<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと

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ホームに着くといつも感心する事がある。このホームは両側に電車が停まる。ホームからは雄大な山並みが見えるが、伊藤くんにとってはすでに日常風景だ。それは海育ちの人間が海を意識する事が無いように極自然な自然である(不自然な表現だ)。
 だからこの場合、感心したのは山容ではない。では何に感心するのかと言えば、整列している人々にだ。一般に関西人は並ばない事で有名である。また関西人はエスカレーターでは左側を空けるのが常である。もしも右側を空ける人がいた場合は、関東出身者か自己中の人間だろう。その関西人が並んでいるのだから感心しているというのでももちろん無い。関西人だって立派な人間である。特に出勤率の高い朝は常識をわきまえた人間の含有率も高い。ちょんまげを結った侍が徘徊しているわけではないのだ。映画村じゃないのだから。
 確かにみんな調教された馬のようにきれいに並んでいる(この表現はいかがなものか)。しかもホームの両側に、である。そんなの両方に停車するのだから当たり前ではないかと思われるかもしれない。しかし、そこに電車が停まっているにも関わらずという補足説明がこれに加わる。
 つまり、電車が停車している前にも列ができているのである。反対側のホームで並んでいる人はもちろん次の電車で座席を確保する為に並んでいるのだろう。という事は、ここに並んでいる人はこの電車を含めて三番目に来る電車の為に並んでいる事になる。次の次の電車だ。朝の余裕が無い時間にそのような人がいる事に関心を持ってしまう伊藤くんである。
 前にも書いたように伊藤くんは比較的朝にゆとりを持って行動しているが、早く目的地に着きたいので停まっている電車に乗る。だから、そういった人達の横をすり抜けて半ば感心するように乗り込むのだ。
 そう言えば、先日伊藤くんはちょっと不思議な行動をした。というより自ら演じてしまったかもと後で思ったのだけれども、案外このようなところに日常ミステリーは潜むのかもしれないなと思って一人心の中で笑った出来事があったのだ。
 
 時刻は昼下がりである。朝の講義が無かったので、のんびり通学モードである。朝と比べると人はかなり少ない。階段を上がりきったところに電車が停まっている。伊藤くんは進行方向に向かって一番後ろのホームから入った。発車を告げるベルが鳴る。
 ここから先は向かいのホームに立った人間から描写してみよう。その方がミステリーには効果的だからだ。推理小説は大抵三人称である。それは相手の心理状態が見えないところに怖さがあるからだ。何を考えているのか分からない人間ほど怖いものは無い。行動の予測ができないからだ。作者の事ではない。つまりこの場合の伊藤くんがそうだった。
 電車がホームを離れた後、彼の姿が見える。乗っていないのだ。決して間に合わなかったのではない。十分に間に合う距離だったはずだ。電車のガラス越しに彼の歩いている姿が見えた。電車が遠ざかると姿がはっきり視認できる。彼はただ前に向かって歩き続けているのだ。前の車両に乗るつもりなのだろうか?しかし、それなら車内で歩けばいい。まさか今ホームに来た人間がわざわざ前の方の階段へ向かっているはずも無い。ここは乗り換え駅ではないのだ。もし、何か忘れ物があったなら今来た道を戻るだろう。雨が降っていたら、駅を雨よけの通路代わりに使うかもしれないが、新緑がまぶしい山並みは燦々と降り注ぐ太陽に照らされて、稜線をくっきりと浮かび上がらせている。
 それにしてもいろいろと考える人である。少し異常である。誰だチミは?
 やがて彼の姿はホームの真ん中辺りで消える。マジックではない。そこに改札口へと向かう階段がある。彼はその階段の下に消えたのだ。遮蔽物によって姿を隠した彼はすぐに階段の向こう側からホームに現れる。つまり、階段の下をくるりと回って今度は進行方向と逆の方へ戻るのだ。
 何なんだ?
 ちょっと頭がおかしいのではないか?
 きっと彼をストーカーしている者なら彼の奇妙な行動に首をひねった事だろう。尾行している刑事さんなら挙動不審で疑惑を強めたに違いない。
 しかし、真相は違った。

 再び視点と時間を伊藤くんに戻す。
 
 伊藤くんがいつも乗るのは一番後ろの車両である。発車のベルが鳴る。伊藤くんはわざと乗らないという意志を示すために電車に近づかない。そして、そのまま前に向かって歩く。電車のドアはためらいがちにいくぶん申し訳なさそうな様子で閉まる。
 やがて伊藤くんは階段の下に回り込む。階段の幅を利用してそこに新聞の販売機があるのだ。伊藤くん、そこで目的の新聞を買おうと思っていたのだ。しかし、目的の新聞は無い。よく考えてみれば昨日は祝日で、どうやら休刊日だったらしい。そこで伊藤くんはがっかりしながら、さっきの電車に乗れば良かったな〜とため息をつき、元来た道を引き返したというのが真相なのであった。このように他人にとって不可解な行動というのは、意外につまらない理由で生まれる。
 伊藤くんにとっては恥ずかしい行為が見る人によっては奇妙な行動に映るのだ。もしここで伊藤くんが声に出して笑っていたら、場合によっては変人と思われたかもしれない。
 
 そう言えば恥ずかしい行為を覗き見た事がある。それは伊藤くんが中学生の時に起きた。修学旅行での話だ。伊藤くん達はチームで自由行動をしていた。自由行動と言っても本当の自由ではない。もしも、一人で家に帰ったりしたら大変な騒ぎになっていただろう。自由と感じられるのは束縛があってこその感情なのである。しめつけのきつい下着から解放される感覚がそれである。話がまたそれて来た。もう少ししめつけよう。
 伊藤くん実はあまり気分が良くなかった。だからクラスメイトに理由を告げて、先に一人だけバスに戻る事にした。駐車場に入るとそこは鬱蒼とした森の中のような静けさである。静寂というのはこういう事を言うのだなと伊藤くんは思った。
 乗ってきたバスを見つけると幸いにもドアが開いている。人影は全く無い。不用心な事だと思ったけど、伊藤くんは疲れているので、ラッキーと思いながら真ん中より少し手前の座席に身を沈める。そしてうとうとと眠りに就いた。
 しばらくして、突然車内に大音響が鳴り響いた。爆発ではない。それでは今の伊藤くんが幽霊になってしまう。この音楽は演歌だ。
 伊藤くんびっくりして言葉が出ない。
 と、イントロの終了と共に野太い男の声がした。ちらっと顔を上げて前方を見ると運転手姿のおじさんがマイク片手に歌っている。まさかコスプレをした変態オヤジが乗っているはずもない。あれは紛れもなく運転手なのだろう。
 伊藤くんとっさに身を深く沈めた。見つかったら殺される。笑い話ではなく、その時はそう思ったのだ。
 やがて運転手のおじさんは気持ち良く歌を歌い終える。続いて二曲目が始まる。どうやらこのおじさんは誰もいないバスの中でカラオケの練習をしているらしい。しかし、一番目を歌っている途中で突然歌が止まった。曲もストップする。バスストップはとっくにしている。
 この時の伊藤くんの心中と言ったら心臓が口から飛び出そうであった。ハイドアンドシークが終了したのだ。今にも座席の上から「見〜つけた」というおじさんの勝ち誇った顔が見えるのではないかと恐怖でいっぱいだ。
 その思いは同級生の声によって遮られる。
「あ〜、面白かったなぁ」
「うん、あのみやげもん屋のおばちゃんかなりおもろかったな〜」
 みんなが帰って来たのだ。何と説明的な口調か。そんな作者の思いはよそに、伊藤くんホッと胸をなでおろす。
 そうか、だからおじさんは歌をやめたのだ。
 しかし、恐怖は再びやって来る。
「あれ、伊藤くん何やってんの?」
 バカッ!
「伊藤、変だぞ、おい。気分でも悪いのか?」
 気分なら最悪だよ。
 仕方無く座席から立ち上がる伊藤くんである。
 その時、運転手のおじさんとまともに目が合ってしまった。
 それは一瞬の出来事で、慌てて目をそらす伊藤くんであったが、その目が忘れられない。あの目はこう言っていた。
「分かっているな。しゃべったらタダではおかないぞ」と。
 伊藤くんには少なくともそう見えたのだ。
 それからバスを降りるまで伊藤くんは眠っていた。いや、眠ったふりをしていたのだ。眠ったふりほどつらいものは無いとこの時彼は悟った。そして、目的地に着くと運転手の方は見ずに降りた。幸いにも次に乗る時にはバスが変わっていた。これが伊藤くんの恐怖の体験スペシャルである。

 電車は今日もたくさんの人を飲み込む。みんな電車男と電車女だ。
そんな締めかいっ!許して下さい。自分を上等な人間と思っていました。すみません(下等だけど)。

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