<小説のお時間>〜今週の伊藤くんのひとりごと

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「話は変わるけど大学に入って驚いた事ってある?」
 何かを思い出したように洋子さんが話し始める。
「う〜ん何だろう。まぁ自由になったって事かな」伊藤くんも懸命に記憶をたどる。
「大学ノートって使ってる奴おるんかな」ヒトシがあさっての方向へ話を飛ばす。あさってってどっちだろう?
「私は答案をボールペンで書くっていうのが抵抗あったな」
「あっ、僕も」伊藤くんも確かにそうだったと思い出す。
「そやな」
 カズは特に関心無さそうに虚空を見つめている。
「訂正する時は修正ペンじゃなくて二重線で消せばいいというのも抵抗あったわ」
「ボールペンって固い机の上だと結構手が痛いんだよね」
アスファルトの上を安もんの靴で走るようなもんやもんな」
「高校までは先生の監視の下にいたって感じだけど大学になると何か違うよな」カズが先頭集団に追いつき始める。
「教授って何か最高峰って感じがするし、中には有名人だっているものね」
「講義は出んでもいいしな〜」
「出なくていいって言うのは言い過ぎじゃない?」
「でもゴールデンウィーク過ぎたら教室の3分の1もおらへんやん」確かに授業料と反比例している。
「その上、夏休みと冬休みを合わせたらやっぱり出席日数も1年の3分の1だもんね」伊藤くんが苦笑いする。もしも出席した日数で日割り計算をしたら金融業よりタチが悪いかもしれない。
「総合大学ともなると、人が多すぎて一つの街みたいだもんね。さすが私大みたいな」
「試験シーズンになるとよくこれだけの人間が電車に乗れるなと思うよな」
 カズのマンションはすぐそこやんと伊藤くんは思うが口には出さない。
「大人だけど子ども扱いってのは楽やな〜。映画も学割やし」
「学生の権利乱用みたいなね」
「権利の濫用?」
 伊藤くんの目が光を帯びる。
「お前の言ってるのは民法だろ?」カズが素早くつっこむ。
「そうだけど」
「何々また難しい話?」
民法第1条第3項、権利の濫用はこれを許さない。難しい話じゃないさ」カズがまた伊藤くんより先に条文を口にする。
「やっぱり難しいじゃない。これをなんていらないと思うけどな」
 伊藤くんもそう思う。せっかく平成16年にそれまでのカタカナや文語体から現代語調に改められても言い回し自体はさほど変わりない。あまりにくだけた文章でも困るけど、もっともっと身近なものにならなければ、社会のルールとしては不公平だ。知っている人だけが得をするというのでは本来の意図とは逆だろう。
「やっぱり判例とかあるの?」
「あるよ」
 洋子さんが何気に判例を指摘する事に伊藤くんは少し嬉しくなる。
 前の刑法の話が役に立っているようだ。
「権利の濫用の話になると必ず引き合いに出されるのが信玄公旗掛松事件と宇奈月温泉事件だよ」
「何か早口言葉みたいね。信玄公って武田信玄の事?」
「うん。初めての公害事件とも言われてるんだけど、信玄が旗を立て掛けたとされる由緒のある松の木のそばを汽車が走っていたんだ」
「汽車?いつの話やねん」
「大正8年だよ」
「大正?」
「汽車ならではの事件って感じもするけどな」カズが先回りする。
いつもながら何でも知ってる奴だ。
「どういう事?」
「簡単に言うと汽車の煤煙で枯れちゃったんだよ。それで松の所有者が国家賠償を起こしたんだ」
「結果は?」
「どうなったと思う?」答えを聞く事は簡単な事だけど、考える事に意味があると伊藤くんは思う。
「そうね〜、松の所有者に落ち度がなければやっぱり国が悪いんじゃないかしら」
「どうして?」
「だって線路を敷設する時にそれなりの配慮が必要だと思うの」
「でも、みんなが使う汽車やから多少の事は目をつぶるべきなんちゃうかな」ヒトシが反論する。
「そこがポイントだな」カズが指を立てる。
「ヒトシの言う通り、権利者個人の利益と社会との調和というのはこういう問題では必ず議論になるところだよ。実際は洋子さんの話通りで国に落ち度が認められたんだけど」
「うそ?じゃ、勝っちゃったんだ?」
「うん。国の権利行使は認められなかったんだ。でも、もしも国に過失が認められなければ負けていたかもしれない」
 実際、道路や建物にまつわるトラブルは後を絶たないのだ。原子力発電所だって、恩恵は被っていても自分の家の近くに建つのは嫌だという人がいるのは当然だろう。いくら安全だと強調されても閑静な場所に住みたいと思うのが平均的な感覚である。誰だって自分の居場所は邪魔されたくないのだ。
「じゃあ、温泉はどんな事件なの?」
「ある鉄道会社が温泉経営のために、山から温泉場まで7500メートルもの管を引いたんだけど、そのうちの6メートル程が他人の土地の上を通っていたんだ」
「それで排除して欲しいと言ったのね?」
「うん」
「そっか、さっきのと似てるわね」
「洋子さんはどう思う?」
「やっぱりその鉄道会社のうっかりミスなんだから落ち度はあると思うな。でもそんなに長い管じゃ当然多額の費用が投資されてるわよね。だったら、どけるというのは難しいんじゃないかしら」
「じゃあどうする?」
「やっぱり弁償するしかないんじゃないかしら」
「そういうのを法律用語で妨害排除請求権って言うんだけどね。さっきの調和の話じゃないけど、この場合は洋子さんの言うように認められなかったんだ」
「何かかわいそうね」洋子さんの顔がくもる。
「そうでもないさ」
「えっ?」
「だろ?」カズが伊藤くんの方へ首をかしげる
「うん」やっぱり知ってたのか。
「実はこの話には続きがあってね。実はこの無断使用に目をつけた本人がその土地と地続きの土地を3000坪購入して、全て買い取れと言ったんだよ」
「えっ?何それ?」
「しかもその管が通っている土地は坪数にしてわずか2坪の急斜面で特に利用価値も無いとこだったんだよ」
「それってふっかけてるだけじゃない」
「そう。欲にくらんだ人間って怖いね」
「な〜んだ。同情して損しちゃった」
「但し、無断使用は事実だから損害の大小を考えると排除は認められないにしてもお金で解決しなさいとなったんだ」
「つまり権利の濫用だな」
 カズが一番おいしいところを持って行く。
「そっ、だから学生だから何やってもいいというわけじゃないという事だね。最近やたら大学生の不祥事が続いてるけどさ、社会から見れば十分大人だし、年齢的にも罰せられると」
 伊藤くん、まるで教師みたいな事を言う。お前も学生じゃないかと誰かがつっこんだのは気のせいだろうか。