<小説のお時間>伊藤くんのひとりごと

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「私、ドリカムいっちゃおうかな〜」
 すっかりカラオケを満喫している洋子さんである。気が付けば、さっきからトリノオリンピックの実況レポーター以上にマイクを離していない。ワンウーマンショーだ。
「ねっ、ドリカムの初期の名曲に面白い語呂合わせの名曲があるんだけど知ってる?」
 洋子さんのつぶらな瞳が伊藤くんを真っ直ぐに捉える。ヴェールを取り、誓いの詞を交わす二人。ナンジハヤメルトキモスコヤカナルトキモー
「ねぇ、聞いてるの?」
「あっ、うん」少し顔が赤らむ。病んでいる。照明が暗いせいで洋子さんに分からないのが救いだ。
「でも、知らないな、ごめん」
「カズは?」
「俺も知らん」
「知らんな〜」聞かれていないヒトシまで追尾する。
「正解はこれよ」
 IT’S TOO LATEというタイトル表示と共に歌が始まる。
 サビの部分が流れた瞬間、伊藤くんはなるほどと感心した。内容は失恋の歌なのだけど、「いずれ」という歌詞とタイトルの発音が似ているのだ。そして、それはもう遅い過去の話なのだ。IT’S TOO LATE。なるほどうまくできている。
 伊藤くん、決して英会話が得意なわけではないが、洋画の字幕を見ながら感心する事が時々ある。まだあまり英語が分からなかった頃の話であるが、字幕というのは逐語訳だと思っていた。
 つまり、英語の全文をそっくりそのまま日本語に訳していると思っていたのである。しかし、実際は違う。なぜなら字幕というのは一目で捉えられる文字数というのがある程度決まっているからだ。だから、限られた時間の中で的確に情報を伝える必要がある。さらに雰囲気に合わせた訳を試みなければならない。その意味では学術論文のような一字一句を正確に翻訳する作業とは違って、ある種のセンスというものが求められる。ましてや吹き替え用の台本となると、声優の力による所が大きいものの、口調を揃えるためにさらに条件が厳しくなる。
 だから外国語が分からないからといって、何でも吹き替えで鑑賞するはその作品の魅力を味わい尽くせないと言える。文化の違いで日本語にできないニュアンスの言葉もあるのだ。仮に言葉が分からなくても雰囲気というのは感じられるものだ。鈴木孝夫という言語学者がその著書『ことばと文化』で「ことばとは氷山の一角である」と評したように、GODという単語が指す意味は国によって違う。言葉を表面的に訳したからと言って水面下の文化的背景まで移行できたわけではない。三国志が日本人に受けるのは、情愛が日本人の感情に近いからであり、逆にアメリカ文学が分からないのは生活環境がイメージしにくいからだというのは言い過ぎだろうか。おそらくドラえもん踊る大捜査線の面白さはあちゃらでは理解しにくいに違いない。

 カラオケの話であった。

 世の中には洋子さんのようにカラオケ好きの人間もいれば、カラオケなんてなぜ世の中にあるのだろうと撲滅委員会に入会したい人間もたくさんいる。そこでこの店のカラオケには本人のプロモーション映像がふんだんに用意されている。実は二つ向こうの部屋ではおばあさん達が集まって、美空ひばりのプチビデオコンサートとでも言うべきショーが開催されていたりする。そのまた隣の部屋でマツケンサンバの振り付けを一心不乱に練習している中年オヤジがいる事を伊藤くん達は知らない。

 一心不乱と言えば、伊藤くんはたまにゲームセンターに足を運ぶが、そこで凄いカップルを見かけた事がある。当時、そのゲーセンではダンスダンスレボリューションが流行っていた。音楽に乗せて現れる画面表示に従って、足下の四方向の矢印をリズム良く踏んでいくゲームだ。うまい人になると本物のダンサーかと思う足さばきでクリアーしていく。
 そこにカップルがいた。もちろんいても悪くないのだが、ゲームつながりで知り合ったようなさえないカップルだったのである。どちらかと言えば文系カップルという風貌の二人は、曲が始まるとその見た目の地味さとは裏腹に、周りがひくくらいのステップを軽やかに踏んだ。いや踏みまくった。まるで駄々をこねる小学生のように爽やかでない汗を流しまくっていた。このカップルにとってはこれがデートなのだろう。UFOキャッチャーではしゃいでいるようなちゃらちゃらカップルとは年期が違う。二人がどこで練習を積み、どのような会話を交わすのかなんて想像したくもない。
 ゲーセンという場所には一種異様な空気がある。何があったのかは知らないが、背広姿のサラリーマンがもの凄い勢いでリズムボタンを連打しているのを見かけると日本もまだまだ捨てたものではないな、いや捨てた方がいいかもしれないなと思ったりするものだ。
 ある時など、ヘッドフォンをした若者がプロドラマー並みに嵐を呼ぶほどの迫力でドラムを叩いていた。何が目的でと思いつつ、どこかで誰かに見せたい願望が彼らにはあるのだろう、きっと。

ことばと文化 (岩波新書)

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