
 もう3万文字も書いているのに、全く進歩が無い。
 
 話の展開も遅々として進まない。はは。
 
 400字詰め原稿用紙に換算して、70枚以上。そのうち作者のつぶやきというかぼやきが65枚ほどあるのではないかと推察する。作文の授業なら、先生は辟易するだろう。
 
 しかし、考えてみればクラス全員の作文量よりは少ないから大した事はないのかもしれない。データにすればわずか200キロバイトである。ピザ屋のバイトなら、間違いなくスピード違反で捕まるだろうが、1メガのフロッピーにさえ楽々収まる容量である。
 DVDなんかに焼こうものなら、もったいないお化け(古すぎる)が出るだろう。そもそもフロッピーなんてもう見かけない。
 
 時代はテラである。1000キロバイトが1メガなら、1000メガは1ギガである。1000ギガが1テラ。もう何が何だか分からない。もしも1テラ分の文章を書いた人がいたとしたら、それはギネスものである。おそらく、動画データにコメントを付したアーカイブソフトというのがオチではないか。
 
 ところで、伊藤くんはかなりの読書家である。しかし、彼の部屋には書棚が無い。これはどういう事だろう?

 ・図書館で借りている
 ・読んだそばから捨てている
 ・別の部屋に書棚がある
 ・本というのは名ばかりでマンガを立ち読みしている
 ・家が本屋さんである

 選択肢を作るのに飽きたのでそろそろ正解を書こう。
 
 正解は全てデジタル書籍だから、である。

 つまり彼は全ての書籍をデジタルデータで所有しているのである。
 
 ヴァーチャルの最大の利点は何か?

 それは場所を取らないという事だろう。
 実際にはデータ保存の領域を必要とするのだけど、それはサーバーさえあれば家に置いておく必要すらないのだ。

 本というのは衣類と共に場所を取るものである。本を読まない人には、たとえば何かコレクションしている物を思い浮かべてもらえると親切な読者だと敬意を表する。

 本は重い。一冊ずつは大した重さではないが、100冊、1000冊となると話は別である。本の重みで家屋が潰れたというニュースもあるではないか。『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』という本が新書でベストセラーとなった事は記憶に新しいが、『本屋さんは本の重みでなぜ潰れないのか?』という本を出せば、耐震構造が関心の的のこのご時世では大ベストセラーになるかもしれない。

 そう言えば、伊藤くんは六法もデジタルデータであったから、この物語を暇つぶしに読んできたあなたなら、すでに当たり前の事じゃんと思った事だろう。というより、ここまで読んできた奇特な方ならば、早く答えを書け!と思っている事だろう。

 前回、誰が見てもパクリの迷探偵まで登場させて謎を提示しておきながら、冒頭から暴投である。

 笑えない。むしろ腹立たしい。

 しかし、もう少しだけ本の話がしたい。寂しいのだ、もう少し戯れ言に付き合ってくれてもいいではないか。

 デジタル書籍というのは確かに便利である。音楽だって、映像だって今はデジタルデータである。昔のように、カセットテープやビデオテープで場所を取る事も無ければ、劣化する事もない。サーバーにはバックアップの予備データがあるので、データ消失の心配も無い。家で録り溜めたデータは全て携帯を始めとするモバイル端末で遠隔操作が可能である。ディスクで保存する必要すらなく、いつでもどこでもデータを鑑賞する事ができる。

 ネットは高速で定額が当たり前であり、最新の楽曲はデータを気にする心配も無いので、自動でダウンロードされる。もちろん任意でジャンル選択やデータの削除も可能である。だから、伊藤くんは昨日見た映画の主題歌もネットにつないで検索すれば瞬時に転送できる。というより携帯にはそれ自体にダウンロード機能があるので、帰りの電車の中ですでに楽しんでいたりするのであった。伊藤くんにとってすでに本というのはテキストデータの事であって、書籍というのは過去の産物なのである。彼の場合、紙媒体は全てモニターで代用される。

 紙よりも視野角の広いモニターは直接書き込むが可能であるし、分からない用語にはリンク機能で調べる事ができる。検索も簡便なので、大事だと思う範囲を登録しておけばいつでもどこでも参照する事が可能である。以前の物よりも格段に見やすくなったので、目の疲れも少ない。

 但し、著作権については規制が厳しくなったので、コピー&ペーストには使用料が必要で、引用箇所には文献元が必ず明記される。違法を承知で引用したい場合は、自分で文章を入力する必要があるが、そんな面倒臭い事をする人間は今時いない。人間とは楽な環境に順応する生き物なのだ。

 さて、もう少し伊藤くんの部屋を覗いてみると、彼の部屋にはテレビが無い。これはどういう事だろう?

 えっ?もう答えの無い選択肢はいらない?

 無駄な労力はやめよう。

 確かに彼の部屋にはテレビというものが無い。しかし、映像データの保存をしているというのは本当である。それにパソコンを持っていないわけも無いから、パソコンがテレビであるというのは正解である。しかし、それでは3分の1しか答えになっていない。PDAと携帯は似たようなものだから、それがもう一つの答えだとしても3分の2である。

 残りの一つは壁を見ると分かる。

 ほら、見えるでしょう?

 いいお顔ですよ〜。

 お前は美輪明宏か!

 以下も余談の事ながら、美輪明宏江原啓之と言えばオーラの泉で有名な前世霊能力者である。

 この番組において、見えるか見えないか等はもはや愚問である。少なくとも我が家の古いテレビでは違うゴーストが見えるだけである。だから、私はあくまで国分太一の陣営である。

 は〜、そうですかとただ傍観するしかないのである。

 この二人の即興とも思える会話に向けて水をさすゲストの発言に時にハラハラしながら、何となく気持ち良くなっていくゲストの反応を楽しんでいる。この番組のいい所は誰も傷つかないという所である。だって悪口言わないだもんと今時の女子高生さえ恥ずかしくて口にしないようなセリフを書いてしまいたくなるくらいほのぼのとしている。たとえ現在の素行に釘を刺されようとも、最後にはベタ誉めで終わる。

 これは商品のセールストークをする上でも大切な事である。うまいセールスマンというのは決して全てを誉めない。なぜなら人間には誉めすぎると逆に欠点を探したくなる懐疑心があるからだ。だから、悪い点を挙げつつ、最後は長所でしめる。これが逆だと、最後に聞いた事が耳に残ってしまって印象が悪い。

 この番組においても二人の会話はあくまで相手を持ち上げる。だから、見ているこちらもいい事言うな〜という催眠術に似た効果に浸ってしまうのである。国分太一などいらないのではないか?と思われるかもしれないが、それは間違いである。我々は彼がいるからこそ、自らの立ち位置を確認できる。たとえ彼がコメントに窮していても、それは我々の代弁者であるから温かいまなざしで見守る事ができる。同情である。見えない我々に何が言えると言うのか。

 伊藤くんの部屋の壁話であった。

 もちろん見えるわけは無い。だから、私は自由に話を進める事ができる。これであなたもTOKIOの一員だ。

 伊藤くんの壁には一枚のスクリーンがかかっている。これがモニターになっているのだ。液晶の大型モニターである。普段は風景が映っているので窓と勘違いする人も多い。ある時は滝が流れ、ある時は森林が小鳥のさえずりや葉擦れの音と共に流れる。真冬に常夏の透き通ったビーチの映像を流す事もボタン一つで可能である。ドラえもんから見れば古い技術かもしれないが、お金さえあれば壁に限らず、床や天井までモニター加工する事も可能である。

 部屋の模様替えが好きな人は多いが、これからは空間を変える人もいるだろう。全モニターをプラネタリウムに変えれば、宇宙の神秘性に魅せられたニートも急増するかもしれない。立体映像技術が進歩すれば、もうそこは自分の部屋ではない完璧なヴァーチャル空間である。完璧の璧は壁ではない。ここはどこ?という事は十分にありうる寝起きゼリフである。

 ちなみに伊藤くんの部屋には物が無い。ただの空間が存在するだけである。彼の部屋は全てが収納なのである。ベッドも引き出し式だし、デスクもイスも何もかもが必要な時に必要な分だけ取り出して使う。ニッスイの冷凍食品のような欲しい分だけが売りの部屋構造だ。スピーカーは埋め込み式であるし、衣類も当然クローゼットの中である。だから八畳の部屋はまるでリビングのような広さである。もちろん大抵の人間は、初めて彼の部屋を見た時にはびっくりする。引っ越したばかりなのかと勘違いされても仕方が無い。

 伊藤くんの部屋の話で今回は幕を閉じよう。次回こそ解答編であると信じて。

12
 伊藤くん達は、下の階へと移動する。

 いきなり話が進むなんて素敵である。自画自賛である。分からない人は11を飛ばして10から読み進めるといい。

 ヒトシくんだけは今いち腑に落ちない顔をしている。もちろん伊藤くんだってホントのところはカズの真意が分からないのだけど、仕方無く彼の言葉に従っているのだ。

 洋子さんはと言えば、早く答えを確かめたくてたまらないというウキウキした表情である。テレパシー能力が無いとすれば、彼女にはカズの考えが通じているらしい。

 天竺を求めるご一行は、階段を降りる何人かの人達に紛れて先を急ぐ。但し、先頭は三蔵法師ではない。カズである。

「とにかくエレベータのある場所まで急ごう」とカズは言うのである。
 
 エレベーターのある場所と言えば、当然先ほどのエレベーターの真下である。程なくして、一行はエレ前に到着する。

 そこにも人はそれなりにいる。

「やっぱり、階段を降りて帰るのが面倒なのかな〜」
伊藤くんは自分と同じ考えの人がそこにいるので、妙な連帯意識が湧く。

「それは違うな」
カズが列に並びながら、振り向く。

「えっ?」
伊藤くんの目の円周が少し大きくなる。

「ここにいる人の大半は頭のいい人かもしくはかつて同じ経験をした人だと思うよ」サラッとしたロン毛が照明に映える。やっぱりモデルみたいだと伊藤くんは思う。ヒトシと自分だけなら、日本橋の方が似合う。大阪の秋葉原に当たる所だ。

「分からへんわ」ヒトシ人形は何回でも使えるから便利である。

「乗れば分かるよ」
「そうね」
 どうやら洋子さんは分かっているようだと伊藤くんはようやく気づく。

「あれ?下向きのボタンが押してないよ」
伊藤くんが前を覗き込みながら、つぶやく。

「いいんだよ。恥ずかしいからもうしゃべるな。乗れば分かるから」
「う、うん」
カズに間違いなど無いのだ。ここは黙っていた方が無難のようである。洋子さんは、すでに関心が無いらしくヒトシくんと映画の話をしている。

 やがて空のエレベーターがやってくる。

 と、上向きのエレベーターにみなが乗り込む。伊藤くん達も隣のエレベーターに乗り込む事ができた。エレベーターは当然一つ上の最上階で扉を開ける。

「そういう事か」
 伊藤くんここに来てようやく謎が解けた。晴天の霹靂とはこういう場合をいうのだなと納得する。

 つまり、これが誰も上がって来ないはずのエレベーターが常に満員であるという謎に対する答えである。もしも下の階で下向きのボタンを押したとしよう。この場合、エレベーターは常に上の階の客でいっぱいであり、上の客が全部いなくならない限り乗る事はできない。しかし、一見無駄のように思える上への移動が家路を急ぐ早道であるとは逆転の発想ではないだろうか。

 火災などで使用される救助用のマットの下に穴が開いていると聞くと、そんなバカなと思ってしまうが、よく考えてみれば空気の抜ける通り道が無ければトランポリン状態のマットに飛び込む危険性は明白だろう。

「なっ、分かっただろ?」
カズの自信に満ちた言葉に、二人のヲタ学生は張り子人形のように首を縦に振るのであった。

 帰りはみんな方向が違うので、ビルを出た所で別れる。時刻は23時半過ぎ、行き交う人達はそろって急ぎ足だ。けれども、伊藤くんの足取りはいつにもまして軽かった。

13
 7時25分
 2時20分
 06:14
 09:02
 5時55分

「くそっ!」
「あっ、5じゃなくて2か」

 このような文章をあと10行でも書けば、読み手はおおまかに次の二つに分ける事ができるだろう。

 一つは意味不明で曖昧模糊とした冗漫な文章に嫌気がさしたクリッカー。その指は次なるサイトを閲覧するためにマウスの上にある
。もう一つは、興味半分で速水もこみちとした(また客寄せ蟻地獄表現か)饒舌さに好意を持ってくれている奇特なーいや、心優しいあなたである。

 もしかすると、貴重な時間を割いてこれまでの全ての駄文を多分多文に読んでくれたのであれば、どこかのホテルの社長以上に頭を下げよう。ありがとう。浜村淳です。

 ネタは新鮮なうちに使わないと死滅する。寿司と同じである。きっと、リアルタイムで読んでいる人には通じるネタも、関西人以外でニュースも見ないような世代には何の事か分からないに違いない。

 ショートショートの神様として知られる星新一さんは、時事ネタを使う事を自ら禁じていた。だから星さんの作品はSFの設定が多いにも関わらず古びない。生前は表現に手直しを加えられていたと聞くが、普遍的なテーマは古さを感じさせない。日本の長寿アニメと言えば、サザエさんだが、家電スポンサーにも関わらず、家にある電化製品は一向に新しくならない。DVDレコーダーなんて半世紀後にでもならない限り登場しないのではないかと思う。調度品も然り。

 しかし、それがサザエさんサザエさんたらしめる表現法なのである。サバをしめても、タラをしめる事などきっと無いだろう。サザエさんにとって全ては記号である。季節は存在するが、そこで語られる話題もまた形骸化した予定調和である。

 このように書くとサザエさんに対して罵詈雑言を吐いているようで、たたでさえ版権問題に厳しい、過去に訴訟も起こしているサザエさんに敵対しているようであるが、ここでオセロを反転させて頂こう。なぜなら、これらのちんぷん漢文の牛歩戦術的表現は全て賛辞なのである。

 つまり、たらしめるとはアイデンティティの確立なのであって、個性の象徴なのである。( )つけて書いても中身が伴わないこんなブログとは違って、普遍的な表現と話題が逆に作品の鮮度を保っているのだ。テレビと聞いて思い浮かべる物は人それぞれである。しかし、そこで誰もが分かるテレビという記号は四角いあの物体である。サザエさんの世界には全編そういう表現技法が満ちあふれている。
 
 金田一耕助という人物を作者の横溝正史は最大公約数的人物と語っていた事がある。あくまで私の記憶力が正しければだが、確かそう言っていた。その証明にもっと文章を費やしてもいいが、ただでさえ脇道にそれているのに、このままけものみちに入る事は松本清張ファンが黙っていないだろう(また時事ネタか)。

 では、その意図する事は何かと言えば(金田一の話である)、彼は名探偵とは言われても、超人ではない。もしも彼が非常に優れた人物であるのなら、殺人事件は多発しないはずだ。でも物語の中では第二、第三の殺人事件が続発するのである。もちろん、ウルトラマンがいきなりトドメの一撃を喰らわせたり、水戸黄門が印籠を突然出したり、金さんがもろ肌を脱いだりすれば、話の盛り上がりに欠けて、悪い輩も出て来ないだろう。お約束という奴である。金田一探偵はあくまでも普通の人達の能力を最大限に集約した人物なのである。と言っていたはずだ(語尾に力が無い)。

 迷う前に戻ろう。

 サザエさんもまたそのような最大公約数としてのシンプルさを持ち得ている。シンプルというのが実は奥深いものだという事はテトリスをプレイすれば分かる事だ。上海でも、ぷよぷよでもいい。

 もう少し戻ろう。

 星新一さんの作品の普遍性と反比例するこのブログの今回の出だしは支離滅裂な時刻表示から始まった。これが分かった人はDSユーザである。そして、このブログを丹念に読んでくれている人だ。謎は解けた。じっちゃんの名にかけて。

 伊藤くんは今朝もまた『もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング』をプレイしているのである。分かるかそんなもん。しかも朝かいっ!と、ここまでの文章を思いついて何とかトレースできた事に今ホッとしている私は記憶力がいいのだろうか。それとも単なる変人か。それともこのソフトのおかげだろうか。任天堂に抗議されそうだ。そもそもこれは伊藤くんのお話のはずである。混同してはいけない。

 TRAINと言えば「列車」であるが、これは名詞の一番ポピュラーな意味であって、英語の場合には動詞の意味が隠れている事も多い。TRAININGと言えば「訓練」とか「練習」の意味で、これがトレーニングである。だからHe trained a dog for the race.と言えば「彼はレースの為に犬を訓練した」という意味になるわけだ。こんな簡単な単語でも使われる位置によって意味が変わるから文法は必要だ。規則変化動詞である事が分かれば動詞ようと迷う事も無い。
 
 伊藤くんの話である。

 先ほど彼が夢中になっていたのは、<時計判断>というトレーニングメニューだ。これは上下左右に反転したアナログやデジタル時計を読み取る問題である。

 これが意外に難しい。これは伊藤くんのつぶやきである。前作にも<時間計測>というものがあって、上下に並んだアナログ時計の時間差を答えるという問題があった。今回も似たような問題で、今日の4日前の昨日は何曜日?とか、今週の月曜日は何月何日?など頭の中のカレンダーに消しゴムがかかっている人間には難しいトレーニングが収録されている。

 伊藤くん、実は時計の読み取りが苦手だった。この場合の時計とはアナログである。伊藤くん家の目覚まし時計のような変わった物なら(詳しくは過去のブログを参照してね)いざ知らず、普通デジタル時計の読み取りで迷う人はいないだろう。表現のうまい文章というのは、余計な事を書かなくても誤読されない表現の事をいうのかもしれない。

 ところで伊藤くんの家にはデジタル時計しか無かった。だから、アナログ時計を見たのは小学校が初めてである。より正確な表現を試みるなら、アナログ時計というものの存在を意識したのが小学校だったという事になる。まだ低学年の話である。但し、ここに少し悲劇があった。彼は、時計の読み方を習う授業をたまたま休んでしまったのだ。

 だから、そういう時計がある事は、みんながその授業で習ったという話題から分かったけれども、読み方が分からない。3時とか6時とかきっちりした時間は文字盤の短針の指す数字を見れば分かるらしいという事は見当がついたけれども、1時37分あたりになると2時なのか1時なのかもう怪しい。これは、九九を覚えていない人が高額紙幣をレジに出すのに似た暗中模索の手探り状態であり、恥ずかしくてなかなか聞けないまま何とか過ごしてきた人間にしか分からない不安感なのである。
 
 彼は先ほども書いたようにデジタル時計家族であったので、幸いにもアナログ時計に触れないで過ごす事ができた。しかし、運命は時に残酷な顔を覗かせる。

 中学のある体育の時間に時計の見えない位置にいた先生が何気に伊藤くんに時刻を尋ねたのだ。校庭にあるのはもちろんアナログ時計である。しかも先生との距離は少し離れている。一瞬、伊藤くんは自分のポジションを悔やんだが、時すでに遅し。いや、まだ午前中だ。しかし、時計の針は無情にもさらに悪い位置にある。

 クラスのみんなのいる前で、相対性理論を証明しろと言われているような最悪の状況だ。こういうのを針のむしろ言うのだろうか。まな板の鯉でもいい。頼む、誰かさばいてくれ。

 この時、伊藤くんは確かに刻の涙を見た(アニヲタにしか分からない、他は推察なされよ)。

 一頃、Mr.ビーンという作品が流行った。ローワンアトキンソン演じる奇妙な紳士がブラックユーモアに満ちた行動で笑わせるイギリスの喜劇である。その中で教会でハレルヤ〜という歌を歌うシーンがあった。ビーンは実はその歌を知らない。

 しかし、それはあまりにも有名で知らない人はいないという歌であったため、今さら人には聞けない。というより、もうみんな歌い始めているのだ。そこで、彼は何となくごにょごにょとそれらしき歌を即興で歌い、調子を合わせる。そして、ハレルヤというサビの部分に至った時、ここぞとばかり大声で歌い上げるのだ。ところが音程の違いで一人浮いてしまい、笑いを誘う。

 誰にでも似たような経験はあるのではないだろうか?

 伊藤くんもこれに近い行動を取った。彼は何とか聞き取れる程度の声で時刻を告げた。しかし、先生には聞こえなかったようだ。音波としては耳に届いているのだろうが、意味が分からない。まさかこの世に時計の読めない中学生がいるなんて想像さえしていないから、先生は重ねて志村けんのように「あんだって?」と聞き返す。

 背水の陣とはこの事である。絶体絶命。窮鼠猫をかむ。かまない、かまない。かんでる事でごまかそうとしても時刻を知りたい先生の前では通用しない。時刻の地獄である。

 どうしよう。このままではみんなにおかしいと思われてしまう。穴があったら入りたい。掘ってみようか。もっと変だろうな。

 と、そこで天から助けが舞い降りた。きっと窮状を見かねた神様が同情したのだろう。つまり、チャイムが鳴ったのだ。この時ほど、チャイムに感謝した事は無い。

 実はこれと似た事が高校生の時にも起きた。しかも二回も。

 一つ目は運動会の本番でビリから二番になった時だ。実は伊藤くん足が速い。小学校の時はリレーでアンカーを勤めた事もあるくらいだ。元々、奈良の山育ちの人間である。足腰は自然に鍛えられている。しかし、高校に入って帰宅部に属した結果、運動不足がたたり、前日の体育の時間の予行演習で筋肉痛になってしまった。そんな恥ずかしい事は誰にも言えない。そして、本人は少し足が痛いなと思ったけれども、まさかそれが筋肉痛だとは思ってもみなかった。若気の至りである(何か違う)。で、結果は無惨にもみんなの期待を裏切った。前日に彼の足の速さを見た人間には不思議だったはずだ。

 もう一つはある国語の授業で黒板の文字を読み上げなければならなかった時だ。一番後ろにいた彼には文字が読めなかった。だから、彼は視力補助用具であるところのメガネを使った(関係代名詞か)。ところが、運命は皮肉にも彼の予想を裏切った。席替えをしたばかりという事もあったけど、視力が思いのほか落ちているのだ。つまり、メガネの度が合っていない。だから文字はやっぱり見えない。

 しかし、まるで視力検査のように指し棒で文字を示している先生には彼がなぜ答えないのかが分からない。先生からすれば答えはここよと、まるでからくりテレビのさんまのように「それをまとめて言うと何?」「だ・か・ら!」と、もう喉まで出かかった答えを言わせたくてたまらないのである。今や教室では先生を含めて、クラス中の生徒が彼の発言をかたずをのんで待ちかまえているのである。つまり、みんな色メガネで彼を見ているのだ。いっそこのメガネがサングラスなら納得してくれるかもしれないのにと考えながら、彼は再び刻の涙を見た。チャイムは鳴らなかったのだ。

 このように人には当たり前に思える事でも、当事者には当事者の事情というものがあるものなのだという事を伊藤くんはこの時自らの経験で悟った。人間の幅が広がったという意味では学校で教えてくれない勉強をした事になるだろう。もっとも学校で学んだのだけど。

14
 朝の電車は相変わらず混んでいる。そして、みんな一様に急ぎ足だ。駅の階段を脱兎のごとく駆け上がる人々。二段飛ばしで登る若者、ハイヒールを器用に操ってつま先でくのいち忍法を披露する女性(男性は想像したくない、朝からケインだ)、どこにそんな体力が残されているのかと目を疑う老人。ところで我らが伊藤くんはと言えば、ゆっくりと足を交互に運んでいる。以前にも書いたけれども、彼は電波時計並みに時間に正確なのだ。それはつまり、何事にも余裕を持って行動するという事を意味する。

 彼には遅刻という二文字は似つかわしくない。次の日の準備は、前日の夜に済ませるし、課題は提出期限の何日も前からすでに出来上がっている。ただ、周りの人を気にして提出日になるまで出さないだけなのだ。従って、朝も比較的時間にゆとりがある。通学電車も2本くらい早めである。人から見れば変わっているかもしれないが、彼の方から見れば、よく毎朝走れるな〜と感心しきりなのである。とは言っても、朝早くから吹きすさぶオープンカフェで英字新聞を読むような人間にはもっと感心する。世の中にはいろんな朝の過ごし方があるものだと思う伊藤くんであった。

 ところで伊藤くんの通学電車の過ごし方であるが、まずiPODで音楽を楽しむ。もちろん携帯電話やPDAにも音楽は入っているのであるが、くるくる回してポンと選曲する快適さには適わない。音声ニュースも自動録音されているので、地下鉄でも何の支障も無く聞ける。映像も見られるのは携帯も同じだが、ネット経由で海外の番組まで落として見る事ができるので少し得した気分になれる。

 時間と空間に余裕があれば読書をするのはもちろんだが、伊藤くんは何か思いつく度に携帯にアイデアを放り込んでいるので、それを整理してメールでパソコンに飛ばして保存する。アイデアを整理するにはこういったスキマ時間がちょうど都合がいい。移動オフィスと言ってもいいだろう。これなら片手で文章を書く事も苦にならない。と言うより元々そういう風に作られているのだから当たり前だ。

 携帯が不便だと言う人はこの親指ダンスレボリューションが苦手なんだと思うけれど、伊藤くんの携帯には仕掛けがある。もちろん、またまた親戚の会社の試作品である。まず携帯を机の上に置き、90度に開く。少し暗めの場所がいい。そうすると机の上にキーボートが浮かび上がる。画面から投影されているのだ。そのキーボードの上に指を置くと、画面から出された光を遮る事で文字の位置を感知する。

 つまり、両手で入力できる携帯なのである。折りたたみキーボードが別売りされている携帯やスライド式でキーが飛び出す携帯もあったけれども、ちょっと携帯からかけ離れているなというのが伊藤くんの正直な感想だった。そこで、ある展示会で見かけたこの最新技術を親戚のおじさんに話したところ試作の段階までこぎつける事になったのである。伊藤くんは毎度の事ながら、バイトでモニタリングしているのだ。

 車窓から見える風景は、手前の景色と遠くの景色が少しずつズレて行く。伊藤くんはある時テレビゲームをしていて多重スクロールという言葉を知った。それが現実の風景として眺めていると実感できる。この風景のズレが奥行きを感じさせるのだ。中学の美術の時間に遠近法というものを習った時、とても不思議な感じがした事を今でも鮮明に覚えている。伊藤くんにとってはそれ程インパクトがあったのだ。よく子どもに絵を画かせると、建物は全て四角い図形の羅列になる。ヘリコプターの回転翼も楕円形というよりも丸い図形が上に乗っかっている。

 もしも誰にも習わずに遠近法を用いた図形を描ける子どもがいたら、その子はかなり精確な空間把握能力を持っているという事になるだろう。あるいは三次元の映像を二次元に置き換える能力が卓越しているという事か。ある有名な絵画に小さな穴が開いていた。そこから少し光が漏れていたのである。これが謎として話題になった事があった。その答えがこの遠近法である。

 伊藤くんは時々、昔の人達の英知に驚嘆する。ナスカの地上絵、ピラミッドや神殿の数々。ミステリーサークルだって地球人の作品だと伊藤くんは思う。でも、よく考えてみれば現在使われている測量術も作画法もその先達の技術の改良の上にあるのだ。昔だからできないのではなくて、昔からできたのだ。名曲と言われる楽曲の中にもアレンジの古さを感じさせない、それしかあり得ないような曲が存在する。

 ネットも無かった時代、人々は毎日発見の喜びに満ち満ちていたのではないだろうか。たとえ世界のどこかで同じような発見があったとしても、喜びを共有できる範囲はそう広くない。栗が落ちていた。いつもはトゲトゲがあって、ただのいたずら道具でしか無かったものが、食べ物に変わる瞬間。偶然、中身の物に興味を持った先人達。きっと、世界のあちこちで誰もが生活に宝探しゲームを見出していたのではないだろうか。坂よりも階段が登るのに適している。山を登っていて、自然の隆起にそう感じた人もいるだろう。あるいは毎日食べる物は無いかと躍起になって探して命を落とした者もいるだろう。

 ふだん空気のように感じているものが、どこかの誰かの思考の結晶によって成り立っている共有感を感じながら、悠久の時に思いを馳せる伊藤くんであった。電車は照れ隠しのように地下へと潜って行った。

15
「おはよう」ヒトシが部室という名の食堂に入ってくる。
「うん、おはよう」
 薄いカーテン越しに透過する寝ぼけた朝の日差しを背に伊藤くんが挨拶を返す。
「朝の講義は無いの?」
「うん、俺今日は昼から経済学」
「へー、そうなんだ」
 扉が開く。
「伊藤くん、おはよー」春のイメージにぴったりの淡いピンクでコーディネートされた洋子さんが爽やかな笑顔と共に現れる。
「お、おはよー」
 つられて語尾を伸ばす伊藤くんである。ちょっと照れている。こうして今日も青春のメモリアルに新たな入力作業がなされていく。伊藤アーカイブにはこのような甘いクリームシチューがたくさんあるのだ。
「俺、ちょっとタバコ買ってくるわ」
 ヒトシが慌てて席を立つ。
「うん」
 伊藤くんは一瞬、躊躇する。躊躇って英語でhesitationだっけ?
ん?今何が心にひっかかったのだろう。その思いは洋子さんの言葉に遮られる。
プルートウの最新巻読んだ?」
「えっ?」
プルートウよ」
 頭の切り替えスイッチがうまく作動しない。
 ああ、PLUTOか。
 手塚治虫の名作マンガ鉄腕アトムを鬼才浦沢直樹がリ・メイクというかリ・イマジネーションした作品である。
「まだだけど」
「うんうん、そう思ってここに持ってきたわけよ。コンビニのできたてほやほやよ」
 朝からテンションが高い。きっと速聴プログラムでも聞いて頭の高速回転が働いているのだろう。そうだ、今日はまだ速聴していなかった。後で、高速音声を聞かないと。
「ん?嬉しくないの?」
「あっ、嬉しいッス!」
何で体育会系なんだろう。ペルソナの入れ替えが激しい。
「やっぱ、ゲジヒトの視点というのが斬新よね〜」
「うん、確かに」
「どうやったら、あの作品があんな風にサスペンスタッチになるんだろうとか思うと、もうページをめくる手が震えるの」
「あっ、俺もそれ賛成!」
タバコの煙を吐きながらヒトシが瞬間移動で現れる。孫悟空にでも習ったのだろうか。
「でしょ、さすがヒトシ人形」
当然、三人とも原作を読んでいるという前提での会話である。常人が口を挟める空気はすでに無い。
「MONSTERの時も毎回コンビニ行く度に鼓動が高鳴ったもんよ」
「そうそう。逃亡者みたいだけど、もう出てくる脇役がたまんないのよね〜。あれってパイナップルアーミーやマスターキートンの時に学んだ手法なんだろうけど、もう出てくるエピソードの数々が最高にキュートなわけよ。まるで洋画サスペンスを見ているようなカット割りにリスペクトの連続みたいな」
日本語か、これ。
「オマージュだと思うな。逆に向こうで実写されるって話だもんな。浦沢さんの絵って、向こうの人にも全然違和感ないんだろうな。俺なんか20世紀少年の方が三丁目の夕日みたいでしっくり来なかったもんな〜」
「アトムとウランの絵にもびっくりしたよね。なかなか出てこないしさ」
「俺はお茶の水博士かな。でも名作なのはすでに間違いなし!」
 知識の見本市はまだまだ続きそうである。
「そうか!」突然、伊藤くんが叫ぶ。
「えっ?」
 二人の視線が伊藤くんに集まる。同じセリフがステレオで飛び出す。聖徳太子で無くても判別は容易である。
「あっ、ごめん。ひとりごと」
「何じゃ、そりゃ」ヒトシの手はすでにつっこみの形になっている。
「まっ、いっか」洋子さんの優しい愛の手が入る。
「アトムの場合はさー」
 ありゃ違うのか、単なる相の手か。
 二人のヲタ会話はどんどん加熱する。
 伊藤くん、その熱気で疑問が氷解したのである。
つい先ほどまで、頭の中ではいい日旅立ちが流れていたのだ。

「え〜、みなさんおひさしぶりでございます。新畑任二郎です。今回の伊藤くんの疑問がお分かり頂けましたでしょうか?ヒントは挨拶。続きはCMの後で。新畑任二郎でした」

 相変わらず、パクリである。模倣小説と言えば聞こえはいいが、清水義範さんのパスティーシュ小説とは程遠い。

「あのさ、二人ってここに来る前に会った?」
ヲタ話に水をさされて少し不機嫌そうな二人のアイビームを手で防ぎながら、伊藤くんは質問する。
「うん」
「それがどうしたの?」
「いや、ありがとう」
 納得顔の伊藤くんである。
 そうか二人はケンカしていたわけではなかったのか。すでに挨拶を交わしていたのだ。ヒトシが慌てて席を立ったのはきっとトイレにでも行きたかったのだろう。

 言葉にできない気持ちというものはあるものだ(きっとそれは大きく間違っている)。伊藤フィルターにワイパーがかかった出来事であった。今日もどこかでまた当事者の事情が誤解を招いているかもしれないなと苦笑いする伊藤くんであった。

16
「ちわっす!」
 また新たに人格不確定人間が登場した。カズだ。
「どしたん?今日はやけに早いやん」ヒトシが声をかける。
にやりとしながらカズが伊藤くんの横に腰を下ろす。
「まっ、そういう時もあるわな。で、何の話でヒートアップしてるわけ?」
 どうやらこの男はサーモグラフィが無くても熱を感知するらしい。
プルートウの話よ」洋子さんの目が新たな獲物をハンターしようと輝く。
「おっ、マンガの話か」カズ点火モードだ。
「僕はブラックジャックによろしくも好きだけどね」伊藤くんがクリームパンをぱくつきながらしゃべる。
「なるほどね」カズがうなずく。
 伊藤くん苦笑い。
「なになに。二人怪しくない?」洋子さんがひやかす。
 アトム→手塚治虫ブラックジャック。伊藤くんの思考回路がカズには伝わったようだ。
「俺はリアルかな」
 確かにお前はリアルヒトシ人形だ。
「うんうん。あれも凄いね。1年に一冊だもんね」
「そう。年一冊なんてこち亀だったら、100年軽く超えるもんな」
 おいおいどんな発想だよ。
「リアルってあのスラムダンクの、だろ」
 バカボンドも有名だぞ、っと。
「障害者バスケって着眼点がすごいよな。俺にはマネできんわ」
 お前はマンガ家じゃないって。
「伊藤くん、さっきから何ニヤニヤしてるの?」
「あっ、いや何でも無いよ」
「へんなの」
 うん、変かも。
「研修医の給料ってホントにあんな安月給なのかな〜」
 話を戻す伊藤くんである。
「そうなんじゃない。まっ、我が大学には残念ながら医学部が無いわけなんだけどね」洋子さんが残念そうに眉を寄せる。
 やっぱ女の人って医者とか弁護士に弱いのだろうか。
白い巨塔とかリアルやもんな〜」カズが感心したようにつぶやく。
直木賞作家・山崎豊子か」ヒトシが口を挟む。
 知っている事は解説しないと気が済まないのがオタクの習性である。
「あのドラマ面白かったもんね〜。妻夫木サイコー」
「洋子さん、話ずれてる」伊藤くんすかさずフォローである。
「あっ、そう?ブッキーじゃないの?」
「それはブラよろの方です。今は白い巨塔の話」ヒトシも負けずにフォローする。
「ああ、あれね」洋子さんしたり顔である。
「まっ、どっちもお医者さんの話ですけど」ぼそっとつぶやく。どうやらスーパーヒトシ君はクリボーに当たってしまったようだ。
「大学病院って何か怖いな」カズが続けた。コーヒーの缶はすでに灰皿に変わっている。
「全然、話変わるけどさ。今日カラオケ行かない?私、面白いお店知ってるんだ」洋子さんとっておきのスマイルである。保険のセールスなら迷わず秒殺されそうだ。
「俺はええけど」ヒトシ一番乗り!キノコゲット!
「僕もいいよ」バイトも無いしね。
「ん、決定か?」カズがとぼけた表情で答える。
「やったー。じゃ、決まりね」腕時計に目を落とす洋子さんもなかなかかわいい。
「って事で、授業に行ってきまーす。またね」
「じゃ、俺たちもお開きにするか」カズがしめる。
「ほーい」伊藤くんがおどける。
「しゃあないな〜。ほなまたな」ヒトシも渋々席を立つ。
 主を失った机はしばらくして元の表情を取り戻した。

 時刻はすでに夕方である。日が落ちるにはまだまだ早い。伊藤くんたちにとっては今からが始まりである。一日が三日分に感じられる程、彼らは忙しい。朝昼晩晩晩だ。とぼけた顔して。このまま時が止まればいいのにと思う毎日が彼らにはある。もしも時が止まれば日本経済はどうなってしまうのかという事には全く関心の無い四人が今ここにいる。

「で、どう面白いんだその店は」カズが横目で洋子さんを見る。
「ふふ、それは行ってからのお楽しみ」
「行けば分かるさ、か」ヒトシがうなずく。
 猪木か、おい。
「何歌うか決めてきた?」
「いや、特に」
「そう言えば、カズの歌って、聞いた事ないかも」
「じゃ、あいつらのは聞いた事あるのか?」
「うん。ねっ?あるよね」伊藤くんに同意を求める。
「あるよ」
「どーせ二人はアニソンだろ」
「せいか〜い」洋子さんが笑いながら指でOKのマークを作る。
「で、洋子はジャニーズメドレーと」
「そそっ」
「あと宇多田ヒカルaikoかな」
「ありそうだな、いかにもって感じ」
「でもなかなか洋子さんうまいんだよ」
「へ〜」
「あっ、失礼ね。声に力が無いわよ」
「はいはい」

 梅田の繁華街はようやく目を覚まし始めたようだ。きっと夜更かしが過ぎるのだろう。気の早い背広姿のサラリーマンが意気揚々と居酒屋へ入って行く。まだまだ働けそうな勢いだ。
「ここよ、ここ」洋子さんが指さし確認を行う。
 派手なネオンにカラオケという文字が映えるビルに入り、エレベーターのボタンを押す。
「何階?」一番前を歩いていたヒトシが聞く。
 通り過ぎた時に見たサインが映像で浮かぶ。
「三階だよね」
「そうよ」
 ここで伊藤くんは子どもの頃に行った遊園地を思い出した。
 ある秘密基地に案内される。コンパニオンのお姉さんが奥のエレベーターへと誘導する。左右に開かれたドアの向こうは少し手狭な空間である。お姉さんのアナウンスと共にこれから地下10階の深層部へと向かうのだ。さすがは秘密基地である。遊園地にそんなもんあるかと思うほどすれていない幼少期の伊藤くんである。
 ふと見上げるとフロアランプが点滅している。
 B1、B2、B3…
 チンという電子レンジのような音がして、B10と表記されたフロアランプが光る。深層部に着いたのだ。この時、伊藤少年は妙な違和感を覚えた。違和感は妙な時に感じるから違和感なのだが、それはともかく体感速度とフロアランプの表示速度に誤差を感じたのだ。
 伊藤少年はその後、ドアの向こうに広がる怪しい色のランプが光るコンピューターらしきものに目を奪われたけれども、そのアトラクションから抜け出すとさっき感じた違和感について考え始めた。
 そして、たどりついた答えが実際は地下1階分くらいしか無いのにフロアランプの表示によって錯覚させられたのだという事だった。   
さすがに予算の都合とまでは考えなかったけれど、なかなか面白いアイデアだなと思った。
 
 随分後になって、ヒッチコックの映画で高層ビルから落ちていく人をどうやって撮ったかという種明かしの番組を見た事がある。
 一番簡単なのは、人が落ちていく所をフィルムに収める事だろう。しかし、ヒッチコックはその発想を逆手に取った。何とカメラを垂直に一気に引き上げたのである。役者の目線から見れば確かにカメラは上に移動する。ではこれをカメラから見た場合はどうか?
 そう、それが答えだ(BGMにはウルフルズが最適だ)。
 そんな事を久しぶりに思い出した。
 
 サイレンというゲームがある。映画化もされ、シリーズ化されているホラーゲームだ。屍人(しびと)と呼ばれるゾンビ状態の村人とのサバイバルアドベンチャーゲームである。このゲームが斬新なのは視界ジャックという一種の超能力にある。これは敵に憑依する形で相手の見ている視点と同化できる能力だ。通常のホラーアドベンチャーと言えば、俯瞰図か後方視点である。それだけでも十分に怖いのだが、それはあの角を曲がった先に何か潜んでいるかもしれないというおばけ屋敷の怖さである。
 
 人の演じる事で話題になったお化け屋敷があるが、もしもお化け役を務めていたら、きっとその人はドキドキするはずだ。その緊迫感だけでも十分ホラー効果がある。それに加えて、それぞれの屍人の断片的な視界から得られる情報が頭の中で自分の現在地との相関関係を無意識に組み上げる。頭の中の白地図がリアルタイムで書き換わる臨場感、それこそがこのゲームの醍醐味である。
 
 見る者と見られる者、同じものでも視点が異なれば全く違った表情がある。カラオケルームに設置された監視カメラの向こうではどんな顔が覗いているのだろう。