<小説のお時間>伊藤くんのひとりごと

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 さて、ここで作者の物語リモコンを持つ手は一時停止ボタンに触れる。この比喩表現は適切だろうか?メタファーも何もあったもんではない。極めて感覚的というよりマンガ的な陳腐な表現ではないだろうか?
 と書いてみて、「?」よりも「。」の方がいいのだろうか(この後には不要かな)としばしば思い悩む作者である。そもそも作者とは物語においては神のような存在であって、頻繁に登場するのは読み手を混乱させるだけではないか(ここで悩む)と思うのは私だけだろうか?(と一般化して逃げるのはもはや常套手段だ)
 ここまで書いてみて実はそのような疑問が火山からわき出る溶岩のごとく噴出しているのである(この表現はイケてるのか?)。
 そこで、ここからしばらくは素人ならではの小説を書く上での疑問や留意点を自らの経験を踏まえながら書き綴りたいと思う。

 すでにこの節の中にも「思う」という表現の重複や( )と句読点の位置など、気にかかる事は多い。表記の統一性や整合性から「など」を「等」に改める事はパソコンの編集機能を使えば一発で検索・置換ができるものの、一括して行えば偶然の文字のつながりや文章の見た目に思わぬ影響が出るかもしれない(この語尾も私の文章には多いのが気がかりかもしれない)。

 例えば、私等には漢字が続くと「等」は違和感を感じる(これは親父ギャグではない)。特に人名の羅列がつながると見苦しい。青木裕二、竹中平三、小林秀夫、石田純一等、と書くのは私にとっては何か居心地が悪い(何で最後だけ人名表記が一致してるのだ)。私と書きながら、僕と書きたい時もあるし、どっちでもいいか等と思ってしまう。
 この場合、「など」ではひらがな続きで頭が悪そうな文章に私などは思ってしまう(ここはやっぱりひらがながいい)。
 重複表現と言えば、「違和感を感じる」という表現はすでにかぶっているのであって、「違和感を覚える」の方が適切だろう。「手慣れた手つき」はやはりおかしい。的を得たーもとい、的を射た表現ではない。誤字・脱字というのも気になる。ら抜き言葉と言われる「れる・られる」や、い抜き言葉(今作ってみた)の「愛している・愛してる」は脱字に当たるのか否か。この辺りは個人の感覚に左右される事が多いだろう。
「事」と「こと」、「所」と「ところ」、「と言う」と「という」等は常に逡巡表記ランクの上位を占める。
 作者独自の表記の統一にも気配りが必要だ。「例えば」を「たとえば」と時々変えてみたり、「つっこむ」がある箇所では「ツッコむ」となっているのは文章を推敲していないと思われても仕方が無い(と言っていつ使うか分からないそれらの気まぐれ表記を辞書登録するのも難しいから機械任せにはできないとつっこんでおこう)。

 と言ったような事を(二度悩む)しばらく書いてみよう(と言ってすでにかなり書いている)。この( )書きも時にはうざいし、ストーリーの妨げになっている事も重々承知である(です・ます口調と断定のどちらかでまた悩む)。うわっ、何だか書けば書くほど、書いた側から、これでいいのか?と悩みまくりでございますですだ。

 ところで、前回カラオケの話を書きながら悩んだ点を挙げると、それは歌詞の表記である。いくらマニアックなブログと言えども、不特定多数の目に触れる公共性のある文章の中では歌詞表示も立派に著作権に触れる。また文章の引用にも出典元はできる限り明示する方が誠意も伝わるだろう。そこで、作者の使った姑息な手段は?と言えば、歌詞表示を別の言い回しにするか、もしくは意味の無い言葉の羅列にしてしまうという事であった。ららら〜。しかし、これも大黒摩季から訴えられそうである。
 このような舞台裏を赤裸々に語る事は作品のリアリティを崩し、ひいては作者の貧弱な知性をさらけ出す事でもあるのだが、しょせん素人の書いたブログであるし、元々リアリティのかけらも無いので、伸び伸びサロンシップ並みにこのような駄文を安心して連ねる事ができる強みがある。まるで素人参加番組のような図々しさだ。 

 うーむ、今日も快調ロプロスである。ポセイドンは海を行け!ロデム変身地を駆けろ〜。つまらない。実につまらない。もっとつまるように書かなければ、次第に読者の興味が削がれていく。ギャグという(言う?)のは共通の土俵に上がっていなければ成立しない。
 それはつまり、書き手と読み手が感受性においても同等かそれ以上である必要がある。それ以上というのは、目線を落とせば合わせられるという意味だ。両者の距離があまりにもかけ離れていた場合には、読んでいても楽しくも何とも無いだろう。手塚治虫は大衆を笑い者にしない事を信条としていた。確かに彼の作品は人間に優しさや温かみを感じるものが多い。しかし、こちらは笑われているのだ。根本的に何かが違う。

 時事ネタと普遍性についても気にかかる。作中では星新一さんの話を引き合いに出したのだが、一過性のものは飽きられるのもまた早い。ギャグもその一つだ。擬音語や擬態語の多用と同様に作品の低俗化を招く。デジタル機器やタレント名・はやり言葉を連発する文章は自殺行為に等しい(ってこのブログの事か)。
 普遍性があれば作品は時代を超越する。文学作品が残っているのは、そこに人間の根源的とも言える苦悩や生き様が描かれているからだろう。雑誌や新聞記事ならば流行が主体であっても構わない。しかし、小説となるとある程度の普遍性がなければ残らないに違いない。だからエンタメ系の本は自然淘汰率が高い。単に売れればいいのか、せっかく書いたのだから多くの人に読まれたいのかでその作品の方向性も変わるだろう。ちなみにブログは消費メディアに近いので、読み返される事は少ないと思われる(と弁解)。

 ところで文章は通常、各行の頭を一マス分下げるのが決まりだが、ブログの場合は適当な所で、行を空けないと読みづらいようだ。おかげで作者の意図しない行間を読まれる事も多くて困りまんねやわ。

 数字の表記を漢数字にするかも迷う。そもそも数字や横文字はこのブログのように横書きでは違和感が無いが、縦書きではかなり変だ。作家の姫野カオルコさんは縦書きと横書きでは思考すら変わってしまうと語っている。今、この文章を縦書きに変換したとすれば、私の文章ももう少し高尚なものへと変わるかもしれない。

 視点の統一という事も気になる点である。一人称で書くならその人物が超能力者でも無い限り、相手の心理状態を書いてはならない。もし、相手の心理状態を表現したいなら「何かに脅えているようだ」とか「手元が震えている」と言った伝聞や客観的な表現にしないと統一感が無いだろう。そのような文章は読み手の混乱を招くだけだ。  もしも第三者の視点で書くならば、複数の人間をまるでカメラで写すように描く必要がある。

 一人称と作者の心中が混同するような表現も好ましくない。「やっぱり」とか「確かに」を無意識に使ってしまうが、それは読み手にとっては何が根拠でそのように思うのかを書かなければ、恣意的な文章になってしまうだろう。かく言う私も一晩置いて文章を読み返すととてもメール送信できない文章を書いている事があり、顔に水をかける始末である。もし本当に火が出れば始末書では済まないだろう。

 時制にも気をつかう。「〜した」「〜する」という文末に統一感が無ければ、ビフォー&アフターの区別がつかない。と言って、「〜した」「〜した」と連発するとただの説明文になってしまって面白味が無い。

 足が棒のようになった人は生まれてからまだ一度も見た事が無いが、擬人法や倒置法と言った特殊メイクを多用するのも読みづらいはずだ、きっと。口語調と文語調の混在もちょー読みづらいのではあるまいか(それはタメ口調だ)。

 セリフの後の人物の仕草をどう書くかについてもしばしば迷う。赤川次郎さんのように軽快なセリフとテンポで読ませる才能があればいいが、口調だけで発言者を表すのはなかなか難しい。女言葉と男言葉や自称語による年齢の差異(わしとかあたしとか)は比較的便利な表現法だが、セリフの後に発言者の名前を書く場合は仕草や行動を付記しないと台本のようになってしまう。仕草と言ってもバリエーションはそう多くない。そこで慣用句を使いたくなるのだが、「〜と肩をすくめた」なんて書いて、そんな奴見た事あるか?お前はオーバーアクションの外人か!等と考え始めると政治家の答弁と一緒でなかなか前に進まない。

 と言ったような事を私は毎回思いながらここまで書いてきたし、きっとこれからも書いていくのだろう。たったこれっぽっちの文章を書くのに、気が付けば二時間も費やしている。物語の一時停止もそろそろ終わりにしよう。とりあえず今日はここまで。ありがとうございました。