<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと

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「メールの返信で、ちょっと残念に思う時って無い?」
「どーゆーの?」ヒトシがDo you know?にかけた発音で茶化す。そんな技を使わなくても容姿だけで十分元は取れているのに。
「アドレス変更の一斉送信」
「あっ、あれか。確かに送信元にズラズラといろんな人のアドレスが出てると何かプリント配られてるみたいやもんな〜」
「だから私は返信する時はそのまま返すんじゃなくて、必ず登録したアドレスから送信する事にしてるんだ」
「へぇ〜」
 いかにも洋子さんらしい配慮だなと伊藤くんは思う。メンバー4人とも急に集まる事もあるので一応全員メアドは知っている。
 一応というのはヒトシやカズと交わす回数に比べて、洋子さんとはあまりやりとりしていないからだ。洋子さんのメールは珍しく絵文字が少ない。女の子のメールはもっとかわいい感じの物が多いけど、その方が洋子さんらしいなと思う。
「あとノートの芯折れも気になるな」
「芯折れ?」今度はカズが質問する。
「ほら、シャーペンか鉛筆で書く時、途中で芯が折れたか入れ替えたかで濃さが変わるじゃない?あれよ」
「ふっ、いかにもお前らしいな」
「そうかな。気にならない?」
「俺はならないけど。言われるまで思った事も無かった」
「俺もないな〜」
 伊藤くんは無言である。びっくりしているのだ。芯の話に、ではない。カズが洋子さんの事をお前と呼び、それを洋子さんが自然に受けた事に、である。考えすぎだろうか?鈍行に乗っているヒトシは全く気づいていないようだ。
 伊藤くんのノートは全部電子データだからそのような不揃いな文字列は存在しない。そのうち公的な場所では文字を手で書く事は無くなるかもしれない。
「伊藤くんは何か気になる事って無いの?」
 黙っているので気になったのか洋子さんがこちらを向く。
「えっ?あ、ああ」
 少し狼狽するが、まさか本当に気になる事を聞くわけにもいかず、思いついた事を口にする。
「ラジオとかで番組の途中にニュースや気象予報を読む人が専門の人に変わる時ってあるよね」
「うん、あるある」
「読んだ後で必ずありがとうございましたって言うのが何か変だな〜と」
「どうして?」
「だって聞いてる僕らからすればラジオの向こうにいる人だし。例えば、レジの中で偉いさんが変わってくれた時にわざわざ客に聞こえる声で店員同士がお礼を言ってるようなもんじゃないかな」
「ああ、なるほど」
「確かに変ね」
「そんなん思った事ないわ〜。大体、俺ラジオ聞けへんし」
 良かった。とりあえず合格ラインには達したようだ。
「そういうヒトシは何か気にならない?」
「そやな〜。荷物に貼ってある天地無用ってシールが気になるな」
 ヒトシは配送業者でバイトしているのだ。
「どういう意味か分かるか?」
「う〜ん。天地無用だから上下逆さまにしてもいいって事じゃないの?」
「そうそう、みんな最初はそう思うねん、せやけど実際はその反対で、逆さにしたらあかんちゅー意味やねんで」
「うそっ?」
「ほんまや。そもそも逆さにしていいんやったら貼る意味無いやん!」
「それもそうね」
「俺は関西と関東の違いが気になるな」
「マックとマクドか?」
「いや」
「ほんなら相手の事を自分と言う事か?」
「いやいや」
「そしたらしんどい事をえらいって言う事か?」
「いや言葉の事じゃない」
「もうヒトシ黙ってなさいよ」
「はーい」ヒトシがとぼける。
エスカレーターで関西は左側を空けるのに、関東は逆って事さ」
「ああ、その事か。確かにそうね。こっちに来たばかりの時、戸惑った事を思い出すわ。もう随分前だけど」
「関東の人から見れば、逆に何でだろうと思うんだろうな」
「よその家のみそ汁やご飯の味が違うみたいなもんだね」伊藤くんも同意する。
「旅行をする一つの意味は発想の思考法を洗濯機にかけるようなものかもしれないな」
「どういう意味?」
「その土地ならではの習慣に触れる事で考え方が変わるって言う事さ。同じ所にいると一定の考え方しかしないようになるのが人間だからな」
「そうね。いろんな価値観に触れる方が豊かな人間になる気がするわ。自分の知らない事を知るのって楽しいもんね」
 知りたい事を知れないのは悲しいけどねと伊藤くんは心でつぶやく。
 ところで伊藤くんは旅が好きではない。正確に言えば旅が嫌いなのではなく、枕が変わると眠れないのだ。
 だからもしもどこでもドアがあったら、世界遺産を毎日でも見に行こうと思う。
 もちろんそんな事は現在の科学技術では夢物語である。
 今のところ伊藤くんができる事と言えば、大画面でヴァーチャルトリップする事くらいである。
 でも意外にそれで満足できる伊藤くんはやっぱり旅が好きではないのかもしれない。