<小説のお時間>〜今週の伊藤くんのひとりごと

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 伊藤くんの利用する駅には、面白いサービスがある。駅の一角に書棚が備えつけてあるのだ。傘の貸し出しというのは、最近よく見かけるようになったけれども、そこにはいろんなジャンルの本が所狭しと並んでいる。おそらく始めは遺失物の本ばかりだったのだろうけど、そのうちブックオフ並みに本が集まり始めた。電車で読み終えた本を並べている人がいるようだ。実際、鞄の中から本を取り出して本棚に並べている姿を見かけた事もある。
 伊藤くんは本を愛する人を見ると何だか嬉しくなってしまう。こういう光景を見ていると、デジタル書籍にはない本のぬくもりも感じられるようになってきた。
 この駅の窓にはカーテンが掛かっている。ただそれだけの事なのに、誰の為というわけでもない心配りに駅員の優しさを感じる。
 警視庁に集まる拾得物は年々増加の一途をたどり、管理費だけでも膨大なものになっている。そこでネットで簡単に検索できるように今後はサービス形態を変えるという。
 電車の中にも毎日のように落とし物がある。
 雑誌や本はホームレスのみなさんが生活の糧に回収するようであるが、中にはどうすればこんな物がという物が落ちているそうだ。しかし、脂肪だけは落ちていないという話である。
 落ちているのかこの話。

 ところで電車の座席というのはなぜあんなに眠れるものなのかと伊藤くんは常々疑問を抱いている。
 小気味良い揺れと疲労の蓄積が睡魔を誘引するのか、気がつくと寝てしまう。読みかけの本が落ちる音で目が覚める。慌てて拾うと周囲の注目を受けるので、緩慢な動作でそっと拾う。
 しかし、自分は寝ていたのではないぞ光線を発するため、本を再び開く。すでにどこまで読んだのか分からないが、ページを激しくめくって探すような野暮な事はしない。さもうっかり八兵衛でございましたとばかりに、とにかく本を開いて凝視する。やがてまた眠りが訪れる。
 そして、白河夜船の航海を繰り出す。
 まるで食べかけて眠る赤ちゃんである。
 その昔、笑福亭つるべが名物トーク番組ぱぺぽテレビで、床屋のイスはなぜあんなに眠れるのか、買いたいくらいやと語っていたが、確かにあのイスも謎である。催眠ガスが吹き出るのでもないのに、なぜか気がつくと眠っている。頭を触られる隔靴掻痒感と心地よいハサミのリズムが眠りを誘発しているようだ。
 電車と言えば、絵の下手な伊藤くんは車体の下に車輪を二つ描いておしまいである。しかし実際は、非常に複雑な装置がまるで内臓器官のように張り巡らされている。
 考えてみれば電車というのは電気で動いているわけであるから当然設備も精密機器の集合体である。あんな重い物が電動で走るなんて蒸気機関車を発明した古人には想像もつかないだろう。そりゃそうか、だって電気なんて見た事も無いのだから。
 電車男の例を出すまでもなく、電車というのは公共の社交場であり、そこで繰り広げられる人間ドラマは小説よりも奇なりである。
 携帯電話がきら星のごとく隆盛を極め、その電磁波が心臓のペースメーカーに支障をきたすというのは車内アナウンスで嫌という程聞かされたけど、伊藤くんはすごい人を知っている。何と車内の端から端まで携帯を注意して回っているおじさんがいるのである。
 ちょっとした注意というのなら分かるが、このおじさんの場合は始めから逆ギレしているのだ。どうやらペースメーカーをつけているとの事で生命の危機を覚えての行動だとは理解するが、いきなり何の理由も告げすに怒鳴り散らし、傍目にはケンカを売っているようにしか見えない。それをこの人は毎日のようにやっているのである。
 そもそも伊藤くんがこのおじさんの事を知っているのも、どうも帰りの電車の時間帯が同じようなのである。健常者よりよっぽど元気ではないかと思ってしまう。
 物には言い方というものがある。座席を譲っても意地を張って座らない老人も言い方一つできっと座ってくれるはずだ。
 駅の階段でベビーカーを手伝う人間を見ると、もう少し人に対していたわりを持つべきだなと思う。
 伊藤くんは前にも書いたように荷物が多い。何でも予備を持っていないと不安なのだ。デジタルグッズの数々にもそれぞれ予備の電源を持ち歩く程の念の入れようである。
 関西で一、二を争う規模の蔵書数を誇る大学図書館もまだまだデジタル化には程遠い。リュックの中身は常にパンパンである。
 美輪明宏でなくても彼の後ろにはもう一人分の空間が必要である事くらいは理解できる。
 だから伊藤くんは吊革を持って立つ時はリュックを前に回す。まるで中学生の鞄持ちである。ビール腹のような大きなリュックが前に回ると、座っている人が迷惑ではないかとは思わないのが伊藤くんの天然である。
 天然と言えば、洋子さんも少し天然が入っている。自動改札機にお金を入れてしまったというのだ。
 そんなバカな、とこれを聞いた伊藤くんは思った。
 何でも切符を買ったお釣りをもう一つの手に持っていて、間違ってそちらの方を投入してしまったのだそうだ。
 駅員曰く「こんな人は初めてだ」と言われたそうである。
 このような人々が見聞きする電車にまつわるよもやま話を集めたら、一冊の本が簡単に出来上がるのではないだろうか。そして、今日もまたどこかで誰かが電車ドラマを繰り広げている事だろう。