<小説のお時間>〜伊藤くんのひとりごと
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伊藤くんは家に帰り、マックを触っている。もちろんパソコンの事だ。
ウインドウズ全盛期にあっても伊藤くんはマックが好きである。おそらく両者の間に性能的な差はそうは無い。
もしあるとすればそれはセンスの差だろう。
例えば、ファイルに名前をつける。
それはごく当たり前の事だ。その昔、まだウインドウズが出始めた頃はファイル名に三文字程度しか付けられなかった。そこで、他のファイルと区別するにはそれなりに工夫が必要だった。
しかし、今は制限も無い。
但し、マックの場合はファイル名に色をつけられる。
何でも無い事かもしれないけれど、設計者の思考がそこに見える。
他にも、アイコンの絵がユーモラスだ。
メニューバーから外す時には煙が出て消滅したり、あるキーを押すと、使っているソフトが瞬時に分割表示されて四方に拡散する。そんな何気ない演出の一つ一つが伊藤くんの心を捕らえて離さない。
一言で言えば触り心地がいいのだ。
キータッチが軽快で文字表示が美しい。
伊藤くんの使っているのはノート型だけど、ぱたんと閉じれば中断されて、開けばDVDや音楽が止まったところから再生される。
同じ事ができるパソコンはきっと他にもあるだろう。そもそも最新機器のモニターをしている伊藤くんの場合、自分なりにカスタマイズされた商品を作ってもらう事も可能である。
しかし、最後には愛着のある物だけが手元に残る。
便利で安い物が売れる一方で、高くても自分の気に入った物が欲しいというのは自然な感情だろう。
特に毎日使う物は気に入らなければストレスの元である。
まだオールインワンパソコンと言われ出した頃には、CDを聞きながらワードを触っているだけでも大変な事だった。
ましてや複数のソフトを同時に起ち上げるマルチタスクなど、夢のまた夢だった。メモリーも足りなければ、ハードディスクだって足らない。
500Mで十分だったあの時代。
確かに文字情報だけならそれで十分だった。
しかし、映像がデータに変わった途端、情報量は飛躍的に上がった。
DVD片面1層だけでも4Gである。しかも時代はテラに移行しようとしている。フロッピーディスクが1Mの頃からすればどれだけ情報量が増えたかは明白である。
けれども…と伊藤くんは思う。
どれだけ情報量が増えようとも、それを扱うのは人間だ。
大容量のハードディスクを搭載した録画機には電子番組表から自動で番組名が入り、種類別に整理される。
自分好みのキーワードを設定していれば、容量がある限りどんどん保存される。
だけれども、それを見るのは人間だ。
見れずに捨てきれない番組はあっという間に蓄積される。
便利だと機械に頼っていたら、今度はデータの取捨選択に振り回されるのだ。本末転倒である。
これではビデオの整理に悩まされるのと基本的に変わりない。
むしろビデオカセットの値段が高くて、録画時間も短かった頃の方が本当の意味での選択ができたのではないだろうか。
フリーソフトを検索すると山のように検索結果が表示される。そこにはとても素人が作ったとは思えないようなソフトが存在する。
けれども一つずつのソフトに対する感動は薄い。
選択肢の多さが逆に束縛を生むのだ。
自由とは束縛があってこそ感じ取れる感覚なのかもしれない。
伊藤くんはマックのデータをいじりながら、デジタルの功罪の一つは重さを感じない事かもしれないなと思った。