<小説のお時間>〜今週の伊藤くんのひとりごと

41
 こんな夢を見た。
 サングラスをかけたオールバックの男が隣に座っている。少しすきっ歯だ。そして背が低い。サングラスのせいで目の動きが分からない。
 観客がいる。100人位だ。
 驚いた事に男は観客をあおっている。
 そして拍手を静する。
 もしかしてこれは…。
「今日のゲストは伊藤くんでーす!」
 観客から歓声が上がる。
 そうなのだ。
 この男はー
 そしてこの番組はー
 聞き慣れたテーマソングが会場に響く。
 スタッフに促されてドアを開ける。
 そこはあの舞台だった。
 動揺する伊藤くん。
 全国放送?
 仰々しい程の花輪が狭い舞台を我が物顔に占拠している。この花は毎日毎日どこへ行くのだろう。持って帰ると言ってもかなりの数だ。観客に配るのだろうか。それとも使い回し?
 伊藤くんはゆっくりと座席を迂回して前へ出る。サングラスの男が手招きで誘導するのだ。
 なぜみんな伊藤くんを知っているのだろう?
 とにかくそれなりに観客にアピールした後、イスに座る。
 隣の男が正面を見据えたまま話し出す。
「最近どう?」
 そう言われても、あまりに漠然としていて答えに困る。
 しかし、隣の男も年齢差がある人間に対して何をどう聞いていいのか分からないのだろう。
 伊藤くんはいろんなカードをオダギリジョーのように頭の中でめくりながら、取捨選択する。
「まぁまぁですね」
 やっと出た答えがそれかいっ!と大塚愛つっこみを(心の中で)するが、やっぱり緊張しているのだ。関西弁でぼちぼちでんな〜とはキャラ違いの伊藤くんには言えない。
「一旦、CMで〜す」
 えっ?もう?
 絶妙のジングルが流れ、コマーシャルに入る。
 よほど話す事が無いのだろうか。ここではタモーいや、サングラスの男が会話を主導している。画面上では何も会話に抑揚が無いように見えるが、24時間テレビの徳ーいや、細ーにいくらつっこまれようとも笑顔満面の司会者のように絶大な権力を持っているのだ。
 あの番組において、せっかく武道館に向かってもう一歩の所まで来ているのに、時間が来たから放映中断ではあまりに視聴者の気持ちを逆撫でする。社運を賭けた番組だけに特別措置もすごい。その後の番組調整はかなり大変だろう。
 それはともかく、隣の男である。
 どうしようか。伊藤くんは思案に暮れている。
 そして、隣の男もまた同じ事を考えていた。
 
 後、何分もたせようか。
 こんな時、自分の部屋にゲストを招く白柳なら、何も言わなくても最後までしゃべってくれるのに…。
 実際、白柳女史は一度目は番組終了時まで、二度目の登場も見事にコーナーの次々を飛ばし、番組の記録を更新した。
 さて伊藤くんである。
 大体、この子は何だろう?
 サングラスの男は今さらながら隣の青年を隙間から覗き見る。
 さして有名な作品に出ているわけでもなければ、アイドルのようなルックスをしているわけでもない。
 飛び抜けた才能も無さそうだ。
 白柳なら綿密にスタッフが事前の聞き取りを行い、机の上にその内容が書かれた紙を広げながら確認作業を放送中に行う事もできるが、自分にできる事と言えば、せいぜい安産のお守り代わりに放送できない絵を描くくらいだ。
 歌番組なら、適当に相づちを打って歌に入ってもらう事もできるのだが…。
「ーモリさん?」
「あっ、はいはい」
 どうやら話しかけられていたのに気づかなかったようだ。
 
 やはりこの男は何も話題が無いのだ。
 伊藤くんにはなぜかこの男の考えている事が分かる。
 なぜなのかは分からないが、自分にはそういう特殊能力が備わっているようだ。
 観客が水を打ったように静まり返っている。
「じゃ、お友達お願いしま〜す」
「えっ?もうそんな時間ですか?」
 手元の腕時計を見ると明らかにいつもの時間より早い。
 隣の男を窺うと、依然として表情は分からないものの、かえってそれが吉田不気味だ。

 誤字ではない。
 一時期、この番組でレギュラーを張った程のキャラだが、トークしてみると不気味でも何でもなかったタレントである。
 
 それはさておき友達は?と言えば、ヒトシ?
 ダメだ。放送禁止の風貌に視聴者はリアル噴飯体験してしまうだろう。やはり洋子さんか。
 いやいや、洋子さんを大衆の目にさらすなんてもったいない。
 ここはルックスや知性的に何の問題も無いカズにしよう。観客の大半は若い女性だから、イケメンの方がいいに違いない。
 そうだ、そうしよー

 というところで目が覚めた。
 何だ夢だったのか。
 時計を見ると、

1+4:3×5
 つまり5:15だ。
 少し早いけど、起きよう。あの変な緊張感を強いる夢の続きなど見たくない。
 伊藤くんの今朝の脳力メニューはやっぱりDSである。
 但し、いつもの脳きたトレーニングではない。
 今朝のおめざは有名私立幼稚園の入園問題を集めて作られた『やわらかあたま塾』である。
 言語・記憶・分析・数字・知覚という5つのジャンルに分かれた問題が画面に表示される。
 例えば、分析問題では重さ比べという問題が出題される。
 これは、はかりに載ったキャラクターのどちらが重いかを選ぶという物だが、はかりは三つあって頭の中で素早く比重を吟味しないと答えられない。レベルが上がってくると自分の頭は幼児以下の軽さかと情けなくなってくる代物だ。
 分解パズルでは、細分化されたピースの破片をシルエットの絵に合わせて組み立てないといけない。幼児向けの右脳クイズとは言え、これもまた難しい。
 
 伊藤くんはひとしきり問題を終えると枕元の本を読み始める。
 夜はまだ明けていない。通学の時間には早いようだ。
 太陽は布団の中にいる。
 気がつけば、春のうららかな陽気に眠っていた。
 時間はー

 今度は夢ではなかった。

42
「俺が高校生だったら絶対にあの学校には転校しないな」
「何で?」
「だって殺されるじゃん」
「あっ、確かに。それうける〜」

 物騒な会話である。でも意味が分からない。
 話しているのは洋子さんとカズである。
 そして、今の話題はマンガである。
 金田一少年の話をしているのである。
 なぜそうなったのかはいつもの通り不明である。
 このまま「である」攻撃を続けてもいいが、これ以上作者の低脳ぶりを露呈するよりも話を続けよう。
「転校生はまず殺されるからな」
「我が校から死亡者続出!なんて志望者おれへんわな〜」
 うどんの湯気でメガネがくもって、心もくもっているヒトシが横やりを入れる。本当に横槍で突き刺されても脂肪が邪魔して致命傷には至らないかもしれない。そしてうどんと違ってギャグは冷めている。
「コナンってすごいよね。どんな事件でも30分で解決しちゃうんもんね〜」
「基本的にはな」カズが口から煙を吐く。
「そやけど、コナンって高校生やろ。ほんならラン姉ちゃんとか言うてんのも結構やらしいよな。まぁ、勉強せんでも優等生やろうけど」
「そうね。考えてみれば子どものふりをした大人よね」
「僕はむしろコナンの同級生の方がすごいと思うよ」伊藤くんがようやく口を挟む。ついさっきまでフランスパンと大格闘していたのだ。やっとの事で牛乳を一気飲みし、強引に胃に流し込む。
「どういう意味?」洋子さんが魅惑的な視線で聞く。
「だってあのままみんなが進級したらコナン君と灰原さんはずっと年取らないから違和感あるよ」
「まあ確かに」
「歩美ちゃんも光彦くんも元太もどんどん大人になってさ、やがては子どもを持つようになっても、コナンと灰原はー」
「同窓会悲惨やん!てゆーか、マスコミ注目の的みたいな」ヒトシが伊藤くんの言葉も終わらないうちにつっこむ。
黒の組織に見つかってジ・エンドか」カズが少し意地悪な顔をする。ジンの役が似合いそうだ。
「でも、コナンと蘭の関係ってもどかしくってついつい見ちゃうのよね〜」
「そこがうまいとこだよね。子どもはちびっ子探偵団の話で満足だし、大人は黒の組織のサスペンスぶりにドキドキ。で、女性は遠距離恋愛に夢中みたいな」伊藤くんは自分で言いながら、本当に遠距離だなと思う。
金田一は一歩間違えばスプラッターやもんな。読者の年齢層もコナンより狭いかもしれへんな」
「コナン君の名前の由来って何なの?」
「え〜と、コナンが蘭に追いつめられた時とっさに背にした本棚にあった江戸川乱歩コナン・ドイルから取ったんやったな」
「そうか。だから江戸川コナンなんだ」
「小渕と黒田でコブクロか」ヒトシがつぶやく。
「赤川京太郎は?」カズが話の波に乗る。彼ならサーファーと言われても違和感が無い。
「微妙やな」
「司馬みゆきは?」再度、波に乗る。
「性別変わってるやん!しかも推理作家ちゃうし」
 洋子さんが持っているフォークを落とす。カズのツボにはまったらしい。
「山村圭吾はどない?」
「もういいって。面白くないし」洋子さんがヒトシに氷の矢を放つ。触られる相手によって痴漢かそうでないかが変わるようだ。
赤川次郎と言えばやっぱり三毛猫ホームズよね〜」
 洋子さんが頬杖をついている。
 そんな格好が似合うのも洋子さんの魅力の一つだ。
「そやな〜、猫が探偵役なんて珍しいもんな〜」
 ヒトシもまた頬杖をついているつもりらしいが、オットセイが陸に上がっているようにしか見えない。餌付けでもしてやろうか。
赤川次郎さんの本って、セリフのテンポが良くてついつい読んじゃうのよね〜」
「執筆量が半端じゃないしな」カズは顎の辺りを手でさすっている。
推理小説界の二大巨頭と言えば、赤川次郎と西村京太郎以外にはいない。それはまるでゴルゴ13こち亀のようだ。さいとうたかを秋本治か。
 毎月のように新刊が並ぶと一体どんな生活を送っているんだと思ってしまう。
 司馬遼太郎がまだ生きていると思う人もいるのではないだろうか?
 常に山積みの本、本、本。
 その陰で売れない本はどんどん再生紙として紙クズに変わっていく。在庫量の管理費だってバカにならないのだ。
 
 そこで出てくるのが電子書籍である。
 
 このブログのように紙を使わなければ資源の無駄遣いは起こらない。無駄な言葉遣いもデータにすれば知れている。
 しかも受信媒体に合わせていろんな形で提供できる。
 携帯で読む人もいれば、PDAで読む人もいる。もちろんパソコンも。質量も何十冊も本を持つよりもずっと軽い。まるで歌をダウンロードするように読みたい時に読めて、いらなくなれば消去できる。しかも新刊もいつでもすぐ手に入る。
 知らない言葉は辞書機能で引けるから、語学教材でも問題ない。作者の経歴や他の著作も参照は容易である。
 視野角も普通の書籍より広い、文字のサイズや書体も任意変更できる。

 但し、転用もまた容易だ。著作権の侵害は深刻な問題である。
 このブログのような内容のないような文章なら特に心配ないが、それこそ司馬さんのような名文がコピー&ペーストされれば、本の売れ行きは下がるかもしれない。ひいては出版そのものがあやうくなってくる。
 今の読書世代は紙媒体が当たり前かもしれないが、携帯がごく身近な物に取って代わったように人間とは順応性の早い生き物なのだ。
 
 伊藤くんの書籍データは全てサーバーに保存されていて、必要な時に必要なデータを落として使っている。しかし、メモリー領域を増やせば、書棚一つ分の本をポケットに持つ事も可能である。

 ある読書家の家には本棚が無いというのはタイムマシーンを使えばミステリーの謎としては通用するかもしれない。コナンはいつ大人になるのだろうか。
43
「話は変わるけど大学に入って驚いた事ってある?」
 何かを思い出したように洋子さんが話し始める。
「う〜ん何だろう。まぁ自由になったって事かな」伊藤くんも懸命に記憶をたどる。
「大学ノートって使ってる奴おるんかな」ヒトシがあさっての方向へ話を飛ばす。あさってってどっちだろう?
「私は答案をボールペンで書くっていうのが抵抗あったな」
「あっ、僕も」伊藤くんも確かにそうだったと思い出す。
「そやな」
 カズは特に関心無さそうに虚空を見つめている。
「訂正する時は修正ペンじゃなくて二重線で消せばいいというのも抵抗あったわ」
「ボールペンって固い机の上だと結構手が痛いんだよね」
アスファルトの上を安もんの靴で走るようなもんやもんな」
「高校までは先生の監視の下にいたって感じだけど大学になると何か違うよな」カズが先頭集団に追いつき始める。
「教授って何か最高峰って感じがするし、中には有名人だっているものね」
「講義は出んでもいいしな〜」
「出なくていいって言うのは言い過ぎじゃない?」
「でもゴールデンウィーク過ぎたら教室の3分の1もおらへんやん」確かに授業料と反比例している。
「その上、夏休みと冬休みを合わせたらやっぱり出席日数も1年の3分の1だもんね」伊藤くんが苦笑いする。もしも出席した日数で日割り計算をしたら金融業よりタチが悪いかもしれない。
「総合大学ともなると、人が多すぎて一つの街みたいだもんね。さすが私大みたいな」
「試験シーズンになるとよくこれだけの人間が電車に乗れるなと思うよな」
 カズのマンションはすぐそこやんと伊藤くんは思うが口には出さない。
「大人だけど子ども扱いってのは楽やな〜。映画も学割やし」
「学生の権利乱用みたいなね」
「権利の濫用?」
 伊藤くんの目が光を帯びる。
「お前の言ってるのは民法だろ?」カズが素早くつっこむ。
「そうだけど」
「何々また難しい話?」
民法第1条第3項、権利の濫用はこれを許さない。難しい話じゃないさ」カズがまた伊藤くんより先に条文を口にする。
「やっぱり難しいじゃない。これをなんていらないと思うけどな」
 伊藤くんもそう思う。せっかく平成16年にそれまでのカタカナや文語体から現代語調に改められても言い回し自体はさほど変わりない。あまりにくだけた文章でも困るけど、もっともっと身近なものにならなければ、社会のルールとしては不公平だ。知っている人だけが得をするというのでは本来の意図とは逆だろう。
「やっぱり判例とかあるの?」
「あるよ」
 洋子さんが何気に判例を指摘する事に伊藤くんは少し嬉しくなる。
 前の刑法の話が役に立っているようだ。
「権利の濫用の話になると必ず引き合いに出されるのが信玄公旗掛松事件と宇奈月温泉事件だよ」
「何か早口言葉みたいね。信玄公って武田信玄の事?」
「うん。初めての公害事件とも言われてるんだけど、信玄が旗を立て掛けたとされる由緒のある松の木のそばを汽車が走っていたんだ」
「汽車?いつの話やねん」
「大正8年だよ」
「大正?」
「汽車ならではの事件って感じもするけどな」カズが先回りする。
いつもながら何でも知ってる奴だ。
「どういう事?」
「簡単に言うと汽車の煤煙で枯れちゃったんだよ。それで松の所有者が国家賠償を起こしたんだ」
「結果は?」
「どうなったと思う?」答えを聞く事は簡単な事だけど、考える事に意味があると伊藤くんは思う。
「そうね〜、松の所有者に落ち度がなければやっぱり国が悪いんじゃないかしら」
「どうして?」
「だって線路を敷設する時にそれなりの配慮が必要だと思うの」
「でも、みんなが使う汽車やから多少の事は目をつぶるべきなんちゃうかな」ヒトシが反論する。
「そこがポイントだな」カズが指を立てる。
「ヒトシの言う通り、権利者個人の利益と社会との調和というのはこういう問題では必ず議論になるところだよ。実際は洋子さんの話通りで国に落ち度が認められたんだけど」
「うそ?じゃ、勝っちゃったんだ?」
「うん。国の権利行使は認められなかったんだ。でも、もしも国に過失が認められなければ負けていたかもしれない」
 実際、道路や建物にまつわるトラブルは後を絶たないのだ。原子力発電所だって、恩恵は被っていても自分の家の近くに建つのは嫌だという人がいるのは当然だろう。いくら安全だと強調されても閑静な場所に住みたいと思うのが平均的な感覚である。誰だって自分の居場所は邪魔されたくないのだ。
「じゃあ、温泉はどんな事件なの?」
「ある鉄道会社が温泉経営のために、山から温泉場まで7500メートルもの管を引いたんだけど、そのうちの6メートル程が他人の土地の上を通っていたんだ」
「それで排除して欲しいと言ったのね?」
「うん」
「そっか、さっきのと似てるわね」
「洋子さんはどう思う?」
「やっぱりその鉄道会社のうっかりミスなんだから落ち度はあると思うな。でもそんなに長い管じゃ当然多額の費用が投資されてるわよね。だったら、どけるというのは難しいんじゃないかしら」
「じゃあどうする?」
「やっぱり弁償するしかないんじゃないかしら」
「そういうのを法律用語で妨害排除請求権って言うんだけどね。さっきの調和の話じゃないけど、この場合は洋子さんの言うように認められなかったんだ」
「何かかわいそうね」洋子さんの顔がくもる。
「そうでもないさ」
「えっ?」
「だろ?」カズが伊藤くんの方へ首をかしげる
「うん」やっぱり知ってたのか。
「実はこの話には続きがあってね。実はこの無断使用に目をつけた本人がその土地と地続きの土地を3000坪購入して、全て買い取れと言ったんだよ」
「えっ?何それ?」
「しかもその管が通っている土地は坪数にしてわずか2坪の急斜面で特に利用価値も無いとこだったんだよ」
「それってふっかけてるだけじゃない」
「そう。欲にくらんだ人間って怖いね」
「な〜んだ。同情して損しちゃった」
「但し、無断使用は事実だから損害の大小を考えると排除は認められないにしてもお金で解決しなさいとなったんだ」
「つまり権利の濫用だな」
 カズが一番おいしいところを持って行く。
「そっ、だから学生だから何やってもいいというわけじゃないという事だね。最近やたら大学生の不祥事が続いてるけどさ、社会から見れば十分大人だし、年齢的にも罰せられると」
 伊藤くん、まるで教師みたいな事を言う。お前も学生じゃないかと誰かがつっこんだのは気のせいだろうか。

44
「対比って大事だよな」
「えっ?」洋子さんがきょとんした目つきでカズを見る。
 きたぞ、きたぞと伊藤くんは思う。カズワールドが今まさに幕を開けようとしているのだ。
「例えば、この塩アメはまさに味のコントラストだ。辛いものが甘いものを引き立てている。スイカに塩を振るのもそうだ」
 知らない人が見たら、新興宗教にでも傾倒しているのかと思うかもしれない。しかしそれがカズなのだ。
「黄色に青が映えるみたいなもんかな」伊藤くんも塩アメを口にしながら話す。
「背の高い人ばかりの中にいると普通の背丈の人が低く見える。逆もしかりだ。つまり人間というのは自分と周りを対比しながら基準値というものを決めている」
「まるで洗礼みたいだね」
「洗礼?キリスト教?」
「あっ、分かった!楳図かずおやろ?」
「おっ、ヒトシすごい!」
 自分の思考と瞬時に結びついたヒトシに伊藤くんは感心する。
「わけわかんない!」
 洋子さんの中で二人は一つだったりするようだ。青春アネーゴにはそう見えても仕方がない。
「最後のセリフだろ」カズも気づいたようだ。
「あれは確かに名文句やわな〜」
「私ホラーって苦手」
「えっ?サスペンスは好きやのに?」ヒトシが西川きよしの顔をして聞く。この男、確かに小さな物をコツコツと集めてはいる。
「特に楳図かずおは子どもの頃見て以来、トラウマなの」
「何を見たのか覚えてる?」
「多分『ママがこわい』とかいうタイトルだったと思うわ。お母さんがヘビなの。で、主人公の女の子を見るとじゅるじゅると舌なめずりするのよ」
「うわっ、こわ」何が怖いって擬音が怖い。
「でしょ?」
「楳図と言えば、赤ん坊少女かな」
「何よそれ。赤ん坊なのに少女なの?」
「まあな。タマミという醜い顔した少女の話さ。でも楳図は決して異形の作品ばかりを書いているのではない。初期の頃はモンスター的な物が多かったけど、段々人物の心の内へと対象を変えていく。このタマミも実はかわいそうな少女の心情を軸に描いていて、意外にも泣ける話さ」カズの口調が評論家のようで洋子さんも聞き入っている。
「僕もそう思うな。特に漂流教室はホラーというより感動巨編だよね」伊藤くんが自分の意見にうなずきながらしゃべる。
「ドラマや映画に何度もなったけど、どれもあかんかったもんな〜」 ヒトシも激しく首を縦に振る。バネが壊れているようだ。
「あんなにしっかりした小学生がいたら、僕は迷わずついていくね」
 伊藤くんが笑いながら言う。
「高松翔か。あいつは確かにすごいな〜」
「でも俺が驚いたのはむしろ小学校っていうのも一つの社会だなって事だな」カズが感慨深げに髭をさする。
「小学校って何でもあるもんな〜。図書室かて給食室かて」
「関谷のおじさんも対比だな」
「えっ?」洋子さんが何とか話に滑り込む。
「関谷という給食を運んでくるおじさんがいるんだけど、普段はとっても優しいおじさんなのに実は内に狂気を秘めていて、それが極限状態で一変しちゃうんだ。ドラマではなぜか女性になってたけど」
 伊藤くんはその豹変ぶりを思い出してまた笑ってしまう。
「それが何の対比なの?」
「つまり、大人と子どもの対比だ。大人が不可解な事象を理詰めで考えるのに対して、子ども達はいろんな仮説を立てて自分達の力で生き抜いて行こうとする」
「ちょっと待って。他の人達はどうしたの?先生とかいないの?」
「いるよ。いるんだけど、まあそこは読んでのお楽しみってとこかな。小学生という人間形成の途上にある設定がなかなか憎い。あの世界はドラゴンヘッドみたいに高校生がメインになると成立しにくい。マンガならではの世界観が独特の筆致と相まって読者を一気に作品世界へと放り込む力技だ」
ドラゴンヘッドは最後どうすんねんって感じやったもんな〜。絶対無理みたいな」ヒトシが口からツバを飛ばす。こいつの頭ならそれに近いかもしれない。
神の左手悪魔の右手もすごかったよね」伊藤くんがさらに洋子さんをおいてけぼりにする。マンガの話になると体温が火星に近くなるのだ。
「あれは究極のホラーだな」カズも当然のようにうなずく。
「影亡者なんてもう言葉で言えない怖さやもんな」
「そんなに怖いの?私、絶対ダメだと思うな」
「まっ、あれは本当にホラー好きでないとダメかもしれないな。でも、漂流教室は感動するよ。バトルロワイアルの先駆けだな」
「あっ、私あれも苦手〜」
林真理子が選考会で生理的に受け付けないと拒絶した問題作やもんな」
「まあ荒唐無稽で、残酷な描写が悪趣味ととられても仕方ないけど、あの話のテーマもそこには無い。生への冒涜とはむしろ対極に位置するものだ。国会議員の意見が逆に宣伝になったというのは笑えるけど」カズがまるで国会答弁のように語る。
「そうなんだ。読んでみようかな〜」思わず洋子さんが同意する。
「元々楳図さんは十五少年漂流記に着想を得たそうだ。蝿の王なんかも読むといいかもしれないね」
「何でも知ってるのね〜」洋子さん、すっかり感心している。
 元々は伊藤くんの話だったのに、気がつけばいつもこうだ。本当にこの二人は付き合っているのではないかと伊藤くんは勘ぐってしまう。
 伊藤くんの対象もついつい二人の内面へと及んでいく。ここで対比されているのは、お似合いのカップルと二人のオタクである。
 もちろん当の本人はそんな対比が隠されているなんて思ってもいないのだけど。

45
 映画館というのは全くもって不思議な空間である。
 そこは大勢の人が一つの画面を見つめる広場。
 しかし、だからこそいろんな人間がそこにはいる。
 マナーを知らない人が多いと思うのは伊藤くんだけだろうか。
 
 先日も映画館でいろんな人間を見た。映画がつまらないというのもあったけど、画面を見ているどころではないくらいだったのだ。
 まず上映が始まってもべちゃくちゃしゃべっているおばさん達。しかも食べている臭いがすごい。お菓子なら許せるが、漬け物を食べているのだ。ここは寝台車かとつっこみたくなる。
 端の席にいる老人もすごい。
 とにかく10分に1回は席を立ってトイレに行くのだ。指定席ではあったけど、平日の昼間で空席も目立つのに律儀にも元の席へ戻る。伊藤くんの席は真ん中の一番いい席でXYの座標軸が共に0というベストポジションだったため、ついに最後まで動く事ができなかった。生理現象だけに何とも言えないのがつらい。
 また暗闇でメールしてる奴もいた。何をそんなに懸命にメールする事があるのだろう。レビューでも書いているのかというくらいずっと画面が光っていてとにかく気になった。
 座高が高い人に限って前に座るのもつらい。
 それも上映中にである。
 何でわざわざ前に座るかなと思う。
 伊藤くんは背が高い方ではない。従って座高も低い。もしも座高が高かったら、胴長短足ではないか。少なくともドラえもんには勝ってるはずだ。
 貧乏ゆすりをする客も気になって仕方が無い。いくら前の席が空いているからと言って足を乗せているのはどうかと思う。
 
 昔、上戸彩主演という事で話題になった『あずみ』を観に行った。
 これまた平日の昼間だったので、学生気分を満喫して上映を楽しみにしていると、怪しい集団がやってきた。親父1人に明らかにお水の姉ちゃんが3人。この奇妙なちょい悪軍団がとにかくうるさい。
 映画そっちのけでいちゃいちゃしているのである。
 画面の向こうでは稟とした立ち居振る舞いの上戸彩扮するあずみがバサバサと人を斬っているが、伊藤くんはよっぽどこの親父達を斬ってくれと心の中で願ったものだ
 子ども連れというのも困る。ろくに分かりもしないお子様が泣き叫ぶ。そういう時に限ってシリアスな話だったりするから困る。
 もしも託児所付きの映画館があれば少しはましなのかもしれないが、この辺りになると人件費との兼ね合いが難しいのだろう。
 
 初日というのは大抵混んでいるものである。舞台挨拶もあったりするので、少し得した気分だ。そして、意外にもマナーを守る率が高い。それはおそらくどうしても観たい人が観に来るからではないだろうか。伊藤くんは決して笑うところで手を叩き、驚くところで歓声を上げるのは嫌いではない。
 
 映画館の良さは巨大なスクリーンである事は間違いないけれど、臨場感というのも大事な要素だと思う。観客がいない映画館は観ていてもいまいち盛り上がらないものだ
 しかし、臨場感というのはマナー違反とは違う。
 大げさなリアクションがかえって邪魔になる時もある。やたらにため息をつかれるとこちらが疲れる。
 映画館の観客を題材にした映画があったら、意外に面白いかもしれない。映画が好きな人であればあるほど、そのような原体験をしているに違いないからである。
 飲み物ホルダーは右を使うべきか左を使うべきか。伊藤くんはまだ経験が無いけど、もしも隣におすもうさんが来たらどうするだろう。
 あるいはニューハーフだったらどうだろう。とても画面に集中できないに違いない。怖い人も困る。なかなか難しいものだ。
 
 伊藤くんは甥っ子と映画に行った事があるけど、子ども向けの映画というのは想像を絶するくらいうるさい。泣きわめいている子はもちろんだが、走り回る子もそこらじゅうにいる。
 歌は歌うし、はしゃぎ回るのも当たり前。これでは画面の向こうとどちらが主役か分からない。しかし、興行収入は異常に高い。子ども料金は安くても家族で行けばバカにならない。
 極端な話、短編アニメを何回も上映する方が回収率は高い。今でこそタイタニックもメガヒット作品として認知されているが、リピーターによるロングランが無ければ、あれほどの巨額の収益は見込めなかった。
 長ければいいわけではないのは、巨大猿の話を出すまでも無いのだ。映画会社からすれば、制作費用が少なくて長期上映というのが理想なのである。
 
 映画とはつくづく不思議なものである。
 たった2時間の映像で何が分かるというのだろう。長編ドラマの方がよっぽど深く描く事ができる。
 しかし、人はなぜか映画に引かれる。しかもこれは世界的な事業と言える程に人口に膾炙している。
 2時間という制約の中で工夫に工夫を凝らした言わば人生の縮図のような作品が人の心を引きつけてやまない。おそらく2時間という時間は人間の集中力の持続する時間としてはちょうどいいのだろう。
 いい映画を観た時、その時間は永遠の物に変わる。
 過ごした時間に充足感を得る。そして、その作品がたまらなく素敵な物として心に残る。
 苦悩の末に生まれた作品が傑作に変わる瞬間を観客と共に味わえる監督はきっと最高の気分だろう。
 そう考えるとどんなにつまらない作品でもカメラ越しに覗いている熱い思いがあるのだなと思える。
 そして、伊藤くんも何だかんだ言っても映画館で観る映画が一番だなと思う。ホームシアターがどれだけ普及してもやっぱりそれは変わらないだろう。映画館とはやはり人間だけに許された不思議な空間なのだ。

 46
 
 またこんな夢を見た。
 
 隣にあぶらぎった険しい顔つきのおじさんがいる。
 そしてなぜか電話で悩み相談を渋い顔をしながら聞いているのである。
 この男はー。
 伊藤くんもおもいッきり悩みを聞いているのである、なぜか。
 ホワイトボードには見事なまでの人間相関図が構築されていく。
 聞き取りをしているのは目の前のおじさんなのに、である。
 朝から晩まで働き、祗園で芸者遊びを満喫するおじさまが、である。
 もうどうせなら24時間ガラス張りの中で実況中継でもすればいいのにと思うくらいテレビに出ずっぱりのおじさまである。
 その番組に伊藤くんは出ている。
 
 以下も全く余談の事ながら、今筆者はこの番組を見ている。
 なぜこの男はこんなに人気があるのだろう。
 話術がうまい。
 それは確かだ。
 まるで油売りのように(どこで売っているのだ?)独特の間を持っている。
 話術の中でも特に長けた能力を一つ挙げるなら、それはタメ技だろう。タメ口のタメではない。悟空がかめはめ波を撃つ時にスローモーになる一瞬のあの動作である。
 その最たるものがファイナルアンサーである。
 もしもあの技が無ければ番組などものの10分で終わる。
 ウルトラマンが登場早々、必殺技で怪獣を倒すようなものだ。
 谷選手が開始早々、一本背負いを決めるようなものだ。
 コナンがいきなり犯人を指名するようなものだ。
 料理が出来上がっているのに中居くんが「オーダ〜」と叫ぶようなものである。
 もういい。
 もう十分です。
 許して下さい。
 母さん、お元気ですか?
 私は罪深い人間です。
 私は妻を殺しました。
 
 半分もオチてない。
 
 細々とした事をねちっこく書いてみてもつまらない。
 これを業界用語でコマネチという。
 そう、これは「こまごま」と読むのだ。「ほそぼそ」ではない。
 でもこのブログはほそぼそとボソボソやっている。
 
 くだらない。
 夜中に何を書いているのだ。
 あるいは夜中だから書いているのか。
 そして、あなたは夜中だから読んでいるのか。
 穴があったら入りたい。
 墓穴を掘る事は得意なのだけど。
 
 以上も余談であった。

 午後は○○とは一体何なのか?
 もうあんな事やこんな事を想像しちゃったりなんかするのである。
 健康になるよと男が言えば、ココアが売れる。
 たったひとことで、その日紹介された商品がスーパーから忽然と姿を消す。
 オイルショックならぬ、おばはんショックである。
 しかし、取り違えてはいけない。
 この男は人並み以上の並み外れた体力を持っているのだ。
 確かにこんなに酒やけした人物が健康を口にすると説得力がある。しかし、常人がマネできる事では到底無い。
 
 朝から晩まで働けますか?
 
 毎日3時起きで、朝からあんなにテンション高くいられますか?
 
 朝なのか夜なのか、これこそリアル白夜行ではないか。
 我々はこの男が一体いつ倒れるのかとまるでギネスに挑戦する人間を見るように好奇の目を向ける。
 
 ついに倒れたかと思いきや、何と病室から電話で話す元気はある。
 リハビリだけでも一本の番組を作る勢いである。
 よほどの借金があるのだろうか。
 いや、そんな次元の話ではないだろう。

「奥さん、別れなさい。そんな旦那ダメだよ、ダメ」
 男は手を横に振り、巨大な梅干しを食べたような顔をする。
 唾液が出た。
 人間とはやはり観念の生き物かもしれない。
 
 こんな文章じゃあかんねん。
 
 あきまへんねん。
 
 この扉が開きまへんねん。
 
 こんな電話をかけたら即座に切られてしまうか、キレられてしまうだろう。
 誰かに悩みを聞いてもらいたい。でも、知り合いじゃ嫌だ。そんな煩悩を抱えた全国の主婦がこぞって電話をかけてくる。
 そしてそれを全国の主婦がうんうんとうなずきながら見ているのである。彼女達にとってテレビを通して流れるお悩みは、どこかの誰かの相談事であって、そうではない。
 
 女はみんな生まれ持って女優である。
 
 彼女たちは一瞬にして感情移入してしまう。
 
 そうする事で、刹那的に悩みを解消できるのだ。
 うちの旦那もそうだとか、姑と相変わらず折り合いが悪いとか。
 しかし、テレビを消した瞬間、ガラスの仮面はもろくも崩れ去る。
 毎日順繰りに紹介される健康素材はつまるところバランス良く食事を取ればそれでいいのではないか?
 言ってみれば、これもタメ技なのである。一気にメニューを紹介するのではなく小出しに食材を取り上げる。
 ある食材を誉めれば、裏で泣いている素材がある。それをまんべんなく紹介していく。
 
 タメてタメて、飲んで飲んで飲まれて飲んで、である。
 
 時代遅れではない。
 
 時代の波から超然としたところにこの番組は存在する。
 
 この男は年を取っていない。
 そんなわけは無いのだが、毎日見ていると変化に乏しい。
 巨大な砂時計はひっくり返すまでに膨大な時間を必要とする。
 そんな時計、誰が使うんだ?
 放っとけい。
 もう寝ます。
 ごめんなさい。