<小説のお時間>〜今週の伊藤くんのひとりごと

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 僕がなぜ小説もどきを書くようになったかと言えば、それは神の啓示を受けたからだ。

 降臨された神はその時、私めに向かってこうおっしゃった。

 お前の書く小説が見てみたいと。

 だから僕は毎日こうして小説らしきものを書いている。

 もしかしたら、神がおっしゃった言葉はお前の親の顔が見てみたいだったかもしれないが、ともかく勘違いにせよ僕は現在まで文章を書き綴る事になったのだ。

 それも今回で47回目。つまり、僕は47日間書き続けている事になる。1ヶ月を越していたとは驚きである。怠け者の僕がである。

 どうしてそんなに文章が書けるのですか?とは今まで一度たりとも聞かれた事が無い。仕方が無いから自分から告白すると、それは読者がそこにいるからだ。

 より正確に表現するなら、読者がそこにいるのではないかと推察するからだ。今読んでくれているあなたがいるからだ。
 あなただけ見つめてる

 今日もそんなあなたに感謝しつつ、話を進めよう。

「昨日ツタヤが半額キャンペーンだったけど何か借りた?」

 学生の話題はいつだって唐突である。特にこのグループには常識は通用しない。発言の主は山口洋子さんである。

 フルネームで書いたのはたまに書かないと忘れてしまうからである。ちなみに伊藤くんの下の名前はまだ決めていない。

「僕、4枚借りたよ」伊藤くんが嬉しそうに答える。洋子さんの話題に答えられるのが嬉しいのだ。
「何?」
オールドボーイZガンダム逆境ナイン女王の教室
「ようわからんわ」ヒトシの手がつっこみの形になっている。
オールドボーイとはまたすごいとこに行ったな」カズが伊藤くんの顔を興味深げに見る。
「あれって怖いんじゃないの?」洋子さんは怖いものが苦手なのだ。
「俺、それ知らんわ」
「まぁ、怖いと言えば怖いね。でもホラーじゃないよ。ソウみたいに閉じこめられる話だけど、サスペンスでもないし」
「ソウ?」
「ノコギリのソウさ」
「ああ、SAWね」洋子さんにも意味が通じたらしい。
 音だけを聞いていると全く違う風に聞こえそうである。
「そう?」
「ノコギリの操作」
「ああ、そうね」
 全く意味が分からない。
 日本語の「そう」と英語の「SO」が一緒だと知った時は意外だった。意味まで似通ってるなんてすごい偶然ではないか。
「それも怖い系?」
「うん。地下室に二人の男がなぜか監禁されているんだ」
「それで?」
「しだいに二人はお互いを疑心暗鬼し始める」
「それって、孤島モノみたいじゃない!」洋子さんの目が輝く。
「まあまあ」ヒトシが慌てて両手を前にかざして押しとどめる。
 前に小説談義でえらい目にあっているので警戒したのだろう。
「やがてとんでもないどんでん返しが起こり、驚愕のラストが最後に待ってるねん」ヒトシが続けて伊藤くんの代わりに説明する。
 ラストって最後に決まってるやん!
「あれは意外だったな」
「カズでも分からなかったの?」
「ああ」
「へ〜。じゃ、見てみようかな」
 何でそうなるんでござんすか。
オールドボーイは見たの?」
「見たよ。ちょっとエグイけどね」
「えっ」さすがに洋子さんが気色ばむ。
「あの主演の役者さんがすごいよね」伊藤くんが割り込む。
「役所公司みたいな感じだな」
「そう言えば似てるかも」
「ハリウッドでリメイクされるらしいな」
「あれって、アメリカ人がやるとちょっと違うかもしれないね」
「そうだな」
「そう言えば、ツタヤでちょっと感心しちゃったよ」
「何があってん?」
「レジの女の子が合計金額を言うのが早かったんだ」
「計算が早いって事?」その女の子ってどういう子よ?とは洋子さんは聞かない。女性の前で他の女性の容姿を誉めるのが得策ではない事を伊藤くんは知っている。
「多分それもあると思うけど、僕にはその思考の軌跡が見えたんだ」
「は?お前の思考が見えんわ」スーパーヒトシが赤色に変わる。
「2枚レジに通したところで値段を言ったんだよ」
「なるほど」思考を読むのが早いカズがすぐにうなずく。
「何なに?分からないわ」
「俺も」
「つまり4枚の半額だから2枚の値段を言ったという事さ。お客さんがお金を用意している間にレジを済ませる事ができる。だろ?」
 カズが伊藤くんをちら見する。
「うん。その通り」いつも通り司会者が入れ替わる。
「なるほどね〜」洋子さんが見ているのはもちろんカズである。
 そして、誰にも見られていないのが半額以下のヒトシだったりするのだ。

48

「乾パンの缶の中には何で氷砂糖が入ってるんやろうな」ヒトシが急に質問する。
「さぁ、たまには甘い物が食べたくなるからじゃない?」洋子さんが何でそんな事をとでも言いたげにヒトシの顔を見る。
「あれは口の中を潤すためだよ。食べてばかりだとパサパサになるからね」伊藤くんが自慢気に答える。伊藤くんは知らない事以外は何でも知っているのだ。
「乾パンって結構うまいよな」カズはそう言うと席を立つ。
「どこ行くの?」
「ちょっと乾パン買ってくるわ」
「何それ」思わず手を叩く洋子さんである。
 売店に向かうカズを目で追いながら、ヒトシが「分からない物ってあるよな〜」と感慨深げに言った。
「何がよ?」なぜかヒトシに対しては厳しい洋子さんである。
「うちの近所に変な自販機があるんや」
「変な自販機?三角形とかそういう事?」
「いやちゃうちゃう、そやから言うてやらしいもん売ってるとちゃうで。タバコの自販機やねん」
「そんなのそこら中にあるじゃない」
「うん、そやねんけどその自販機の場所が全く通りに面してないねん」
「じゃあどうやって儲けるんだろうね」伊藤くんは興味深々の顔でヒトシの眼鏡を見る。
「そこや。まるでさおだけ屋みたいやろ?」ヒトシの目がいたずらっ子のように怪しく光る。いや、光ったのは眼鏡か。
「これにはからくりがあるねん」
「ん?何の話してんだ」カズが缶入りの乾パンを手に持ち席に着く。
 ヒトシが手短に説明する。
「どんな場所?」洋子さんも興味を持ったようだ。
「田んぼのそば」
「じゃあ、そこの所有者のために建ててるんじゃないのか?」カズはすでに缶を開け、中の乾パンをバリボリと食っている。
「そんなん採算合わんで」
「そこはウォーキングコースか?」
 カズの質問にヒトシの動きが止まる。そのまま止まっていた方が世の中のためかもしれない。
「あぜ道を通る奴がいるんだね?」伊藤くんはカズの質問から意味を汲み取る。
「そっか、散歩の途中でそこを通る人が結構いるのね」
「じゃ、通りに面しているのと同じじゃん」伊藤くんがからむ。
「まっ、現実なんてそんなもんやで」
「勝手にまとめるな!」三人が同時につっこむ。

「コンタクトは絶対目の後ろに回り込まないのに、怖がる人っているよね」洋子さんが話題を変える。
「うん、いるいる。目の構造を考えたらそんなのあるわけないのにね」
「えっ?そうなん?俺、子どもの頃から眼鏡やから知らんかったわ」
「俺はコンタクトだよ」カズが目をパチパチさせる。
「へ〜、そうなんや」
 おそらくカズなら眼鏡を掛けても十分お似合いだろう。
 何をやっても絵になる男とそうでない男。
「眼鏡の無い昔ってどうしてたのかしらね」
「不便だったと思うよ」
「電気も無かった時代は夜が長かったんだろうな」
「娯楽なんて全然無いもんね」
「人生の長さも全く違うんやろな」
「本なんて無かった時代は口承しかないわけだしね」
「マンガも無いなんて考えられないな」
「ほんまやで」
「マンガって再販のサイクルが短いからすごいよね」
「そうね。いろんなサイズになって出るもんね。北斗の拳とか何回発売されてるのかしら」
「ハードカバーが文庫になるまで3年かかるのにマンガなんて人気があればすぐだもんね」
学術書が高いんは、売れへんからやけど、マンガなんか安いもんな〜」
「でもマンガって今時カラーじゃないのが不思議よね〜」
「確かに白と黒のグラデーションだけやもんな」
「で、巻頭カラーなんかやと違和感を覚えたりするねん」
スーパーサイヤ人が金髪だと言われたらちゃんとそう見えるもんね」
 白髪は白髪に見えるというのがマンガのすごい所だなと伊藤くんは思う。もちろんコストの問題もあるのだろうけど、アニメ版に吹き出しをつけただけのコミックスはどうも面白くない。
 マンガというのは一コマ当たりの労力に対して滞留時間が短い。背景はあくまで設定を与えるための記号だ。
 通常、じっと背景を見つめる人はいない。描いている人には申し訳ないけど、話の先が気になってそれどころではないのだ。マンガ家を目指している人は別かもしれないが、文章ばかりのページをめくるよりは圧倒的に早い。
 だからマンガ雑誌のような手軽な消費材が存在するのだ。
 それに比べると月刊小説雑誌というのは以上に分厚い。マンガ雑誌の感覚で述べるなら、よほどの小説好きでもない限り購入しないだろう。しかも、続き物である。つまり、お目当ての小説が終わるまでは買い続ける事になる。
 あれだけの分量を読む根気があるならよほど普通の小説を買う方が安上がりだ。しかし、新作をすぐに読みたいと思う人もいるのだろう。もしも週刊小説雑誌があったなら作者も大変だろうが、読者もかなりつらいはずだ。
 日刊になれば、もうそれは拷問である。
 えっ?このブログですか?
 それは作者への拷問です、はい。

49
「この前の塩アメじゃないけどさ。異例の組み合わせというか、逆転の発想ってあるよね」伊藤くんに限らずこのような唐突な話題の転換は、大抵の場合すでにその答えが用意されている時に起こる。
 そこでこの場合もまた、当然のように次の質問が繰り返されるのだ。
「例えばどんな事?」
 伊藤くんはそんな洋子さんの返事を待っていたので、言うが早いか聞くが早いかPDAから該当データを出す。
「例えば、これこれ。新聞記事なんだけど、最近、百貨店の子ども服売り場にOLの姿が目立ち始めたらしいんだよ。さてここで問題です。彼女たちはなぜそこにいるのでしょうか?」
 正解はフリップにどうぞと言わんばかりの口調でみんなを見回す。
「子どもの服を買いに来た」
「ブー、お手つき一回」
「何よそれ。古い」
「誰かへのプレゼントちゃうん?」
「ブー。でも近いかも」
「かわいいからか?」カズが多少おどけながら言う。
「ブー。それもある意味近いけど不正解」
「オブジェ?」
「ブー。お手つき2回目」
「もう、だから何よそれ!」
「正解は自分用で〜す」
「ええっ?ほんまに?」
「うそ〜」
「意外だな」
「でしょ?中でも小6サイズが小柄な女性にぴったりなんだってさ。大人も着られる独特のデザインが受けてるらしいよ」
「ああ、なるほど」
「そう言われると何か分かる気もするな〜」
 ヒトシの発言に、つい小6の服を着た彼を想像するが、それは絶対無理だと思う伊藤くんである。
 いくら最近の小学生の発育が昔に比べていいとしても、こんな猪八戒の入る服などそうそう無いに違いない。
「で、それが逆転の発想というわけだな」やっぱり最後にまとめるのはカズである。
「そうそう。子どもと大人の女性というのは一見すると異質の組み合わせだけど、ずっと前に話したオズボーンのチェックリストの法則にもあったように意外な組み合わせが効果を生んだ例だよね。例えば、小柄な老人にも案外受けるかもしれないよ。安いというのも魅力だし、ますます少子化と高齢化に拍車がかかるのは間違いないしね」
「そうかもね。私も今度買ってみようかな」
 洋子さんならきっと似合うに違いない。ヒトシと比べると半分くらい細い。
「子ども用と言えば、昔子ども用のラジカセが高齢者に売れたらしいな」
「えっ?何でなんで?」
 カズの針にはよほど高級なエサが付いているのか洋子さんの食いつき度が高い。
「どんどん進化する技術についていけない人達がたまたま子ども用の簡易機能しかないラジカセに目をつけたってわけさ」
「そやな。確かに最近もう暗闇じゃどれが何のリモコンか分からんかったりするもんな〜。まさに暗中模索や」
「だからと言って高齢者向けとあまり宣伝しても売れないらしよ。前に小さな文字じゃ見にくいから、拡大版の地図を売りに出したらしいんだけどさっぱり売れなかったらしいんだ」
 伊藤くんも負けじとエサを付け替える。
「何で?」
「ではシンキングタイムスタート!」
「またクイズかいな」
「10秒経過」
「測るな、測るな。で、制限時間なんぼやねん!」
「そりゃやっぱり、年寄り扱いされるのが嫌なんだろう?」
「カズ、正解!」
 きっとみのもんた(本名・みのりかわもんた)ならたったこれだけで2時間は引っ張るだろう。昨夜も生放送番組を11時までやっていたのに、もう朝の番組に出ているタフな人である。正解はタメるが、疲労はたまらないのだろうか。
「で、いろんな考案の末、活字だけを大きくして外見は元のサイズのままの地図を売り出したところ飛ぶように売れたんだってさ」
「微妙な心理ね〜」
「商売って難しいな」
「そう言えば、大阪の旅行みやげにキーホルダーを作ろうとしたメーカーがあって、食い倒れ人形とかのキーホルダーだったら売れると思って許可を取りに行ったら、どのお店も承諾してくれなかったのに、ある事をしたら逆に是非作って下さいって言って来たらしいよ」
「何やねんーあっ、言うてもた」ヒトシが頭に手をやる。しかし遅い。
「ではラストミステリー不思議発見!」
「何がラストやねん!しかももう問題出てるやん!」
 ヒトシ人形の叫びが虚しく響く。
 カズが笑いをこらえている。
「何か仕掛けがあるとか?」洋子さんがかわいい顔で尋ねる。生命保険の勧誘なら業績アップ間違い無しの笑顔である。
「まぁ、あるっちゃあるかな」
 伊藤くん、まるでタモリ(本名・もりたかずよし)みたいである。
 夢のある芸能人?のはずなのに公務員のような生活を送っている人である。もっとも収入はちょっとした国家予算くらいあるのだけど。そりゃ笑ってもいいともだろう。
「目が飛び出すとか?」
西川きよしやないねんからそんなんちゃうやろ」
 カズに先制点を取られまいとヒトシ必死の牽制である。そんな事をしても雨の日に水まきをするようなものだけど。
「造形がリアルというのはどう?」洋子スマイルが輝きを増す。
「ブー。そういうのじゃありません」
 本当は正解にしたいところだけど、そこはグッとこらえる伊藤くんである。
「音が鳴るとか」
「それも外れ」
「もう何やねん!分からん分からん」
 一番牽制したい生物が逆ギレである。カンニングの竹山に似ているくせに答えはカンニングできないらしい。
「正解は電話番号を付けた、です」
「そうか宣伝効果としては抜群やな」
「でしょ?キーホルダー、ちょっと工夫でこのうまさ」
「お前は神田川か!」
「あなたはもう忘れたかしら〜」
「はいはい」
 洋子さんの冷たいつっこみが洗い髪に芯まで冷えた。若かった怖い者知らずの二人にも怖いものはあるようである。

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「メールの返信で、ちょっと残念に思う時って無い?」
「どーゆーの?」ヒトシがDo you know?にかけた発音で茶化す。そんな技を使わなくても容姿だけで十分元は取れているのに。
「アドレス変更の一斉送信」
「あっ、あれか。確かに送信元にズラズラといろんな人のアドレスが出てると何かプリント配られてるみたいやもんな〜」
「だから私は返信する時はそのまま返すんじゃなくて、必ず登録したアドレスから送信する事にしてるんだ」
「へぇ〜」
 いかにも洋子さんらしい配慮だなと伊藤くんは思う。メンバー4人とも急に集まる事もあるので一応全員メアドは知っている。
 一応というのはヒトシやカズと交わす回数に比べて、洋子さんとはあまりやりとりしていないからだ。洋子さんのメールは珍しく絵文字が少ない。女の子のメールはもっとかわいい感じの物が多いけど、その方が洋子さんらしいなと思う。
「あとノートの芯折れも気になるな」
「芯折れ?」今度はカズが質問する。
「ほら、シャーペンか鉛筆で書く時、途中で芯が折れたか入れ替えたかで濃さが変わるじゃない?あれよ」
「ふっ、いかにもお前らしいな」
「そうかな。気にならない?」
「俺はならないけど。言われるまで思った事も無かった」
「俺もないな〜」
 伊藤くんは無言である。びっくりしているのだ。芯の話に、ではない。カズが洋子さんの事をお前と呼び、それを洋子さんが自然に受けた事に、である。考えすぎだろうか?鈍行に乗っているヒトシは全く気づいていないようだ。
 伊藤くんのノートは全部電子データだからそのような不揃いな文字列は存在しない。そのうち公的な場所では文字を手で書く事は無くなるかもしれない。
「伊藤くんは何か気になる事って無いの?」
 黙っているので気になったのか洋子さんがこちらを向く。
「えっ?あ、ああ」
 少し狼狽するが、まさか本当に気になる事を聞くわけにもいかず、思いついた事を口にする。
「ラジオとかで番組の途中にニュースや気象予報を読む人が専門の人に変わる時ってあるよね」
「うん、あるある」
「読んだ後で必ずありがとうございましたって言うのが何か変だな〜と」
「どうして?」
「だって聞いてる僕らからすればラジオの向こうにいる人だし。例えば、レジの中で偉いさんが変わってくれた時にわざわざ客に聞こえる声で店員同士がお礼を言ってるようなもんじゃないかな」
「ああ、なるほど」
「確かに変ね」
「そんなん思った事ないわ〜。大体、俺ラジオ聞けへんし」
 良かった。とりあえず合格ラインには達したようだ。
「そういうヒトシは何か気にならない?」
「そやな〜。荷物に貼ってある天地無用ってシールが気になるな」
 ヒトシは配送業者でバイトしているのだ。
「どういう意味か分かるか?」
「う〜ん。天地無用だから上下逆さまにしてもいいって事じゃないの?」
「そうそう、みんな最初はそう思うねん、せやけど実際はその反対で、逆さにしたらあかんちゅー意味やねんで」
「うそっ?」
「ほんまや。そもそも逆さにしていいんやったら貼る意味無いやん!」
「それもそうね」
「俺は関西と関東の違いが気になるな」
「マックとマクドか?」
「いや」
「ほんなら相手の事を自分と言う事か?」
「いやいや」
「そしたらしんどい事をえらいって言う事か?」
「いや言葉の事じゃない」
「もうヒトシ黙ってなさいよ」
「はーい」ヒトシがとぼける。
エスカレーターで関西は左側を空けるのに、関東は逆って事さ」
「ああ、その事か。確かにそうね。こっちに来たばかりの時、戸惑った事を思い出すわ。もう随分前だけど」
「関東の人から見れば、逆に何でだろうと思うんだろうな」
「よその家のみそ汁やご飯の味が違うみたいなもんだね」伊藤くんも同意する。
「旅行をする一つの意味は発想の思考法を洗濯機にかけるようなものかもしれないな」
「どういう意味?」
「その土地ならではの習慣に触れる事で考え方が変わるって言う事さ。同じ所にいると一定の考え方しかしないようになるのが人間だからな」
「そうね。いろんな価値観に触れる方が豊かな人間になる気がするわ。自分の知らない事を知るのって楽しいもんね」
 知りたい事を知れないのは悲しいけどねと伊藤くんは心でつぶやく。
 ところで伊藤くんは旅が好きではない。正確に言えば旅が嫌いなのではなく、枕が変わると眠れないのだ。
 だからもしもどこでもドアがあったら、世界遺産を毎日でも見に行こうと思う。
 もちろんそんな事は現在の科学技術では夢物語である。
 今のところ伊藤くんができる事と言えば、大画面でヴァーチャルトリップする事くらいである。
 でも意外にそれで満足できる伊藤くんはやっぱり旅が好きではないのかもしれない。

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 伊藤くんは家に帰り、マックを触っている。もちろんパソコンの事だ。

 ウインドウズ全盛期にあっても伊藤くんはマックが好きである。おそらく両者の間に性能的な差はそうは無い。

 もしあるとすればそれはセンスの差だろう。

 例えば、ファイルに名前をつける。

 それはごく当たり前の事だ。その昔、まだウインドウズが出始めた頃はファイル名に三文字程度しか付けられなかった。そこで、他のファイルと区別するにはそれなりに工夫が必要だった。

 しかし、今は制限も無い。

 但し、マックの場合はファイル名に色をつけられる。

 何でも無い事かもしれないけれど、設計者の思考がそこに見える。

 他にも、アイコンの絵がユーモラスだ。

 メニューバーから外す時には煙が出て消滅したり、あるキーを押すと、使っているソフトが瞬時に分割表示されて四方に拡散する。そんな何気ない演出の一つ一つが伊藤くんの心を捕らえて離さない。

 一言で言えば触り心地がいいのだ。

 キータッチが軽快で文字表示が美しい。

 伊藤くんの使っているのはノート型だけど、ぱたんと閉じれば中断されて、開けばDVDや音楽が止まったところから再生される。

 同じ事ができるパソコンはきっと他にもあるだろう。そもそも最新機器のモニターをしている伊藤くんの場合、自分なりにカスタマイズされた商品を作ってもらう事も可能である。

 しかし、最後には愛着のある物だけが手元に残る。

 便利で安い物が売れる一方で、高くても自分の気に入った物が欲しいというのは自然な感情だろう。

 特に毎日使う物は気に入らなければストレスの元である。

 まだオールインワンパソコンと言われ出した頃には、CDを聞きながらワードを触っているだけでも大変な事だった。

 ましてや複数のソフトを同時に起ち上げるマルチタスクなど、夢のまた夢だった。メモリーも足りなければ、ハードディスクだって足らない。

 500Mで十分だったあの時代。

 確かに文字情報だけならそれで十分だった。

 しかし、映像がデータに変わった途端、情報量は飛躍的に上がった。

 DVD片面1層だけでも4Gである。しかも時代はテラに移行しようとしている。フロッピーディスクが1Mの頃からすればどれだけ情報量が増えたかは明白である。

 けれども…と伊藤くんは思う。
 どれだけ情報量が増えようとも、それを扱うのは人間だ。

 大容量のハードディスクを搭載した録画機には電子番組表から自動で番組名が入り、種類別に整理される。

 自分好みのキーワードを設定していれば、容量がある限りどんどん保存される。

 だけれども、それを見るのは人間だ。

 見れずに捨てきれない番組はあっという間に蓄積される。

 便利だと機械に頼っていたら、今度はデータの取捨選択に振り回されるのだ。本末転倒である。

 これではビデオの整理に悩まされるのと基本的に変わりない。

 むしろビデオカセットの値段が高くて、録画時間も短かった頃の方が本当の意味での選択ができたのではないだろうか。

 フリーソフトを検索すると山のように検索結果が表示される。そこにはとても素人が作ったとは思えないようなソフトが存在する。

 けれども一つずつのソフトに対する感動は薄い。

 選択肢の多さが逆に束縛を生むのだ。

 自由とは束縛があってこそ感じ取れる感覚なのかもしれない。

 伊藤くんはマックのデータをいじりながら、デジタルの功罪の一つは重さを感じない事かもしれないなと思った。

52
 こんな夢を見た。

 歯の出た男が舞台の真ん中に立っている。

 そして、私って○○だな〜と思う時というお題の再現VTRが流れている。

 伊藤くんはそのVTRを見ながら、事前に書いて提出した自分の体験談を反芻する。いつこの司会者が自分を指名するのか分からないからだ。

 その男の目は笑っていない。

 高速に回転するコンピューターは次の獲物をシミュレートし、自分の笑いのエサを探し求めている。

 この番組は若手芸人にとっては戦争である。ここでもし若に気に入ってもらえれば、一躍スターになる事ができる。もしかしたらレギュラー番組さえ持てるかもしれないのだ。

 しかし、現実はそう甘くない。

 何しろ目の前の男がずっとしゃべっているのだ。しかもその目は間断なく芸人の能力を推し量っている。自分のネタに自信が無い時は目を伏せるに限る。もしも目が合い、名指しされた時は勝負するしかない。

 前列には必ずいいトスを上げてくれる有名高校の名前をつけた芸人や太ちょ芸人が陣取っている。

 他にも、名前紹介以来ほとんどトークシーンが無いイケメンライダー俳優席やグラビアアイドル席、土佐犬の綱のようなねじりスカーフを首から提げている大物俳優席と強面俳優席、天然女優席など、すでに予約席で一杯のため、若手芸人席を獲得するだけでもかなりの運が必要なのだ。
 
 その席の一つに伊藤くんがなぜか座っている。

 そして、ネタ繰りに一生懸命なのである。

 目の前の男は口からツバを飛ばし、転げ回っている。

 すでに収録は3本目であり、6時間は超えていると聞くのに男はますます饒舌になっていく。

 会場は笑いの渦に巻かれていく。

 しかし、男の目は依然として笑っていない。

 貪欲に笑いを求め、いかに自分に笑いの焦点が集まるかを綿密に思考している。

 斜め向かいの天然女優がしゃべっているが、緊張のあまり何を話しているのか耳に入らない。意外にも場内は笑いが充満している。

 あなどれない。

 これだから天然は怖いのである。

 今度はさらに隣の若い男が話し出し、また笑いを誘う。

 この男性は子どもの頃モデルをやっていたらしいが、今では歌手としてデビューし、去年は見事紅白出場まで果たした。端正な顔立ちでハーフの二枚目だが、英語は話せないらしい。そして、なぜか芸人でもないのに笑いという事に執拗にこだわりをみせるのである。

 若手芸人危うしである。

 そして、なぜか伊藤くんも同じ心境である。
 
 ふいに出っ歯の男と目が合った。

 キタッーーーーーーー。

 伊藤男の背筋に電流が走る。

 萌え〜ではなく、「もーええっ!」と若手つぶしに余念の無いこの男が今、伊藤くんをまっすぐに見据える。

 やばい、どうしよう?

 このネタでイケるのか?

 カットされたりしないだろうか?

 男のキャラクターがついた指し棒でテーブルを何回叩くかがオンエアで使われるかどうかの判断基準である。

 その叩き具合で一族郎党の生活が大きく変わるのである。

 全く恐ろしい番組である。

 から騒ぎどころか大騒ぎである。

 というところで目が覚めた。

 良かった。夢だったのだ。

 伊藤くんは言いようのないプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、顔を洗いに階下へと降りた。