<小説のお時間>伊藤くんのひとりごと
21
「カズも歌えば?」
入室から約1時間。洋子さんのジャニーズメドレーが終わり、洋子さんのドリカムメドレーが終わり、洋子さんのー
つまり、洋子さんが歌い疲れた頃、バトンは男性陣へと回される。アニメソングが歌いたくてうずうずしている二名の男をよそに運命の女神はカズへと微笑む。
そう言えばー
「そう言えば、カズの歌って聞いた事ないな〜」ヒトシが洋子さんが以前に口にした事を繰り返す。
「そっか、俺このメンバーでカラオケ行くの初めてか」カズがグラスに残ったレモンスカッシュを一気に飲み下す。
「じゃ、歌うか」
端末に入力するカズ。
ここのカラオケでは歌い始めるまで画面にタイトルは表示されない。手元の端末に表示されるのだ。つまり、入力者でなければ確認はできない。だから、洋子さんのドリカムクイズも答えは歌が始まるまでは分からなかったのだ。もっとも、タイトルを見たところで歌を知らなければ答えられなかったのだけど。
「へぇ〜」伊藤くんが声をあげる。曲が始まったのだ。
タイトルは「さくら」。
森山直太朗ではなく、ケツメイシである。
「うまっ」ヒトシが叫ぶ。と言って、料理に舌鼓を打ったのではない。そもそもフード類は何も頼んでいないのだ。
「すごい!」洋子さんが感心した様子で手をたたく。
ラップの部分まで完璧である。一瞬、CDが流れているのかと耳を疑ったくらいだ。天はまたこの男に味方している。二物も三物も与えて、まだ足りないというのか。宝くじに当たった人間が、ロトでまた大金を手にして、使い道が無いので株を買ったら、またしても大もうけみたいな。世の中つきまくりの人間、それがカズなのだと伊藤くんには思えて仕方が無い。
ここまで来ると、乾杯である。いや完敗である。時々、電撃入籍ニュースに、本当に電撃が背中を走る時があるが、そういう時は大抵、なんでこんなに美しい人がこんなさえない男に?という悔しさからだ。広瀬香美のロマンスの神様ではないが、拳握りしめる僕である。
自分に近い(と思える)男が絶世の美女のハートを射止めるというのはどうにも胸ヤケがする(胃薬でも飲んだ方がいいのかもしれない)。しかし、例えば仲間由紀恵のお相手が速水もこみちのようなルックスを持ち、資産家で医者というようなスーパーサイヤ人3であれば、どうぞどうぞ持ってって下さい。わしらのような者には到底望むべくもございません。へへ〜と土下座してしまうのが一般男性のアベレージではないだろうか?
と伊藤くんは思うのである(すり替えてないか)。
「すごい!すご〜い!」洋子さんおおはしゃぎである。能ある鷹は爪を隠さなくてもいい。二枚刃も三枚刃もあるのだから隠しようも無い。ひげ剃りだったら大人気だろう。
その後もDef Techやミスチルなど、スキの無い作りでカズの株価は急上昇していくのであった。これが女性に好きと言わせるスキなのか。
ヒトシももはやお手上げである。こうなるとアニソンはただの場つなぎである。伊藤くんはと言うと、PDAにまた図を書き込んでいる。おいおい、だから株価が下がるんだって!
こうして当初洋子さんにサーブ権があったカラオケは、カズの独壇場となってお開きとなった。
レジに向かうと、いつの間にかカズが先頭に立っている。入る時は確かヒトシが先頭だったはずだ。
「お会計の方が7000円になります」
「一人1750円か」とつぶやき、「じゃ、これで」とカズが一万円を差し出す。
スマートな男とはヒトシのような体型の逆を指すのではなく、このような男を指すのだろう。
店から出たところで精算が始まる。酔っぱらいのおじさん達がお金を差し出しながら辞退しているところを見ると、横から持って行ってやろうかと考えてしまうのは私だけだろうか(今度は逃げなかった)。
「さっき一人1750円って言ったよね?」洋子さんが財布を出しながら聞く。
「ああ」カズがうなずく。
「計算はやっ!」ヒトシがつっこむ。
「そうでもないよ、分割しただけさ」
「ふーん」ヒトシが1750円をカズに渡す。
「あっ、ごめん。私、2000円しかない」
「僕も」洋子さんと伊藤くんが歩調を合わせる。いや、たまたまか。
「ごめん、今小銭無いんだ」カズが少し困った顔をする。
「じゃあさ、この500円でいいよ、伊藤くん今度250円返すからそれでいいよね?」
「はい」伊藤くん、即答である。
洋子さんから頼まれれば、世界の中心で愛を叫んでもいいくらいなのだ。
帰りの電車に揺られながら、伊藤くんはいつもの通り携帯でブログを書いている。周りの人から見ればただメールを打っているようにしか見えないだろう。伊藤くんはパソコンからブログを書いたりもしているが、このような細切れ時間を利用して少しずつ文章をしたため、パソコンにメール送信をして、編集している。レポートも同様だ。言わば、分割作業を積み重ねているのだ。
ん?伊藤くんの思考が突然飛躍する。
分割。
カズの言葉が思考にかぶさる。洋子さんは今度250円を返すと言った。500÷2。分割だ。
あの時、カズは何と言っただろう?
確か、分割しただけさと言ったはずだ。
それは単に人数分で割ったという意味だと思った。その時、伊藤くんは何かが心にひっかかっていたのだ。
何が心に?
その心の澱のような物が再び浮上したのだ。
突然の暗転。スポットライト。
「え〜、みなさんお久しぶりですぅ」
いらない。慌てて電気を点け直す伊藤くん。
猫背の男がひょっとこのような顔をする。
伊藤くん再び思考を再開する。あんな男に邪魔されてたまるものか。
「そうでもないよ、分割しただけさ」カズはそう言ったはずだ。
そうでもないよ?その前のセリフは何だっただろう?
そう、確かヒトシが計算速いなと言ったのだ。
つまり、カズはあの時、計算は速くないけど分割したんだと言ったのではないだろうか。
そしてそれは、割り算を瞬時にできたのではないという事になるのではないだろうか。
もし、そうだとするならー
伊藤くん、時々このような名探偵モードで会話のシミュレーションをするのが好きなのである。なぜそのように答えたのか?もし、自分がこう言っていたら相手はどういう反応を見せていたか?あいつにこう言えば誰に伝わって、どう自分に返ってくるか?そう言った予測と修正の繰り返しが時に彼を窮地から救う。ほとんどは無意味な帰結を迎えるのだが、その経験がまた次に活かされる。多かれ少なかれ、試行錯誤するのが生きている証拠なのだろう。思考錯誤も多いけど。
ところで、シミュレーションはsimulationである。だから、カタカナ表記をすればシュミレーションではない。シミュレーションゲームを好む人にとっては趣味レーションでもしゃれているかもしれないが、このような言葉の誤作動が伊藤くんには気にかかる。
似たような事例を挙げれば、ディズニーランドをデズニーランド。ジュラシックパークをジェラシックパーク等と言われるとジェラシーに駆られる伊藤くんである。正しいカタカナ委員会があれば迷わず入る伊藤くんでもある。
拡散した思考を虫メガネが紙を焦がすように一点に集約する。
合計金額7000円を分割する。
しかし、7000÷4ではない。
カズはあの時、素早く分割したのだ。分割しやすいのは7000と4のどちらだろう?
やはり分割しやすい4ではないだろうか。
2×2=4
これを元の式に戻すと7000÷2÷2
3500÷2
1750円か。
いやもしかしたら、3000÷2と500÷2を足したのかもしれない。
伊藤くんだてに毎朝あの目覚まし時計で鍛えられているわけではないのだ。きっとそういう事なんだろう。メールでカズに確かめてもいいけど、おそらくカズはそんな事は言わないだろう。それでいいのだ。どちらにしろ計算が速い事に変わりは無いのだから。
エサを待ち受ける鯉のように口を開ける向かいの親父を見ながら、やはり気道確保はとまたいつもと同じような事を考えながら西田敏行のような笑顔を浮かべる伊藤くんであった。
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