伊藤くんのひとりごと

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 靴が道端に落ちていた。

 片方だけ、である。

 その時、人はどういう反応するか、これはそういう実験なのかもしれないと思う前に、まず誰が落としたのだろうと伊藤くんは考えた。

 人間の頭脳というのは空白を埋めようとするようだ。

 理解できない物に出会うと自分なりに理解したくなるのが伊藤くんである。

 もちろん、常にそうしているわけではない。中には理解できない物に出会ってる事すら気が付かない場合もあるだろう。

 しかし、目の前に靴が落ちている。

 繰り返すが、片っぽだけ、である。

 次に裸足でどうしたのだろう?と考える。

 靴下ははいていたかもしれないが、靴を二重にはいている人など普通はいないだろう。

 長靴をはいた猫だって現実に出会った事は無い。

 そうして、しばらく歩くとそこにもう片方の靴があった。

 しかもさっきと同じ靴のように見える。

 つまり、一揃いの靴が同じ行く先に向かって片方ずつ落ちていたのである。

 ここで、さっきよりは少し安心する。

 靴が揃ったというだけで何%かの安心感を得る。

 では、この人は脱いでいったのだろうか?

 まさかそんな人もあるまい。

 伊藤くんにはまだ読者より持っている情報がある。

 それはこの靴が運動靴だという事だ。

 おそらく、この靴自体は室内用かもしくは競技用なのだろう。だから実際に歩いている時には別の靴をはいているのだ。

 まさか靴が脱げた事に気付かずに歩く人などいない。

 だからこれは落とした事に気付かなかった靴ではないかという結論に至った。

 靴というものが落ちているだけでドキッとするのは伊藤くんだけではないだろう。あるいはそんな効果を狙った実験かもしれないというのはここまで考えた後で思いついた事だ。

 ところで幼い子どもにはパントマイムというのは意味を成さないらしい。つまり、子どもには見えないものは見えないものなのだ。

 それに対して大人というのは見えないものにも理屈をつけたがる。

 なぜ見えないのか、あるいは見えないはずのものがなぜ見えるのかに自分なりの理屈をつける。

 美輪明宏の話ではない。

 仮にその答えが間違っていても自分なりに納得できればそれで構わない。

 大人はルールを理解してから、例外にとりかかる。逆に子どもは場当たり的な経験の蓄積からルールを作り出す。

 語学の学習でも、スポーツでも、仕事でも、その違いがある。

 どちらがいいという話ではない。ただそういう傾向があると思う。

 先ほどの靴を見て、子どもはただ片方の靴がそこにあるだけと認識するかもしれない。片方の靴だけで片足跳びをしながら、遊ぶ人だっているかもしれないという考え方もあるだろう。それ以外にも大人が想像もできないような事を考える子もいるだろう。

 一般に年を取るほど頭脳に柔軟性が無くなるのは、常識にしばられて生きている大人だからなのかもしれない。

 今日もそんな事を考えている伊藤くんであった。