<小説のお時間>〜今週の伊藤くんのひとりごと

35
「自首のタイミングって分かる?」伊藤くんが名誉挽回とばかりに火種を点ける。
「自首のタイミング?」洋子さんが輪唱する。ある日、森の中〜。
「自首のタイミングって何やねん」ヒトシに出会った。ダメだ。伊藤くん、慌てて歌詞を直す。
「じゃ、自首って何だろうね?」伊藤くん、再びしきり直す。
「てゆーか自首ってのは、自分から出頭するって事やんな」
 会話の導入部に無意味な言葉を入れるのはヒトシの口癖である。真賀田四季なら速攻でモニターをオフにするだろう。
「刑法42条だな」カズのコンピューターが必要な情報を導く。こいつは何でも知っているのか?
 伊藤くんはPDAの六法データをみんなに見せる。

 刑法第42条
 1、罪を犯した者が捜査機関に発覚する前に自首したときは、その刑を減軽することができる。
 2、告訴がなければ公訴を提起する事ができない罪について、告訴をすることができる者に対して自己の犯罪事実を告げ、その措置にゆだねたときも、前項と同様とする。

「相変わらず分かりにくい日本語ね。これじゃあ、文学賞とは程遠いわ」洋子さんが渋柿を食べたような顔をする。
「刑法はドイツ語の直訳だったりするから特に分かりにくいのは確かだけどさ」伊藤くんが講釈する。
「私が言いたいのは、そういう事じゃなくて日本語としての言い回しよ。その〜とか、〜とするとか」洋子さんが介錯する。
「で、これはどういう意味なわけ?」
「第1項は、捜査機関がこいつが犯人だと特定する前に出頭すれば刑期を減らしてくれるという事で、第2項は捜査機関にこの人が犯人ですと申告できる人に自分の身を任せるってとこかな」
「ふ〜ん。それで、何が言いたいの?」
「実際にあった過去の事件を話すとー」
 伊藤くんが再びPDAを操作し、判例データを見ながら話す。
「これは大阪高判平成9年9月25日の事件なんだけど、暴力団の構成員だった二名が共謀の上、かつての初代組長を配下の者に狙撃させたと思われる人物を射殺したんだ」
「うわ、おじきの仇打ちみたいやな」ひじきみたいな顔をしたヒトシが口を挟む。無駄口が嫌いなゴルゴ13だったら瞬殺しているかもしれない。
「で、その犯人が8日後に出頭したんだけど、これを自首と認めなかったんだ」
「えっ?何で?」と洋子さん。
「そんな、あほな」とまぬけ顔のヒトシ。
 そして、聞いているのかいないのか紫煙をくゆらし、虚空を見ているニヒルな男。
「実は警察は出頭以前にこの犯人をほぼ特定していたんだ」
「ほぼ?」カズがわずかに顔を伊藤くんに向ける。分度器で測ってもその差は一目盛りも無いだろう。どうやら声は届いているらしい。
「うん。面割してなかったんだ」
「犯人の顔が分からなかったのか」
「そう。半落ちじゃないけど警察の隠語だね」
 最近は何でも暴露されてしまって警察もやりにくいだろうなと思う。今時、ホシは?何て言ってる刑事がいるのだろうかと伊藤くんは思う。天体観測が趣味の刑事さんなら別だけどと考えておかしくなる。
「警察が容疑者を絞り込んだところ、3人の人間が浮かび上がって、アリバイを調べたところ、残ったのが犯人とされる男だったんだけど、顔写真が入手できなかったというわけなんだ」
「それは出頭の何日前の話なんだ?」カズが刑事のように切り込む。
「捜査機関では遅くとも4日前には特定できたとみている」
「つまり、1項の「発覚する前に」という文言がどういう意味なのかという解釈になるわけか。まさに自首のタイミングだな」
 もしもここが巨大なスケートリングなら、カズバウアーに聴衆は沸いた事だろう。もっともここが野外だったら、観客は家路を急いでいたはずだ。雨が降っているのだ。食堂の窓に水飴の水泡のような雨の滴がいくつも繁殖しながら消えていく。
「ではここでクイズです」伊藤くんが1時間にどれほども出題しない番組を再現するような口調で話す。クリスタルヒトシ君の用意はすでにできている。
「今度は東京高判平成7年12月4日の事案なんだけどー」
「その前にちょっといい?」洋子さんが挙手する様が滑稽だ。
「はい、山口さん」
「さっきからコウハンって言ってるけど、それ何?」
高等裁判所の判決さ。略して高判」カズが当意即妙の答えを返す。
 伊藤くんも焦りながら、その後を追う。
「社会の時間に習ったと思うけど、日本は三審制だからまず始めに地方裁判所で審議して、それが不服なら高等裁判所、それでもと言うなら、最高裁判所で最終決定をするんだよ。他にも訴訟金額が90万円以下なら簡易裁判所、離婚や少年事件なら家庭裁判所で扱うんだけど」
「ああ、何か聞いた事ある」洋子さんがうなずく。
「夫が不倫相手の男を包丁で刺し殺した直後に付近の交番に自首したんだけど」
「それまたすごいな〜。修羅場ランバやん」ヒトシ人形が邪魔をする。クリスタルでも存在は認識できるほどだ。
「したんだけど?」
 良かった洋子さんはしっかり追尾してくれているようだ。ついでに追撃してくれる嬉しいのだけど。
「警察官が不在だったんだ」
「あら」
「どこ行っとんねん!」
「まあまあ、警察官もいろいろと忙しいんだよ」カズがたしなめる。
 そう言えば、伊藤くんも近くの交番で警官の姿を見かけたのは数える程しかない。いつも警ら中の札が出ているのだ。まさか人件費を削減しているわけではないだろう。
「で、律儀にも?かな、10分後に近くの公衆電話から通報して、自分の名前と犯罪行為を告げたんだけど」
「まだ何かあるの?」
「うん。妻もその2分前に通報していて、無線指令を傍受した警ら中の警察官が現場に急行し夫に職質をかけて任意同行を求め、緊急逮捕したんだ。さて、ここで問題です」
「この場合、自首は認められるのかどうかか」カズがステルスレーダーから姿を現す。
 誰か止めてくれ〜。悲痛の心の叫びも虚しく、洋子さんがうなる。
「それは微妙ね」
「でも、夫の方が通報早いんやし、警官は職務とは言え、おらんかったからこうなってしまったわけやから自首ちゃううん?」
「そうね。犯罪行為は非道だけど、情状酌量の余地があるわね」
「で、結局どうなったんだ?」カズがさっきよりも大きく顔を向ける。
 みのもんたなら、もっと溜めるのにと思いながら、伊藤くんが話す。
「じゃあ、高裁の判決を読み上げるね。刑法42条1項の規定は、犯罪の捜査および犯人の処罰を容易にするという政策的考慮から設けられたものであり、実質的かつ全体的に、時間的にもある程度幅をもって解釈されるべきであるとし、捜査員不在により犯人が上記の申告をすることができず、その間に犯人の申告以外の理由により、その犯人の犯罪事実が発覚したとしても、その接着する時間内に、犯人において自ら自己の犯罪事実を捜査機関に申告して身柄の処分をゆだねたと認められる関係にあれば、これらの事情を全体として考察し、「いまだ官に発覚せざる前に」自首したものとして刑法42条1項の自首の成立を肯認することができるとしたんだ」
「えっ?何?ごめん、今寝てたかも」
「俺もようわからんかったわ」
「つまり発覚前に自首したと認められると判決したのさ」絶妙の間合いでカズが解説する。
「やっぱりそうだよね。でも、裁判官は日本語もっと勉強した方がいいと思うな。大体、学説書って何であんなにもって回った書き方してるのかしら?まるで政治家の答弁みたい。記憶にございませんとか前向きに善処しますとか、遺憾に存じますとかいつの言葉って感じ」
 うざい、むかつく、ちょい悪おやじ、バカかわいいも結構いい勝負かもしれないなと伊藤くんは思う。
「学者や裁判官のプライドはエベレスト以上だからな」
 カズのプライドも高そうだともう一人の伊藤くんがささやく。
「逆に認められなかった例は?」カズがボールを寄こす。
「じゃあ、かいつまんで言うけど、例えば、うーん、そうこれなんかだと分かりやすいかな。職質で所持品を見せるように言われたので、やむなく拳銃所持を申告した事例とか、警察で取り調べを受けて余罪を追及されるうちに犯行を自供したというのもあるよ」
「何かこうしてると『ビギナー』みたいね」
「ビギナー?初心者って事?」
「昔やってた月9ドラマだよ」どうやらカズの辞書にはあらゆる情報が毎日更新されているらしい。
「一般公募で選ばれたミムラちゃんのデビュー作なんだけど、落ちこぼれの司法修習生が毎回いろんな法律問題を論じ合うドラマよ。月9には珍しい形式だったわ。ドラマの面白さというよりも議論の楽しさみたいな感じかな。賛否両論だったと思うけど、私は結構好きだったな。我修院のつながった眉毛がバカボンみたいで笑えたし」
 こうしていつものごとく時間は消費されていく。でも無駄な事ばかりじゃないかもなと伊藤くんは思った。窓に目をやると雨足はさらに強さを増していた。

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